イエズスの聖心とは、天主の愛の究極の現れ
2026年6月12日 イエズス・キリストの至聖なる聖心
トマス 小野田圭志神父 説教 日本の聖なる殉教者聖堂(大宮)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日はイエズスの聖心の祝日です。教皇ピオ11世の命によって、御聖体降福式をこのミサの直後に行い、イエズス様の聖心に対して罪を償う祈りを唱えたいと思っております。そして、イエズスの聖心の連祷もお捧げいたします。時間のある方は、ミサの後もどうぞ御聖体降福式にご参加ください。
ところで、イエズス様の聖心とはいったい何でしょうか?
また、イエズスの聖心の信心とはどんな意味があるのでしょうか?
今日は、イエズスの聖心への信心が天主の愛の究極の現れであり、それを私たちが信心することで、私たちが天主の愛へと変えられるということを一緒に黙想いたしましょう。
【権威の言葉】
イエズス・キリストご自身は、「聖心の愛する弟子」聖女マルガリタ・マリア・アラコックに明確に説明されました。
「主は、人々が主を愛し、勇敢に愛するように促すのに最も適した対象と手段を与えるために、私たちの時代のために聖心の啓示を留めておかれたのです。」
聖アルフォンソ・デ・リグオリは、イエズスの聖心の信心のことを「あらゆる信心の中で最も美しく、最も確固たる根拠を持つもの」と評しています。また、イエズスの聖心への九日間の祈りの序文でこうも述べています。
「あらゆる信心の中で最も崇高な信心は、私たちをして、イエズス・キリストを愛させる信心である。(…)さて、イエズスの聖心への信心は、この憐れみ深い救い主への愛の霊的修練に他ならない。」
フランスのピ枢機卿は「キリスト教と、イエズスの聖心への信心とは、完璧に同一視できる信心である」と書いています。
また、ローマの典礼聖省は「イエズスの聖心の祝日は、まだ典礼暦に位置づけられていないイエズスの生涯の特定の神秘を記念するものではなく、むしろ、個々の神秘を祝うために、個別に定められた他のすべての祝日の総和(統合)である」と宣言しています。
つまり、イエズスの聖心の祝日とは、たとえば、御降誕や御受難、御復活といった特定の神秘を記念するものではないということです。すなわち、イエズスの聖心を崇敬するということは、特別のお恵みや出来事を記念させ、思い起こさせるのではなく、むしろ、私たちの目をすべてのお恵みの尽きることのない源へと向けさせてくれるのです。天主の優しさの啓示を祝うだけでなく、贖罪(罪の償い)のすべての神秘の原理とその最も深い理由、つまり「天主の愛」を祝うことが、このイエズスの聖心の祝日です。
この愛は、天主なる人イエズス・キリストの御生涯において、目に見える形で現れる前に、すでにイエズスの聖心の聖域において内的に成就されていました。
この愛は、無原罪の聖母の「はい」に対する天主の応答でした。
この愛は、天主が人になられるという、最も深い、無限の謙遜の最初の行為に要約され、凝縮されています。
「天主は愛である Deus caritas est」(ヨハネの手紙一 4:16)
聖ヨハネがその手紙に記しているように、天主の永遠の聖心は常に愛でした。
【愛の福音】
イエズスの聖心とは、まさに生きた福音そのものです。何故ならば、聖心とは、被造物である私たちに最も近づかれた、救い主なる天主そのものであるからです。イエズスの聖心とは、まさに天主の愛の啓示であり、天主の愛の力の現れです。イエズスの聖心は、天主が成就された御約束そのものです。聖心とは、ますますよく知られ、よりよく愛されるべきイエズスご自身そのものです。イエズス様の聖心への崇敬とはまさにこれであり、これ以上のものはありません。
イエズスの聖心への信心によって、この愛すべき聖心の祝福されたイメージの下で、すなわち天主の御言葉の至聖所 verbi Dei sacrariumで、私たちは、柔和でお優しい救い主の愛のすべてを黙想するようにと招かれています。聖トマス・アクィナスによると、聖霊とは、天主の愛にして「天主の賜物の最初のもの」です(amor habet rationem primi doni, per quod omnia dona gratuita donantur. Unde, cum spiritus sanctus procedat ut amor, procedit in ratione doni primi. [St. Thomas Aquinas, Summa Theologiae I, q. 38、art. 2, corp.])。
つまり、天主の賜物の最初のものである聖霊とともに、天主の愛の現れであるイエズスの聖心を黙想すること――すなわち、主のすべての善い行い、主の御苦しみ、主の愛の贈り物、実り、招き、切望を一緒に黙想するようにと招かれています。
イエズス・キリストは愛の王です。ですから、この聖心というシンボルによって、イエズス様のありとあらゆる聖徳や聖性、そのお優しさ、また、最も美しく最も荘厳で、最も親密な特質、さらに愛に動かされたイエズス様のあらゆるお言葉や外的な行いを、主の神秘、喜び、弱さ、犠牲、司祭職とともに、すべてのことを効果的に、そして自然に思い起こさせてくれる、それがイエズス様の聖心なのです。
そのため、教会によって認可されたすべての祝日と記念の中で、イエズス様の愛そのものを直接的に、明示的に祝うものは、この聖心の祝日の他には一つもありません。主の他の祝日は、すべての愛の神秘をその礼拝の対象としますけれども、イエズス様の聖心の崇敬は、イエズス様の愛の神秘を直接的に、それ自体のために祝うことを目的としています。
では、イエズスの聖心の神学のテーマ(主題)とは何でしょうか?
