ケネディ・ホール著『聖ピオ十世会:擁護』聖ピオ十世会はローマとの交わりに(in Communion)ある

ソース: FSSPX Japan

ケネディ・ホール著『聖ピオ十世会:擁護』5

「聖ピオ十世会は離教状態にある」という誤った非難を乗り越えると、他の異議が提起されることがあります。これらはしばしば「彼らはローマと『完全な交わり full communion』にないと言われた」という形で始まります。

もしあなたが交わりから「除外 (ex)」されていないなら、あなたは交わりの中に(in)います。カトリック百科事典によれば、「交わりの中にある in communion」こと、あるいは「交わりから除外されている excommunication」(破門)ことは、秘跡を受ける資格と「教会という社会の共通の祝福」に与ることを指します。

破門について同百科事典は次のように述べています。「破門(ラテン語 ex:外、communio または communicatio:交わり —— 交わりからの排除)は、主要かつ最も厳しい懲罰であり、有罪のキリスト教信者を教会という社会の共通の祝福への一切の参加から剥奪する、治療的・霊的な罰である」。

したがって「交わりの中にある」者は聖体拝領を受けることができますが、「交わりから除外された」者は受けることができません。

離教と同様に「交わり」とは二項対立の概念(「はい」か「いいえ」か)であり、ポストモダンの非合理的なジェンダー理論のような段階性を許容しません。したがって、カトリック信者が「部分的な交わり」にあるということは、誰かが部分的に妊娠しているとか、部分的に誰かと結婚しているとか、部分的にこの性別やあの性別であるのと同じくらいありえないことです。

「完全な交わり」や「部分的な交わり」は、第二バチカン公会議後に普及した用語です。28 これらの用語は聖伝の教えの中には、つまり教父たち、教皇たち、公会議、教会の博士たち、あるいはカトリック教義の初代教会から十九世紀にわたる聖人たちによる教えの中には、今日のように使われている形ではどこにも見出せません。

【28 公平を期してひとこと言えば、精神的な意味では、「完全な交わり」という言葉はさまざまな著者によって「天主とのより深い関係」を指す意味で使用されています。】

しかし第二バチカン公会議以後の論理を用いれば、正教会の諸派はカトリックと「完全な交わり」にない、あるいはプロテスタントは「部分的な交わり」にあると言われ得るようになります。しかしこれはカトリック信者にとって混乱を招くものです。 仮に「部分的交わり」といった用語を教会に属さない集団について用いることを認めたとしても、聖ピオ十世会には適用できません。なぜなら、すでに見てきたように少なくとも1990年代初頭からローマ(ローマ教皇庁)によって明らかに教会内に位置づけられていたからです。

また、教会の恒久的かつ不変の教えによれば、正教会諸派やプロテスタントなどの団体の構成員はカトリック教会の成員ではない点にも留意してください。

教皇ピオ十一世は力強く宣言しました。

「この使徒座がカトリック信者に、非カトリックの集いに参加することを決して許さなかったのが何故かが理解できただろうと思います。キリスト者の一致は、反乱分子がかつて自分たちが不幸にして捨て去ってしまった唯一の真なるキリストの教会に立ち戻るのを促すことによるほか得られません。… キリストの神秘体、即ち、教会は、物理的な肉体と同じように唯一であり均一であり、完全に節々がついています。従ってこの神秘体が互いに散らばり隔離している肢体によって作られ得ると言うことを主張することは、全く非論理であり笑い事です。従って、キリストの神秘体に一致してないものは誰であれその肢体たり得ず、その頭キリストにつながることもできません。」(『モルタリウム・アニモス』15項)
 

【もしも聖ピオ十世会が「完全な交わり」になかったとすると】教皇ピオ十一世の言葉を真摯に受け止めるならば、バチカンの諸聖省が繰り返し「良心に従って聖ピオ十世会の聖堂でミサに出席できる」と述べてきたことは、教会に対する重大な冒涜となります。
ここに私たちは行き止まりにぶち当たります。ローマの聖省がカトリック信者たちに聖ピオ十世会のミサに出席を容認したのは誤りか、あるいは、聖ピオ十世会はカトリック司祭からなり、信徒は秘跡を受けるために彼らに近づくことが許されるのか、です。

