イエズスの聖心の憐れみ深い愛  「一人の罪人がくいあらためれば…天ではよりいっそうの喜びがあろう」

ソース: FSSPX Japan

2026年6月14日 聖霊降臨後第3主日

トマス 小野田圭志神父  説教   日本の聖なる殉教者聖堂(大宮)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日の福音で、私たちの主は有名な「見失った羊」のたとえを話されます。このたとえ話こそ、まさにイエズスの至聖なる聖心の憐れみ深い愛のたとえです。一緒に黙想いたしましょう。

【見失った羊のたとえ】

教皇大聖グレゴリオによると、百匹の羊とは、天使たちと人間という知性的な被造物のことであり、失われた一匹の羊とは人類のことです。

罪とは、人間が自由意志で天主から離れることです。天主の愛は、罪を犯して失われた人類を見つけ出そうとされます。見失った羊を見つけるとは、私たち人間が罪を悔い改めるということです。罪を痛悔して忌み憎み、改悛して、主に赦しを乞い願い、主のもとに立ち返ることです。

もしも罪びとが悔い改めるなら、罪を認めて謙遜に主へ謝罪を求めるならば、よき牧者である主は、その見つけた羊を「大喜びで肩にのせ」ます。これは福音による表現ですが、なんと愛情に満ちた表現でしょうか! さらに「家に帰ってきて友人隣人をよび集め」宴会を催すと主は言われます。つまり「天では大きな喜びがあるだろう」と説明されます。

【聖心の愛】

永遠の天主は愛です。天主御父は愛であり、愛によって御子をこの地上に送られました。

天主御子は愛であって、愛によって人間となり、人類を探し求め、愛によって聖霊を私たちに送られました。

天主聖霊は愛であって、その愛を絶えず教会に注ぎ込んでいます。

教会は愛であって、世界にイエズス・キリストへの愛を点火し、世界を愛で燃え立たせたいと欲しておられます。この世の人々がイエズス・キリストの愛を受け入れ、悔い改めて、ついには主の肩に抱かれ、天国の至福に至ることを望んでいます。

【この世の態度】

しかしながら、この世は主の聖心の愛を受け入れようとしませんでした。

イエズス・キリストの聖心は、永遠の智恵と愛をもって、卓絶する真理の教え・完璧で永遠の教えを説かれました。でも、イエズス様の教えに従った人々は少数の庶民だけで、ユダヤ人の最も有力な人々からは軽蔑され、無視されました。イエズス様の御謙遜の模範は、馬鹿にされるだけでした。

イエズス様の聖心は、天主の全能と愛をもって輝かしい奇跡を行われました。お望みになっただけで、水をぶどう酒に変え、水の上を歩かれ、海を鎮め、嵐を凪とし、無数の病人を癒され、死者をよみがえらせました。しかし、主を天主とした人々もあった一方で、多くの人々は主を魔術師としてけなしました。

イエズスの聖心は、永遠からの愛をこめて、旧約の全ての預言と前兆をひとつ残らず成就されました。こうすることで、ご自分が約束された救い主であることを示し、証明されました。

ところが、旧約の預言を知り尽くしていた学者や、彼らから聞いた群衆も、預言の成就を目の前に見ていながら回心しようとはしませんでした。選ばれた民もこの世も、人間となられた真理と愛の天主を認めようとせず、かえって呪い、否定し、十字架につけました。

天主に反逆して天主から離れ、失われた羊は、自分を探しにきた真理が自分の目の前に現れると、真理を否定しだしたのです。真理を拒否することにより、独立主権者として自分を肯定し、正当化しようとしたのです。真理を否定することができなかった場合には、自分の主権のために真理と戦います。そして真理を十字架につけました。真理のくびきの支配下に入ることを拒んだからです。

主はこう漏らされました。

「あなたたちは、父のみ名によって来た私を受けいれない。ほかの人が、自分の名によって来れば、それを受けいれるのに。」(ヨハネ543節)

