聖霊降臨後第五主日の説教―異邦人のように礼拝してはならない(大宮と大阪)
修道士たちに会則を渡す聖ベネディクト
聖霊降臨後第五主日の説教―異邦人のように礼拝してはならない(大宮と大阪)
2026年6月28日 イヴォン・フィルベン神父
聖霊降臨後第五主日の説教―異邦人のように礼拝してはならない(大宮と大阪)
親愛なる信者の皆さま、
十戒についての教えを続けます。今日も第一戒、つまり天主に対して捧げるべき礼拝に関するものです。今日の主日の説教は、一文に要約することができます。それは、「異教徒が偽りの神々を礼拝するように、天主を礼拝してはならない」ということです。第一戒は事実、正しく天主を礼拝する方法を教えようとするものなのです。
この説教の目的は、論争のために異教徒を批判することではなく、天主が、真の天主が、礼拝する者である私たちに、何を望んでおられるかを示すことです。大宮聖堂の近くにある神社を例に取り上げてみましょう。その神社は、公園の中にあって、散歩をするのに適した美しい場所です。人々がそこへ行き、その場所の「神」とされるものに短い祈りを捧げ、そして立ち去る姿を目にします。散歩のついでであり、「ただでできるんだから、やってみよう」と、ちょっとした御利益を求めます。また、人生の特定の時期、特に結婚式や家族の節目にそこへ行き、写真を撮ったりもします。しかし、真の天主が私たちに求めておられるのは、このような形だけの外面的な慣習ではなく、自分自身を天主への捧げ物とすることなのです。これには、この説教で詳しく説明したい二つのことが含まれます。つまり、肉体と霊魂をもって礼拝しなければならないこと、また、無益な慣習を捨てなければならないことです。
一)肉体と霊魂、内面的かつ外面的な礼拝
では、私たちはいったい何者なのでしょうか。私たちは人間であり、それゆえに肉体と霊魂が切り離せない形で結びついています。したがって、天主への礼拝には、この両方の側面がなければなりません。
これが意味するのは、私たちの礼拝は単に肉体の動きだけではなく、霊魂から出て来るものでなければならないということです。実際、霊魂があってこそ、私たちは人間であり、天主の像として造られているのです。肉体は人間に依存するものであり、その逆ではありません。したがって、祈りは私たちの霊魂から出て来なければならないのです。
その結果、肉体だけで行われる祈り、単なる仕草は、祈りではありません。これを説明するために、チベット仏教に見られる「マニ車」という例を取り上げてみましょう。これは、この宗教で使われる、軸を中心に回転する小さな円筒のことです。この円筒には祈りの言葉が刻まれており、礼拝する者は霊魂を神へと向ける内面的な動きを一切起こさなくても、ただその円筒を回すだけで祈ったとされるのです。他のことをしていてもよく、あるいは円筒を風に回させるだけであっても、チベット仏教徒はこれを祈りの一つとみなすのです。
天主が期待しておられる祈りが、このようなものと関係がないことはまったく明らかです。なぜなら、祈りは霊魂の行為でなければならないからです。しかし、すぐに異教徒を嘲笑ってはなりません。この問題は、私たち全員に関わっているからです。私たちも時として、機械的に祈りを繰り返したり、ラテン語の言葉を理解しないまま、聖堂の入り口にある「日本語・ラテン語対訳ミサ典書」で翻訳を確認する時間さえ取らずに、あまりにも早く唱えたりすることがあります。唇は動いていても、霊魂が動いていないのです。
親愛なる信者の皆さま、私は皆さまに、次のことに注意を向けていただきたいと思います。それは、私たちが、肉体だけでなく霊魂をもってミサにあずからなければならないということです。これには黙想が必要なだけでなく、何が行われているかについての一定程度の理解も必要です。すべてを理解し、すべてを追うことができる必要はありません。しかし、行われている典礼行為が、自分の外部のことになってしまってはなりません。毎回のミサで繰り返される言葉であるミサ通常文を、日本語とラテン語で紹介した冊子が発行されています。ぜひこれを購入し、自宅で注意深く読んでください。ミサの全体の構成をよく知っている必要があります。ミサの初めに配られるシートを使って、その日のミサの固有文を追ってください。しかし、もし可能であれば、さらに良い方法があります。それは、聖堂の入り口で販売されている完全版のミサ典書を購入することです。使い方は少し複雑ですが、そこには一年のすべてのミサが収められています。その使い方を学び、ミサでの会衆の応唱を声に出すことを学ぶことによって、皆さまはミサにおいて、ご自分の霊魂とさらに深く一致するようになるでしょう。聖ベネディクトは会則の中で、「mens concordet voci」(心を声と一致させよ)と言っています。霊魂と肉体をもって祈るためには、典礼において唱える言葉に、心が一致していなければならないのです。
二)無益な慣習を捨てること
キリスト教の礼拝を異教の礼拝から区別する第二の必要条件は、無益な慣習を捨てることです。迷信を捨てなければならないことは誰もが知っています。これは基本的なカテキズムです。しかし、時に私たちは、それよりも身近にある危険に直面することがあります。無益な慣習という危険です。これは、祈りの習慣に重点を置きすぎて、それ自体は良いものであるものの、それを絶対化してしまうことを指します。もちろん、私は典礼規定について述べているのではありません。それは最大限の厳格さをもって尊重しなければならないものです。そうではなく、ミサに付け加えられているもので、典礼と同じほどの重要性を持ってはいないすべてのものについて述べているのです。たとえば、読誦ミサにあるミサの後の祈りを例に取り上げてみましょう。司祭は祭壇の前でひざまずき、多くの場合、現地の言葉で祈りを唱えます。これらの祈りは、通常は読誦ミサの後に唱えられますが、特定の状況下では省略されることもあります。司祭がそれらの祈りを唱えなかったとしても、その司祭が必ずしも悪い司祭というわけではありません。
座る、立つ、ひざまずくといった、ミサ中の信者の姿勢についても同様です。これらには絶対的な規則はなく、場所によって変わる場合があります。信じられないことですが、このことは、多くの聖堂で非常に頻繁に起こる対立の原因となっているのです。
このような状況をただ笑っていてはいけません。私たちは皆、ミサの中のこの要素やあの要素が、単に習慣の問題にすぎないのに、自分の期待通りに行われなかったという理由でいら立ってしまうという、意味のない慣習に陥る傾向があります。私たちの中で異教徒が眠っているのです。このことは、私たちの霊的生活の多くの実りを台無しにしてしまう可能性があり、熱心なキリスト教徒にとって大きな危険となります。自分の心をよく調べてみれば、私たち全員に頑なな部分があることに気づくでしょう。解決策があります。それは黙想会に参加することです。特に、8月に日本で開催されるイグナチオの霊操黙想会です。これは日本語と英語で行われ、おそらく別の時期にフランス語でも行われるでしょう。この種の黙想会は、私たちがさらに深く天主とつながり、天主と対話することを可能にし、無益な慣習という欠点と戦うのを大いに助けてくれます。参加することを、これ以上ないほど強くお勧めします。
親愛なる信者の皆さま、第一戒は、天主を礼拝することを求めていますが、同時に、天主がお望みになる方法で天主を礼拝すること、すなわち、肉体と霊魂をもって、そして無益な慣習を捨てて礼拝することを求めています。ですから、自分がどのように天主を礼拝しているか、よく調べてみましょう。