皮肉なことに、ローマからの継続的な情報提供がカトリック信者に「聖ピオ十世会の聖堂を普通のカトリック教会と同様に利用できる」と信じ込ませたことが誤りだとすれば、これはローマにおける深刻な教会的・教義的危機を意味し、技術的には信徒を誤った道に導いていることになります。このような状況は真の信仰上の緊急事態と危機を構成し、皮肉にも聖ピオ十世会の立場を正当化することになるでしょう。

さらに、トリエント公会議の公教要理(おそらく史上最も権威ある包括的な公教要理)も、教会における (戦闘の教会)の構成員に関する教えを明確に述べています(29)。そこにはこう記されています。

「戦闘の教会には善人と悪人という二種類の人がいる。悪人は、善人と同じ秘跡にあずかり同じ信仰をもっているとはいえ、その生活と道徳の点で善人と異なっている。」

【29 公教要理がそれ自体では絶対的に誤りがないとは言えませんが、トレント公会議の公教要理、すなわち「ローマ公教要理」は、すべての人に受け入れられた聖伝の教えのみに基づいており、今日の危機の核心となっているような斬新な表現は含まれていないことを指摘しておく必要があります。現代のカトリック教会のカテキズム(公教要理)には当然ながら大きな価値がありますが、公会議後の混乱の中で、カテキズムにおいてさえ明確な定義文を見つけることが難しいのは、紛れもない事実です。】

トリエント公会議の公教要理は、地上におけるキリストの教会の成員とは、聖なる母なる教会における同一の唯一の真の信仰を公言し、同一の秘跡に参与する者と定義していることに留意してください。数段落後、誤解を避けるため、公教要理は次のように述べています。

「ただつぎの三種類の人々だけが教会から除外されていることになる。それはまず未信者、つぎに異端者と離教者、さいごに破門された人々である。」30

【30 先に述べたように、破門はカトリック信者から秘跡の生活を否定する罰であり、それがなければ救われることは不可能ですが、破門されてもカトリック信者としてのアイデンティティは保持され、罰が解決された後に秘跡に再び入ることができます。】

反論として、破門や離教行為の告発があった以上、聖ピオ十世会の成員は「教会の囲い」から排除されたグループに属するに違いない、と言う者もいるでしょう。

しかし、1991年のハワイ事例から、聖ピオ十世会が提供する秘跡に近づいた家族を破門した司教が戒告を受けたことがわかっています。これは、30年以上前から、教会の立場では、聖ピオ十世会の教会法上の状況がどうであれ、「同じ秘跡に与る」ことが明らかであったことを示唆しています。

さらに、破門は2009年に正式に解除されたと認められており、前述の定義を聖ピオ十世会に適用することは不可能です。

また、もし誰かが聖ピオ十世会の司祭たちが現在何らかの離教状態にあると主張しようとするなら――本書の前半で論じた通り――再びZ神父は、彼らが離教状態や破門状態にあるどころか、聖職停止状態にあることすら不可能であるという痛烈な例を示しています。

先に引用したブログ記事の中で、彼はこう記しています。

「…聖職停止された司祭は権限を受け取ることができない。もし聖ピオ十世会の司祭たちが権限を受け取ることができ、実際に各地で受けているのなら、彼らは聖職停止されていないのだ!」

聖伝の定義は、教会の一員である客観的な状態を指す正確なカトリック用語を与えてくれますが、残念ながら過去数十年間、それらの用語は誤った新たな用法で用いられてきました。

