聖霊降臨後第四主日の説教―普遍的な法(大宮)
十戒を授かるモーゼ
聖霊降臨後第四主日の説教―普遍的な法(大宮)
2026年6月21日 イヴォン・フィルベン神父
聖霊降臨後第四主日の説教―普遍的な法(大宮)
親愛なる信者の皆さま、
日本人のための道徳、中国人のための道徳、そして西洋人のための道徳というものが、別々に存在するのでしょうか。いいえ、決してそんなことはありません。教会のカテキズムは、天主の啓示に基づき、普遍的な道徳律が存在すると教えています。これは、すべての個人やすべての文化に適用される法があるという意味です。これこそが、天主の十戒です。今日から、すべての文明と社会生活の土台である、天主の十戒についての連続説教を始めます。
一)普遍的な法
1)自然法と実定法
これらの掟は、政治権力が制定する大半の法律とはまったく異なります。その法律は、直面する問題に適応しなければならないため、常に変更される可能性があるものです。
しかし、十戒の場合は状況がまったく異なります。十戒は法律上の決定の結果ではなく、実在する現実が反映したものですから、決して変わることはありません。つまり、天主が世界をこのように創造されたのであり、誰もそれを変えることはできないのです。そのため、聖書の中では、この十戒は「十の掟」ではなく、「デカローグ」(Decalogue)と呼ばれています。「デカローグ」とは、「十の言葉」という意味です。これは、創世記の第1章にある天地創造の物語に由来しています。ご存じのように、天主は御自分の「言葉」によって世界を創造されます。各一日が一つの言葉と、光、植物、動物、人類といった創造の要素に対応しています。この物語の中で、天主は何回言葉を発しておられるでしょうか。聖書の中で数えてみれば、ヘブライ語の原文では、創世記第1章の中で「天主は仰せられた」という言葉が、少なくとも十回繰り返されていることに気づくでしょう。天主は創造の十の言葉を語ることで、世界を創造されたのです。天主の十戒、すなわち天主の十の言葉は、天主が世界を創造されたときの十の言葉に対応しています。したがって、デカローグとは、特定の民族や文化のための法ではありません。そうではなく、それはいかなる民族も無視する権利のない普遍的な法なのです。「私たちの文化では違う」などと言うことは、誰にも言えません。なぜなら、すべての人は天主の被造物なのですから。
2)デカローグと他の旧約聖書の律法
また、デカローグは旧約聖書にある他の律法とも異なります。旧約聖書の多くの律法、たとえば神殿の礼拝に関するすべての律法は、教会の時代である私たちの時代には、もう適用されません。これらの律法はすべて、特定の時代や民族に特有のものでした。しかし、十戒はそうではありません。十戒は普遍的であり、イスラエルの民だけに適用されるものではないのです。
3)デカローグと道徳的良心
デカローグは普遍的なものであるため、聖書の中だけに書かれているわけではありません。なぜなら、教会の宣教が始まる前、聖書が最初に伝えられたのは、すべての人に対してではなく、ユダヤの民に対してだけだったからです。
デカローグは、すべての人の心と良心に刻まれています。すべての人は、心の中に未熟な形のデカローグを持って生まれてくるのです。しかし残念なことに、それにもかかわらず、多くの社会の歴史を少し見るだけでも、デカローグがいかに尊重されてこなかったかが分かります。多くの社会が、自殺や離婚、中絶の容認といった、デカローグの原則の否定の上に成り立ってきました。もちろん、これは私たちが現代世界で今もなお目にする状況です。国家による否定的な影響が、このデカローグの芽が成長するのを妨げているのです。したがって天主は、聖書に書き記し、教会の宣教を通じて教えることで、これらの掟を私たちに思い起こさせなければならなかったのです。
このデカローグに関する連続カテケージス、要理教育を始めるにあたり、この二枚の律法の石板の重要性をしっかりと確認しておきましょう。これは、単に子供向けの基本的なカテキズムではありません。デカローグを尊重することは、天然資源の枯渇や地球温暖化の問題よりも、はるかに世界の未来を左右するものなのです。日本の未来もまた、世界のすべての国々と同様に、デカローグの教えを受け入れるかどうかにかかっています。
さらに、私たちの永遠の救いもデカローグにかかっていると付け加えておきましょう。これらの教えに反したままでは、天国に行くことは不可能なのです。
今日の説教の締めくくりとして、第一戒の解説の始まりの部分をお話しします。これは非常に重要な掟であり、もう2回の説教、あるいはそれ以上の回数をかけて解説を続けていく予定です。つまり、この掟はそれほど重要なのです。
二)天主を第一に
第一戒、すなわち第一の言葉は何から始まるでしょうか。それは天主ご自身から始まります。「われはなんじの天主なる主なり」。十戒は、天主に関する掟を第一に置いています。つまり、私たちの道徳的生活のすべては天主に由来するもので、天主のために行わなければなりません。したがって、単に良い市民や良い人であるだけで満足することはできません。そうではなく、すべての人には真の天主を礼拝する義務があり、個人的な善業をするだけでは救われないのです。唯一の真の天主を礼拝することは救いのための義務であり、それを拒むことは非常に重大な罪なのです。
三)像について
今日は、この掟の一つの側面である像の問題で終わりにしましょう。プロテスタントによる誤った解釈は、天主はあらゆる像を禁じていると主張しています。実際のところは、聖書のテキストを少し素直に読むだけで、その解釈が誤りであることが十分に分かります。天主が禁じておられるのは、偽りの神々の像をつくること、すなわち偶像崇拝であり、また偽りの神々の前にひれ伏すことです。しかし、天主は、他の実在するものの像をつくることを禁じてはおられません。ですから、旧約聖書の中で天主ご自身が、神殿にある契約の櫃の上に二位の天使の像を置くように命じられたのです。
ここで、もっと深い問いが生じます。それは「天主ご自身を表現することはできるか」というものです。答えは、はいでもあり、いいえでもあります。天主そのもの、すなわち三位一体は表現できないものですが、もし天主が聖書の中でご自身の像を示しておられるのであれば、私たちは注意を払いながら、それらが類似するものにすぎないことを念頭に置いた上で、三位一体の各ペルソナを表現するためにそれらの像を用いることができます。ですから教会は、父なる天主を髭のある老人で、あるいは聖霊を鳩で表現することを認めてきました。なぜなら、これらの像は旧約聖書や新約聖書に見られるものだからです。
その一方で、キリストを人間の形で表現することは絶対に必要です。なぜなら、キリストは、御托身になったからです。私たちの十字架には、主の像がなければなりません。
最後に、この掟をいささかも侵害することなく、童貞聖マリアや聖人たちの像を持って、彼らに祈ることができます。実際、旧約聖書では、天主がご自身の友人たちの祈りに応えておられます。アブラハムのソドムのための祈りや、ヨブの友人たちのための祈りがそうです。天主はご自身の友人である聖人たち、とりわけ童貞聖マリアに権限を委ねておられます。彼らに祈ることは、イエズス・キリスト、父なる天主、そして聖霊という天主の各ペルソナに捧げるべき礼拝を決して損なうものではないのです。
親愛なる信者の皆さま、すべての文化に適用される普遍的な法が存在します。そして、その中の第一のものは、真の天主を礼拝することです。これは、宗教的な像を持ったり、聖人たちや童貞聖マリアに祈ったりすることを禁じているのではなく、偶像崇拝や偽りの宗教を禁じているのです。