ケネディ・ホール著『聖ピオ十世会:擁護』聖ピオ十世会は「離教的 schismatic」ではない

ソース: FSSPX Japan

ケネディ・ホール著『聖ピオ十世会:擁護』4

聖ピオ十世会は、離教状態 in schism ではないかもしれないが、それでも「離教的 schismatic」ではないのか?

この主張をする者は言葉遊びをしているように見えます。現代の私たちの話し方の深刻な問題は、不正確さと用語を適切に定義せずに使用することにあります。

「離教的」という言葉は、このような主張においてどのように使われているのでしょうか?

離教(schism)と離教的(schismatic)は同じ意味を持つべきです。単に名詞形と形容詞形が存在するに過ぎません。例えば、ロシア正教会のような分離した教会を「離教的」と表現するのは正しい用法です。

さらに、ジョン・ズルスドルフ神父(通称ファザー Z)は2020年4月のブログ記事で、聖ピオ十世会の反対派が「離教的」という用語を不正確に使用する手法について論じています。ズルスドルフ神父は教皇庁立エクレジア・デイ委員会の職員であり、聖ピオ十世会に対して友好的とは言えないEWTNに掲載された記事では、カトリック聖伝に関する「著名な権威」と評されています。25
“Summorum Pontificum One Year Later” 

ズルスドルフ神父は次のように記しています。「また、聖ピオ十世会は1988年以来離教状態にあると主張される。その根拠は、ルフェーブル大司教による司教の違法な聖別が『離教行為』であったとされることにある(『エクレジア・デイ・アドフリクタ(天主の苦しむ教会)』3参照)。しかし、真の離教を生み出すには『行為』以上のものが必要である。」

「ルフェーブル大司教が、別個の教会や対抗教会を設立する意図、あるいは自らや他者を対立教皇とする意図、あるいは真の離教を構成する他の要素を生み出す意図を持っていたことは、明らかに明白に否定される。聖ピオ十世会の司祭たちは、ローマ典礼においてミサ中に教皇の名前を公然と使用している。婚姻その他の問題では教区裁判所を利用している。 贖宥に関する事項では、使徒的悔悛院(Sacra Paenitentieria Apostolica)の法令に従っている。結婚などに関する権限を現地の司教から受けている。最近では、コロナウイルスによるロックダウン期間中に現地の司教が与えた免除や規定を信徒に伝達した。これらは離教者の行為ではない。」

「聖ピオ十世会は、カトリック教会と共通の信仰、秘跡、統治機構を有している。プロテスタントは一部の信仰といくつかの秘跡を共有するが統治機構を持たない。正教会は信仰と秘跡を共有するが統治機構を共有しない。聖ピオ十世会はこれら三つ全てを有しており、フランシスコ教皇が悔悛と婚姻の秘跡に関して彼らに対して行った対応が、例えば異端者や離教者に対しては不可能であった事実からも明らかである。彼らは『分離した兄弟』ではない。疑いの余地はない。」26

“ASK FATHER: What’s the truth about the SSPX?” 

あるカトリック集団が、離教であるような「態度」を持っているからといって彼らを「離教的」と断じることは、実際にはその集団の全構成員の内的な生活について裁くことに他なりません。

キリストの弟子として、私たちは客観的で外的な行為を判断するよう召されていますが、霊魂の内的で霊的な状態を裁くことは控えるべきです。
今の場合、問題となっている客観的で外的な行為が「離教」か否かであり、正当な教会当局は聖ピオ十世会が離教状態ではないとの判断を下しています。
また、聖伝の離教の定義は、ルフェーブル大司教と聖ピオ十世会を説明する記述として機能しないこともわかっています。

したがって、私たちはいかなる者も、その集団内の特定の人物の「内面的態度」を、ましてや集団全体を裁こうとすべきではありません。むしろ、聖トマス・アクィナスが雄弁に述べたように、同胞のカトリック信者とはこう接すべきです。
「…人の悪意を示す明白な証拠がない限り、疑わしい点については最善に解釈し、その人を善人であると見なすべきである。」


聖ピオ十世会は、それでも「質料的(見た目)には(materially)」、離教状態にあるのではないのでしょうか?