キリストの聖なる御体を拝領し、教会の秘跡に参与することを指す代わりに、「交わり」という言葉は、ある種の「連帯感」や「結束」、あるいは特定の信念や慣行を共有することを曖昧に指すために用いられているのです。これは現代主義者の常套手段です。つまり明確な意味と豊かなカトリックの聖伝を持つ同じ言葉を用いながら、一般信徒を混乱させる異なる意味でその言葉を使うのです。多くの人々は、真のカトリック的意味を知らず、一般的な用法に慣れ親しんでいるため、こうして騙されてしまうのです。

私たちはこれら全てを考慮し、論理が導く結論に従わねばなりません。すなわち、

聖ピオ十世会の信者はカトリック教会のどの教区でも聖体拝領を受けられるか? はい。

同様に、カトリック信者は聖ピオ十世会の聖堂で聖体拝領を受けられるか? はい。

聖ピオ十世会の全構成員は聖カトリック教会の洗礼を受けた信徒であり、破門された者もなけえれば離教も存在しない。31

【31 ここで留意すべき点は、司祭であろうと一般信徒であろうと、聖ピオ十世会の会員であろうとなかろうと、誰でも何らかの犯罪を犯し、厳しい刑罰を受ける可能性があることです。ここでは一般的な観点から、本稿執筆時点で公に知られている事実に基づいて話を進めています。】

明らかに、聖ピオ十世会は交わりの中にあり、交わりの外にはありません。批判者がどんなに長ったらしい作り話を紡ぎ、終わりのない引用を掘り出して新奇な神学的用語に訴えようとも、交わりの中にあります。

明確にするために、あたかも教会論的なジェンダースペクトラムのイデオロギーを主張するかのように、交わりの程度を論じるために用いられる新しい用語は避けることが有益でしょう。

聖ピオ十世会のローマとの交わりの状態に関する別の異論は、彼らが真にローマと「一致」しているかどうかを言及するかもしれません。

「ローマとの一致」が、これまでカトリック教会が理解してきた通り、すなわち教会のすべての信仰上の教えを天主的かつカトリック的信仰をもって受け入れ、同じ秘跡を執行し、教会の正当な権威(すなわち教皇と司教たち)を受け入れることであると理解されるならば、私は聖ピオ十世会が実際にローマと一致していると主張します。

しかしながら、注目すべきは、「カトリック」の名を掲げながらも、秘跡を受けず、数多くの絶対的な信仰の教義を拒絶する者たちが数多く存在することです。にもかかわらず、彼らは聖ピオ十世会に対して日常的に向けられるような中傷や誹謗を、ほとんど受けることがありません。

その理由を自問してみてください。

誰かが聖ピオ十世会はローマと「一致していない」と言うなら、率直に言って、その人は混乱しており、カトリック信者に拘束力を持たない、あるいはある意味で一貫性すら欠いたカトリック教会論の概念を持っている可能性が高いと言えます。

さらに、バチカンは数多くの機会に聖ピオ十世会の指導者たちに様々な会合のためにローマに「報告」するよう要請しており、聖ピオ十世会の指導者たちは常に従順に応じています。そうした訪問の際、彼らは(他の宗教団体や政治国家の指導者たちのように)「対等な立場」やローマの権威の外にいる者としてではなく、むしろ上司に対する部下として自らを位置付けています。

聖ピオ十世会の司祭たちがカトリックであることを証明するために特別なバッジを付ける必要があるのでしょうか?それとも、彼らの有効なローマ・カトリック司祭職、カトリック教義への揺るぎない忠誠、それに伴う秘跡だけで十分なのでしょうか?

20世紀を代表する偉大な神学者の一人にルイ・ビヨ枢機卿(Louis Billot)がいます。ルフェーブル大司教が神学生だった当時、ローマのフランス人神学校長を務めたアンリ・ル・フロック神父は、ビヨ枢機卿の著作について次のように記しています。

「それらは聖なる学問の神殿を形作り、宝物が蓄積されています。また『兵器庫』とも言えます。そこでは現在も未来も、真理の擁護者たちが、彼が構築した知的遺産と彼が定めた発展の原理の中に武器を見出すでしょう。彼の教義と方法は、誤謬や不毛な意見の洪水に沈みつつある精神を救いたいと望むならば、これまで以上に必要とされています。」32

