十戒全般について(2026年6月21日、大阪と名古屋)
モーゼの十戒
十戒全般について(2026年6月21日、大阪と名古屋)
2026年6月21日 ブノワ・ワリエ神父
十戒全般について(2026年6月21日、大阪と名古屋)
親愛なる兄弟の皆さま、
今日から、天主の十戒に関する一連の説教を始めます。各掟を個別に考察する前に、天主の法の全体について、つまり、その起源、本質、必要性、そしてそれを守ることから受ける祝福について黙想するのが有益です。
一. 十戒の起源
私たちがまず思い起こさなければならないのは、天主ご自身がこの法を定めたお方であるということです。
天主がシナイ山でご自分の法を宣言しようとされたとき、イスラエルの民に三日間準備をするよう命じられました。民は自らを聖化して、山のふもとに集まることになっていました。モーゼは山に登るよう呼ばれ、主は雷、稲妻、火、そして分厚い雲の中を、荘厳に降りて来られました。そこにおいて、天主はモーゼに、十戒という聖なる戒律を授けられました。
これらの荘厳な状況を思い起こすことで、私たちは、どれほどの敬意と服従をもって、この法を受けなければならないかを、より深く理解することができます。十戒は人間が作り出したものではありません。天主ご自身に由来するものなのです。
二.十戒の本質
十戒は、シナイ山でユダヤ人に与えられたものですが、その原則は決して新しいものではありませんでした。石の板に刻まれるはるか昔から、十戒は天主によって人間の心に刻まれていました。聖アウグスティヌスは、十戒はその本質において自然法そのものである、と教えています。
最初の三つの掟は、天主に対する私たちの義務に関するものであり、残りの七つは、隣人に対する私たちの義務を規定するものです。これらは共に、律法全体と預言者が拠り所とする二つの大きな掟、つまり天主への愛と隣人への愛を、どのように果たすべきかを教えています。
各掟には、いくつかの短い言葉が意味するよりも、はるかに多くの内容が含まれています。各掟には肯定的な側面と否定的な側面の両方があります。つまり、義務を命じると同時に、罪を禁じているのです。
掟を表面的に知るだけでは十分ではありません。そのため私たちは、多くの説教を、掟を詳しく学ぶために充てるのです。
三.十戒の必要性
十戒が必要な理由は、それが私たちを創造された天主の御旨を表現しているからです。
このため、十戒は主によって廃止されることはありませんでした。旧約の儀礼的な規定は廃止されましたが、道徳律は永遠に残るのです。キリストご自身もこう宣言されました。「私が律法を廃するために来たと思ってはならぬ。廃しようとして来たのではなく、完成するために来た」(マテオ5章17節)。また、金持ちの青年が永遠の命を得るために何をすべきかと尋ねたとき、主はこう答えられました。「命に入りたいのなら、掟を守れ」(マテオ19章17節)
したがって、十戒は単なる勧告ではありません。すべての人に義務付けられているものなのです。たった一つの掟であっても、故意に、かつ重大に違反することは重い罪となります。
しかし、天主が不可能なことを命じられるなどと、決して考えてはなりません。私たち自身の力では何もできません(ヨハネ15章5節参照)が、天主は謙虚に求める人々に必要な恩寵を与えてくださいます。人間の自然の力では不可能なことも、天主の恩寵によって可能となるのです。
四.法を守ることによる祝福
悪い心構えの人々にとっては、十戒は重荷のように思えるでしょう。しかし、天主を信頼する霊魂は、まったく違うものを見いだします。
私たちの主は、ご自分のくびきは快く、その荷は軽いと言っておられます(マテオ11章29節参照)。主は命じられるだけではなく、助けてもくださるのです。主は恩寵によって困難を和らげ、弱さを強め、従順が実を結ぶようにしてくださいます。したがって、天主の法を守ることはただ単に可能であるだけでなく、平和と喜びの源となるのです。詩篇作者が言うように、「御身の法を愛する人には深い平和がある」(詩篇118篇165節)のです。
結論
親愛なる兄弟の皆さま、
今日の入祭唱で、教会はこう宣言しています。「Dominus illuminatio mea et salus mea」―「主は私の光、私の救いにてまします」。
天主は十戒を通して、私たちを照らしてくださいます。十戒を忠実に守れば、永遠の命へと至るのです。
十戒を知るだけでなく、十戒を理解し、愛し、忠実に守るよう努めましょう。そうすることで、私たちが、天主の法を歩む人々に約束された平和を、この世においても享受することができますように。