「質料的な(見た目の)離教(material schism)」という用語を耳にしたら、それはおそらく「本当の異端(形相的異端 formal heresy)」と「見た目の異端(質料的異端 material heresy)」の厳密な区別と並列して言及しているものです。

本当の異端(形相的異端)とは、天主的かつカトリックの信仰箇条(例:三位一体)を否定する意見を、そうとよく知りつつ(教会の教義に反することを完全に認識した上で)かつ頑固に(すなわち故意に)表明する場合を指します。質料的異端とは、客観的に見て教会の誤り得ない教えと矛盾する意見(それ自体が異端である)を保持しているものの、本人がカトリック信仰に反するものを保持していることを、善意で認識していない場合を指します。

ハードン神父の『現代カトリック辞典』は異端を次のように定義しています。
 

「ローマ・カトリック教会において、異端は教会法によって定義された非常に特定の意味を持つ。すなわち『洗礼を受けた後、名目上はキリスト教徒でありながら、天主的かつカトリック的信仰をもって信じなければならない真理のいずれかを頑なに否定または疑う者は、異端者である』(教会法1325条2項)」。
したがって、正式な異端を構成するには四つの要素が確認されねばならないのです。
カトリック教会内で行われなくとも有効な洗礼の事前に受けていること。
依然としてキリスト教徒であることを公に表明していること(さもなければ背教者となる)。
カトリック教会が実際に天主からの啓示として提示した真理に対する明白な否定または積極的な疑念を表明すること。
そして精神的・道徳的に非難されるべき不信があること、すなわち名前の上ではキリスト信者でありながら、教義上の必須事項を知りながら受け入れを拒否することである。」27


聖ピオ十世会司祭を誤って破門者や離教者とレッテル貼りしたり、中傷・誹謗したりする者は、皮肉にも彼ら自身が離教に類似した愛徳に反する罪を犯している可能性がある


異端は扱いが難しい問題です。なぜなら、人は意図的または無意識的に異端者となり得るからです。正式な異端者と宣告された者たちは、通常、異端と宣告される以前から意図的に外面的に異端者でした。対照的に、質料的異端とは無意識の誤った内面的姿勢です。率直に言えば、三位一体の天主とその天主の神秘の測り知れない性質について誤解を抱く限り、私たちは皆、質料的な異端の罪を犯し得るのです。

だからこそ、信仰の宣言を行う際、私たちはこう祈るのです。「…私はこれらの真理、そしてカトリック教会が教えるすべての真理を信じる。なぜなら、それらを啓示されたのは、欺くことも欺かれることもない御方(天主)ゆえなり」。
この意志の行為によって、私たちは異端を保持したくないという意図を固めます。したがって、たとえ無意識のうちに質料的異端を抱えていたとしても、それは罪にはなりません。

また、ある人物が故意かつ頑固に天主の信仰の条項を拒絶しているかどうかを判断することも困難です。この種の疑問は、教皇や司教区内の司教といった正当な教会権威が事案を裁定し、当該人物が異端の立場を放棄するまで、彼は異端者であると明示的に宣言すれば解消されます。

離教は通常、異端と結びつくため、聖伝のカトリック神学では、この場合、異端に関する記述が離教にも同様に適用されると教えます。したがって、形式的離教とは、教会・教皇・司教の天主から与えられた正当な権威を否定する意志の積極的行為を指します。一方、質料的離教とは、そのような否定が自らの行為の結果であることに気づいていない状態を指します。

したがって、誰かが質料的離教状態にあるかを知る唯一の方法は、その意図を直接問うことです。斬新な概念かもしれありませんが、現代のSNS主導社会での最も単純な方法は、聖ピオ十世会の司祭に「教皇、枢機卿、司教団と一致しない別の位階制度を意図的に構築しているのか」と直接問うことです。

なぜ、中傷かもしれない他人の告発を受け入れる必要があるのでしょうか?直接、一次情報源に確認できるのですから。

彼らは教皇の権威を拒否しているのでしょうか?あるいは司教が管区内で持つ権威を否定しているのでしょうか?

そのような見解を持つ聖ピオ十世会司祭に私は未だ出会ったことがありません。そのような見解は明らかに聖ピオ十世会の組織としての公式見解ではありません。彼らのあらゆる文書からそれは明白です。さらに、より強力な証左となるのは、聖なるミサにおいて彼らが教皇と現地司教のために名前を挙げて祈っている事実です。意図的に離教を企てる者は、聖なる典礼においてこのように祈りません。

興味深いことに、離教は神学的に言えば愛徳に対する罪であり、カトリック信者同士の交わりに対する罪です。したがって、愛徳の欠如によって不必要な離教を煽る者の方こそ、離教と同じカテゴリーに属する罪の一種を犯していることになります。

したがって、聖ピオ十世会司祭を誤って破門者や離教者とレッテル貼りしたり、中傷・誹謗したりする者は、皮肉にも彼ら自身が離教に類似した愛徳に反する罪を犯している可能性があるのです!