【32 : S.D.ライト、「教会論の20世紀の巨匠によれば、教会はどのようにして『信仰において目に見える形で一致する』のか?」WMレビュー、https://wmreview.co.uk/2022/09/22/tradivox-review-iii/#_ftnref3

ビヨは、教会の「一致は主要に共同体的な教導権(social magisterium)によって教えられた同一の信仰の共通の告白に存する」と記しました。33 (強調は筆者)

またビヨは「この交わりの一致は、信徒の共同体において、信仰の一致を前提とする」とも記しています。34 彼は、信仰の一致こそが「一致の特質における最も重要な側面」と言います。(強調は筆者)35

【33, 34, 35については注32と同じリンク先を参照してください。】

この偉大な神学の巨匠から、教会との真の一致には、信仰の一部ではなく、同じ信仰を受け入れて公言しなければならないということを学びます。批判者は、聖ピオ十世会の司祭たちが真の信仰を公言しているにもかかわらず、地元の司教と正常な協力関係にないため、ローマとの真の一致にはないと言うかもしれません。しかし、もし地元の司教がカトリック信仰全体と協力関係にないとしたらどうでしょうか?

聖ロベルト・ベラルミーノは教会の一致を次のように定義しました。

「私たちの定義はこうである。教会は二つではなく一つであり、この唯一かつ真の教会とは、正当な牧者たち、とりわけ地上の唯一のキリストの代理者であるローマ教皇の統治のもと、同じキリスト教信仰の告白と、同じ秘跡への交わりによって結ばれた人々の集まりである。 この定義には三つの要素がある。つまり、真の信仰の告白、秘跡の交わり、そして正当な牧者であるローマ教皇への服従である。」36

Rev. Fr. François Laisney SSPX, “In Defence of Archbishop Lefebvre,”

ベラルミーノの定義とそれが聖ピオ十世会の状況にどう適用されるかについて、聖ピオ十世会のフランソワ・レネー神父は次のように論じています。

「内的な一致と外的な一致があります。なぜなら人間は肉体と霊魂で構成されているからです。霊魂を一つにするのは肉体ではなく、霊魂が肉体を一つにするのです。したがって、この二つの次元のうち、教会の内的な一致は疑いなくより重要であり、他の一致の原因です。」

これは、一人の司祭が単に外的に教会と一致しているだけでは不十分であることを意味します。なぜなら、内的に教会と一致していなければ、その外的に表される一致だけでは足りないからです。また、ある人が内的にカトリック教会と一致しているならば、特定の外的状況によって通常の一致の表れが不可能になっていたとしても、その人を教会の外にいるとは言えないのです。

教会の危機は、多くの場合カトリック信者を非常に困難な立場に置いています。聖ピオ十世会の聖堂に通うカトリック信者が離教者として中傷されることはよくあるが、その代りは、教会の一致を破壊する誤謬を推進し奨励する司教のもとで、神学的な欠陥によってカトリックの宗教全体と一致していない小教区の教会に通うことです。

明らかに、全カトリック信仰を完全に信じ、それを信徒たちに伝える聖ピオ十世会の司教たちには問題はありません。

ここで私が指摘したいのは、「ローマと真に一致していない」という表現には非常に幅広い解釈があり、このような不正確な用語は避けるべきだということです。それらはあまりにも容易に誤りと誤解を招き、それによって人は愛と一致に対する罪に陥りやすいからです。二千年にわたる歴史の中で、教会は正確な用語を発展させてきました。私たちはそれらを用い、正しく使用すべきです。「離教」「交わり」「破門」といった用語がそれにあたります。

聖ピオ十世会が離教状態でも破門状態でもないことは十分に証明されています。カトリック教会に属するための必要条件を再評価すべきでしょう。教会はキリストの神秘的な体であり、主イエズス・キリストが設立された唯一の教会です。教会に属するとは、教会の全ての信仰の教義を保持し、同じ秘跡を授けたり受けたりし、教会の位階制度の正当な権威を認めることを意味します。