それは、天主の永遠の愛の中に、啓示されたすべての神秘の理由を見出すことです。
天主は愛し給います。愛するとは、自らをすべて与え尽くす(捧げる)ことです。
天主は私たちにすべてを与えられました。ここに「創造の御業」の秘密があります。
愛するとは、語り、愛する者に自らを伝えることです。
天主は愛をもって語りかけました。ここに「啓示」があります。
愛するとは、愛する者に似ることです。
ここに「御托身の神秘」があります。
愛するとは、愛する者のために苦しむことです。
ここに「贖いの神秘」の究極の理由があります。
愛するとは、愛する者と共に生きることです。
ここに「御聖体の神秘」があります。
愛するとは、愛する者と一つになることです。
ここに「御聖体拝領」の真の理由があります。
愛するとは、愛する者と共に喜ぶことです。
ここに「天国の至福」の意味があります。
聖ヨハネは福音にこう書いています。
「天主は、御ひとり子をこの世に与えるほどこの世を愛された」(ヨハネ3:16)
「天主は、かくも愛された。Sic Deus dilexit.」
天主は、これほどまでに私たちとこの世を愛してくださったのだと。
天主の教会において、イエズスの聖心の信心よりも真実で、より力強く、偉大で輝かしい、カトリック信仰にふさわしいこれ以上のものを、他に見つけることはできません。そして、現代社会を刷新する上で、これほど効果を保証する信心業はありません。
イエズスのペルソナは天主のペルソナですから、イエズスの創造された心は、創造されていない天主の心の愛のすべてのしるしを集中させ、そのすべての表現を要約している。
【信心の結果】
この信心をした結果、私たちはどのように変えられるのでしょうか?
私たちはただ黙想するだけではなく、イエズスの聖心からの愛を受けます。主はこう言われたではないでしょうか?
「もしあなたが完全になりたいなら…来て、わたしに従いなさい。」(マテオ19:21)
深い感動をもって、この輝く太陽、創造主の全能の傑作を黙想するとき、私たちは必ず、感嘆、感謝、信頼、そして償いをしたい・贖罪に協力したいという願いや模倣をしたいという望みが募り、天主への愛が私たちの内に目覚め、育っていくのを感じるでしょう。主の聖心を黙想すればするほど、主の愛を知れば知るほど、私たちは深い感動を覚えざるを得なくなっていくはずです。
「人はもはや自分のためではなく、天主のために生きるために ut homo non sibi vivat, sed Deo.」
(聖トマス・アクィナス、『神学大全』II-II、問17、第6項、答3)
ああ、私たちが天主の賜物をもっとよく知っていたら!
私たちがそれを味わうに値するような生き方をしていたら!
Lingua amoris, ei qui non amat barbara erit.
「愛さない人にとって、愛の言語は異質なままである」(クレルヴォーの聖バーナード、Cantica Canticorum の Sermo LXXIX: De amore tenaci et indissolubili, quo anima tenet sponsum: item de reditu sponsi in Fine saeculi ad Synagogam Judaeorum salvandum, 1; PL 183, 1163)。 37 212
もしも、私たちが日々このようにイエズスの聖心に養われ、今この瞬間、ただ主のためにこの生命を生き、ただ主の愛のみ愛する心を持ち、自分を完全に主へ委ね、主が私たちの中で、また私たちを通して、イエズス様の聖心にかなうことを何でもすべて成し遂げてくださるようにと願うならば、天主への揺るぎない信仰、犠牲の意志や自己否定、天主の御前に善いことを行いたいと望み、また清らかな生活を送ること、隣人や使徒職に対する愛徳も、そこまで大きな情熱を要求されるものではないと確信するようになり、もっと容易に行うことができるようになるでしょう。何故ならば、イエズスの聖心への信心を行えば行うほど、ますます私たちは、イエズスの聖心に倣いたいと熱烈に思うようになるからです。ですから、歴代の教皇の勅令などを読むと、イエズスの聖心の信心を行えば行うほど、短期間のうちに、豊かな聖徳の行いと霊的な刷新の実りがもたらされることが理解できると言われています。
これこそが天主の愛であり、優しくも同時に力強く、そして荘厳に人間の愛を促し、聖なる霊感によって、あらゆる悲惨と弱さ、あらゆる利己心と官能の表れに、完全に、絶えず、そして決定的に勝利を収めるのです。
【遷善の決心】
では、最後に聖マルガリタ・マリア・アラコックの言葉を思い出し、イエズスの聖心への信心を新たにいたしましょう。
「それでは、この聖なる聖心を愛しましょう。私たちの霊魂のこの唯一の愛を。それを愛するだけで聖なる者となることができるのです。」
イエズスの聖心は、私たちの内なる生活全体を変容させ、実り豊かなものにします。それは不屈の放棄と平和の源です。この聖心を模倣するだけで、世に打ち勝った方の力で私たちの弱さを強めることができるのです。キリストが求める者すべてに与えてくださる熱心な決意によって、あらゆる激しい抵抗は霊的な喜びに変わり、肉との死闘は言い表せないほどの至福に変わります。何故なら、「キリストを霊的な喜びとする者」は、心が痛むときでさえ常に穏やかで平安だからです。
「悲しむようだが、しかし常に喜んでいる。Quasi tristes, semper autem gaudentes.」(コリント後6:10)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。