イエズス・キリストの至聖なる聖心の祝日の説教(大阪)
至聖なるイエズスの聖心
イエズス・キリストの至聖なる聖心の祝日の説教(大阪)
2026年6月12日 イヴォン・フィルベン神父
親愛なる信者の皆さま、
1)無限
このイエズスの聖心の祝日を一言で言えば、それは「無限」という言葉になります。エフェゾ人への書簡から引用された、今日のミサの朗読を考えてみましょう。そこには最上級の表現が溢れています。「キリストの底知れない富」(3章8節)、「天主の多種多様の知恵」(3章10節)、「計り知れぬキリストの愛」(3章19節)。今日は、私たちに対する天主の愛の偉大さ、主の聖心から流れ出る愛の深さを黙想します。
確かに、この宇宙には、私たちの理解を超え、私たちには無限であるかのように思える現実が存在します。無限の宇宙、広大な銀河などです。しかし実際には、それらは無限ではなく、単に私たちを超えたものに過ぎません。小さな存在である私たちをはるかに超えたものですが、無限ではありません。宇宙は無限ではないのです。始まりがあり、そして終わりがあるのですから。
2)愛
一方で、私たちの主の愛は本当に無限です。なぜなら、この愛は天主ご自身だからです。「天主は愛である」。天主は無限の愛であり、私たちに御自らを分かち与えようとされ、御自らを与えてくださるのです。
これは決して、この愛によって誰もが自動的に救われるという意味ではありません。そうではなく、救われるためには、この愛を受け入れなければならないのです。しかし、それは、すべての時代のすべての罪人が回心するのに同意するならば、この愛には、その全員を救う力があるという意味です。罪人が悔い改めるなら、この愛にとっては、大きすぎて赦されない罪など存在しないのです。
3)拒まれた愛
悲しいことに、人類はこの愛を拒んできました。人々はこの愛を求めず、代わりに自分たちのちっぽけな人間的快楽を好んでいるのです。私たちは、この世に結びついたわずかな肉欲的満足を優先し、天主と信仰を忘れてしまいます。十字架は、人類がこの愛を拒んだことを真に象徴しています。人々は自分たちを動揺させるこの愛を望まないため、地上にこの火をもたらしに来られたお方を十字架に付けたのです。それにもかかわらず、人間の利己主義であっても、この愛が人類に与えられるのを阻むことはできませんでした。十字架上で、主の聖心は貫かれ、そこから水と血が流れ出ました。人類が拒んだにもかかわらず、愛は今もなお差し出されています。天主の無限の愛のためにこの世の喜びを捨てるつもりがあるのなら、私たちはその愛において永遠に生きることができるでしょう。
私たちはこう自問しなければなりません。「私は地上でどのような種類の幸福を求めているだろうか。この世の小さな喜びだろうか、それとも天主の愛という大いなる幸福だろうか。永遠に天主の愛を分け与えられる無限の幸福を受けるために、私はこの世の小さな喜びを犠牲にする準備ができているだろうか」。これこそが、主イエズス・キリストの十字架が私たちに示している、真の知恵なのです。