これらの基準に照らせば、聖ピオ十世会は正真正銘のカトリックの団体です。

皮肉なことに、もし批判者が聖ピオ十世会がローマと「交わり」あるいは「完全な交わり」にあることを認めようとしないならば、彼は、教会内の他の聖伝の修道会らの交わりの完全性についても疑問を呈さざるを得なくなるでしょう。

教皇ベネディクト十六世は2007年にこう記しています。「いうまでもなく、完全な交わり(full communion)を生きるためには、以前のミサ典礼書の使用を守る共同体の司祭も、原則として、新しいミサ典礼書に従って典礼を行うことを排除すべきではありません。実際、新しい典礼を完全に排除することは、新しいミサ典礼の価値と神聖性を認めることと相いれません。」37

【37 教皇ベネディクト十六世の全世界の司教への手紙-1970年の改革以前のローマ典礼の使用に関する「自発教令」の発表にあたって

もしあなたが聖ピオ十世会の批判者でありながら、聖ペトロ兄弟会や王たるキリスト至高司祭会によるミサに参列しているなら、司祭に「新しいミサ」を捧げる意志と能力があるかどうか尋ねてみるべきでしょう。もし司祭にその意志と能力がないなら、ローマとの「完全な交わり」を望む彼には運がないかもしれません。皮肉なことに、聖伝主義者で聖ピオ十世会に批判的な人物が、自らも知らぬ間に部分的交わりの離教的思考をもち、離教の共犯者となっている可能性すらあるのです!

そうであるなら、私たちはこう自問すべきです。ある人が、聖ペトロ会の司祭(この司祭は新しいミサを捧げない)の教会で聖伝ミサに参加して、しかもアンジェルス出版(聖ピオ十世会系の出版社)のミサ典書を用いてミサに与っているならば、果たしてこの人はローマと真に交わりを保っていると言えるのか?と。

さらに、教皇ベネディクト十六世が、司祭が「完全な交わり」を享受できない理由として挙げた論拠は、「新しい典礼を完全に排除することは、新しいミサ典礼の価値と神聖性を認めることと相いれない」ということに基づいていました。したがって、これは逆転させることができます。もし新しいミサの拒絶や排除が「完全な交わり」を奪うのであれば、聖伝のミサを排除または拒絶する司祭、司教、あるいは教皇でさえも「完全な交わり」を奪われていると容易に言えるでしょう。ベネディクト十六世が書いたように、この考え方は、聖伝の典礼の「価値と神聖性を認めることと相いれない」からです。

いったい何人の司祭や司教たち――古いミサ聖祭を捧げず、今後も捧げない司祭や司教たち――が「完全な交わり」にいないことになるのでしょうか?

もちろんこれはベネディクト十六世の言葉の荒唐無稽な解釈ですが、同時に「交わり」に関する公会議後の理解の荒唐無稽さを論理的帰結まで突き詰めた結果でもあります。

聖ピオ十世会のローマとの交わりの本質について記されたことが批判者にとって不十分ならば、聖ロベルト・ベラルミーノと恩寵の博士である聖アウグスティヌスの引用を参照すべきです。

ベラルミーノはこう記しています。

「破門された者が、その破門が不当であった場合、洗礼、信仰の告白、正当な司教への従順を保持するなら、それゆえに天主の友であり得る。 また、正当に破門された者が悔い改めを行い、赦免を受ける前に上記の三つ[洗礼、信仰告白、従順]を備えている場合、彼は破門状態のままでも教会内にいると言える。 私は答える。そのような者は、霊魂によって、すなわち救いに十分な願望によって教会内に存在するが、身体によって、すなわち地上における可視的教会の成員を真に構成する外的な交わりによってはまだ存在しない、と。」38