十分な知識や故意の同意なしにこうした行為を行う者もいるため、彼らが罪を犯したか否かは天主のみが裁かれます。しかし私たちは皆、聖にして母なる教会が常に「疑わしきは罰せず」を勧告し、真の必要性と道徳的な確信なしに他者を誹謗すべきでないと教える理由を心に留めておくべきです。結局のところ、いかなる個人や集団をも貶めたり中傷したりしてはならないのです。

しかし、某枢機卿や某神父が「聖ピオ十世会は離教だ!」と言っているのを聞いたのですが?

再び言いますが、離教は重大な罪であり、それゆえに相応の厳粛さをもって扱われるべきです。ある集団が離教の罪を犯していると公に宣言しようとする者は、適切な教会当局が既にこの宣言を行った後にのみ、そうすべきです。当然ながら、そのような判断は、信徒を効果的に拘束するために、適切な手続きに従い、正義と愛徳に基づいて行われるべきです。

司教は、自分の教区内の誰かが離教状態にある、あるいは破門されていると宣言する権限は持っていますが、教皇がすでにそれに関する決定を下している場合には、それに反する決定を下す権限は持っていません。明らかに、教皇がマルティン・ルターを異端者であると正当に宣言した場合、どの司教も、自分の教区内でルターを良きカトリック信者であると宣言することはできないでしょう。

聖ピオ十世会に関しては、関連するバチカンの聖省は、聖ピオ十世会 は離教状態にはないとすでに判断しています。ヨハネ・パウロ二世、ベネディクト十六世、フランシスコ、あるいは関連する聖省のトップである高位聖職者たちが、聖ピオ十世会が離教状態にあると述べた声明は、どこを探しても見つけることはできません。


ヨハネ・パウロ二世は聖ピオ十世会そのものが離教状態にあると「宣言」したことは一度もありません。教皇ベネディクトも同様の行為は一切行っていません。教皇フランシスコは聖ピオ十世会司祭の司牧の権能を明示的に承認しています。
 


一部の批判者は、過去三代の教皇が聖ピオ十世会を「客観的な離教状態にある」と「宣言した」と軽々しく主張したがりますが、これは事実ではありません。

確かにヨハネ・パウロ二世はルフェーブルが離教行為を犯したと非難した(これについては後述します)とされますが、聖ピオ十世会そのものが離教状態にあると「宣言」したことは一度もありません。教皇ベネディクトも同様の行為は一切行っていません。たとえ書簡で聖ピオ十世会が教会内で正当な司牧権を有しないと記したとしても(これも後述)、正当な司牧権の欠如が離教を生むわけではありません。さらに教皇フランシスコは聖ピオ十世会司祭の司牧の権能を明示的に承認しています。教皇フランシスコが聖ピオ十世会を「離教状態にある」と宣言していたとするなら、フランシスコはその宣言を忘れてしまったことになります。何故なら真の離教のグループに司牧の権能を与えることは不可能だからです。仮にフランシスコが離教だと宣言したとして、宣言した離教を何らかの形で忘れたのであったなら、その健全な判断能力に疑念を抱かざるを得ず、彼のした離教宣言は少なくとも疑わしいものとなります。

ある司教や司祭が聖ピオ十世会は離教状態にあると言うなら、彼らは誤った情報に基づいて発言している可能性が極めて高いと言えます。この意見は、1990年代から2000年代初頭にかけて広く流布しましたし、そのような意見の記事の多くは今でも多くの分野で主流を占めています。若い神学生として数年前にこの非難を耳にし、調査もせずに、20年後に司教となって、なおこの誤った見解を抱いているかもしれません。

教会の危機的状況下では、基本的にあらゆる事柄について多様な意見が存在します。同じ主題について複数の見解を示すバチカン発の文書でさえ存在し、それを閲覧できるという事実は、信徒が混乱しているだけでなく、明確化を求めて聖職者位階に問うても明確化を見出せないというさらなる証拠です。

「必要の状態」の概念については別の章で論じますが、仮に「必要の状態」が主張されうるならば、聖職者位階内部でさえ、離教や聖ピオ十世会に関するという極めて本質的な問題についてさえ混乱が生じている事実は、信仰を実践し、事実を愛徳をもって判断しようとする聖ピオ十世会とその支持者たちに対して愛徳を注ぐべきさらなる理由となります。

聖ピオ十世会の状況は依然として教会内部の統治の問題であり、したがって、たとえ聖なる司祭であっても、個人が独自の意見を持つことは可能ですが、その意見は他者を拘束するものではありません。

教会がそうではないと述べているにもかかわらず、司祭が信徒に聖ピオ十世会が離教状態にあると告げることは適切なのでしょうか?