この世は、不条理やおかしな教え、論理の破滅には喜んで従います。なぜかというと、不条理やばかばかしい物語は、人間の知性が作ったものだからです。この世は、証拠がない不条理に喜び、証拠があるとかえって反逆します。

ですから、もしも誰かが、たとえば「美しさとは醜さであり、醜さが美だ」「善とは悪であり、悪が善だ」「秩序とは無秩序であり、無秩序が秩序だ」「人間こそが神だ」などと言うなら、「112ではなく、2以外のすべてだ」と叫ぶなら、この世は「ああ、この人は知恵がある。この人は素晴らしいじゃないか」と熱烈に賛同し、恍惚となり、感嘆して「偉大な人だ、幸いな人だ」と賞賛することでしょう。多くの人はその人についていくかもしれません。

かつて、この世は「イエズス・キリストとバラバのどちらを選ぶか」と言われた時にバラバを選び、イエズス・キリストを罰して十字架につけました。不条理を選び、明らかに明白な真理を捨て去ったのです。

【御受難】

では、イエズス様の聖心は、どのようにして「見失った羊」である人類を探し求めたのでしょうか?

イエズス様の聖心は、主の到来した預言の成就も、主の全能を示す奇跡も、主の教えの聖性も、ご自分の聖徳も、この世の回心に無益であることをよくご存じでした。ですから主はこう預言しました。

「私は地上からあげられて、すべての人を、私のもとに引きよせる」(ヨハネ1232節)

天主御子は、愛によって十字架の死に至るまで御父に従順となり、苦しみを通して人々を回心に招こうとされました。主の聖心の愛は、私たちを探すために、私たちを罪の痛悔へと招くために、ゲッセマネの園では血の汗を流されるほどの苦悩で苦しまれました。

聖心の愛は、ローマ総督の官邸では裸で全身に鞭打たれ、傷だらけとなることを耐え忍ばれました。

聖心の愛は、いばらの冠の屈辱を受けることを甘んじて受け入れました。

聖心の愛は、その柔和な肩に重い十字架を担ぎ、それに押しつぶされ、暴行を受けることをよしとされました。

聖心の愛は、辱めの十字架の木に釘付けにせられて高く上げられ、渇き、激痛を苦しまれました。壮絶な苦悶を受けられ、愛によって御血を流し尽くされました。

聖心の愛は、二人の盗賊の間で、あたかも御父によって捨てられたかのような悲痛な呻きをあげられ、愛によって命をささげ、死を遂げられました。

イエズスの聖心は、愛によって死の眠りについた時、ローマ兵士によって槍で刺し貫かれました。その時、イエズスの聖心から血と水が流れ出ました。血は教会の中心である御聖体の象徴であり、水は教会の入り口である洗礼の象徴です。眠りにつく第二のアダムのわき腹から、花嫁であるキリストの教会(カトリック教会)が生まれました。イエズスの聖心から、贖われ・見いだされ・救われた羊たちの群れが生まれ出たのです。

イエズスの聖心の無限の愛と、いと尊き御血によって、この世は聖霊の到来に値するものとなりました。見失われた羊は、主の恩寵に征服されることができるようになりました。イエズスの聖心の受難――十字架の苦しみのおかげで、人間は信仰を通じて真理を受け入れることができるようになりました。

【遷善の決心】

遷善の決心を立てましょう。イエズスの聖心の信心とはまさに、私たちを探し出すために天からこの地に来られたイエズス・キリストの愛を受け入れることです。イエズス・キリストの聖心の信心の本質は、私たちが罪を悔い改め、主の愛によって開かれた聖心の中に入り込むことです。

最後にマリア様にお祈りいたしましょう。

マリア様の御取り次ぎによって、私たちが罪を悔い改め、イエズス様の聖心に見いだされますように。そして、主の開かれた聖心の中へ入っていくことができますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。