【上掲書】

マルセル・ルフェーブルと聖ピオ十世会に対する破門は不当であり、無効であると私は主張します(詳細は後述)。もしそれが真実ならば、ベラルミーノは破門の宣告だけでは人を教会から排除するには不十分であると明確に述べています。 またベラルミーノが述べたように、たとえ正当に破門された者が悔い改めた場合でも、外部からは見えなくとも、彼が教会と結ばれていないと断言することはできません。これは聖ピオ十世会に対する離教罪や破門の告発が正当だと言っているわけではありません。しかし、たとえ過去に罰せられたと信じる理由があっても、他者を破門状態のままであると告発すべきではないという現実を述べるために言及しました。

アウグスティヌスは『真の宗教について(De vera religione)』において、聖ピオ十世会の難題に完璧に当てはまる状況について次のように記しています。

「時に天主の摂理は、肉欲に支配された者たちの騒乱や不和の勃発によって、善き人々さえもキリスト教共同体から追放されることを許します。彼らが教会の平和のために、そのような侮辱や傷を耐え忍ぶ際、尽きることのない忍耐を示し、離教や異端といった新たな道を歩まないならば、彼らは私たちすべてに、いかに深い心からの忠誠と真の愛をもって天主に仕えるべきかを教えるでしょう。したがって、こうした人々の意図は、嵐が収まった後に必ずや帰還の道を見出すことにあるのです。しかし、もしそれが許されない場合――同じ嵐が続くか、あるいは戻ればさらに激しい嵐が起きるため――彼らは自ら進んで、自分たちが動揺させたり騒動を起こしたりした者たちの利益さえも考え続け、決して自分たちだけの分派的な集会を開くことなく、カトリック教会で宣べ伝えられていると知っている同じ信仰を、自らの証しをもって守り助け続けるでしょう。隠れたところで見ておられる父(マテオ6:4)は、ひそかにこれらの者たちに冠を授けられるでしょう。この類はめったに見られませんが、それでも例がないわけではありません。実際、あなたが想像する以上に多く存在します。かくして天主の摂理は、あらゆる男女と彼らの模範を用いて、霊魂たちを癒し霊的な民を築き上げるのです。」39

【39 レネー神父著 上掲書】

アウグスティヌスはマルセル・ルフェーブルとその司祭たちに起こることを予言したと言ってもよいでしょう。

天主の摂理は「肉欲に支配された者たち」すなわち、世俗的な教会人たちによる「騒乱と不和の勃発によって、善き人々さえもがキリスト教共同体から追放される」ことを許したのです。

大司教とその霊的子らは「教会の平和のために、そのような侮辱や傷を耐え忍ぶ際、尽きることのない忍耐を示し、離教や異端といった新たな道を歩まない」のです。

そしてこれらの英雄的な司祭たちは「嵐が収まった後に必ずや帰還の道を見出すこと」を何よりも望んでいますが、それは「許されない」でいます。なぜなら同じ嵐が今も続いているからです。

マルセル・ルフェーブルと聖ピオ十世会は決して「自分たちだけの分派的な集会」——すなわち独立した管轄権を持つ別個の教会——を設立したことはありません。

聖ピオ十世会の状況に関連するアウグスティヌスのこの知恵について、レネー神父は次のように記しています。

「聖ピオ十世会はカトリック教会内に存在します。私たちに欠けているのは正規の教会法上の立場ですが、その欠如は私たちの責任ではありません(私たちは聖ピオ十世会の表面上の廃止を決して望んでいません)。私たちはその状況の是正を望んでいますが、信仰を犠牲にしてまでもそれを望んではならないのです。正規の教会法上の状況が欠如しているからといって、私たちが教会の外に置かれるわけではありません。なぜならそれは、いかなる教会からの承認の拒否をも意味しないからです。法は秩序を定めます。そして秩序は善です。教会の使命は秩序あるものでなければなりません。それゆえ教会は教会法によって統治されます。現代主義の嵐によって今日混乱が生じているが、それは聖ピオ十世会と教会との絆を断ち切るものではありません。」40

【40 レネー神父著 上掲書】