ケネディ・ホール著『聖ピオ十世会:擁護』サタンの煙
ケネディ・ホール著『聖ピオ十世会:擁護』
サタンの煙
「... 私たちは、"ある神秘的な亀裂を通して、いや、神秘的なものではありませんが、ある亀裂を通して、サタンの煙が天主の教会に侵入した"、と言うでしょう。疑念、不確実性、問題、不安、不満、対立があります。
教会はもはや信頼されていません。私たちは、新聞で私たちに語りかける最初の異教の預言者を信頼し、その預言者の後を追いかけ、真の生活のための秘訣を知っているかどうかを尋ねます。」
―教皇パウロ6世、1972年6月29日
聖ピオ十世会に関するいかなる議論であっても、教会を苦しめる深刻な危機を踏まえて行われねばなりません。教会に深刻な混乱と困難が存在することを認めないならば、聖ピオ十世会に関する真剣な議論は本質的に不可能です。
では、その点を念頭に置き、危機とは何か、そして教会に「サタンの煙」が立ち込めるこの時代に危機が存在するのかを考えてみよう。
危機とは何か?
辞書の定義は様々ですが、本質的に危機とは、困難で重要な決断を迫られる、激しい困難やトラブル、危険に直面する時期を指します。状況は様々で、ある個人や集団にとっての危機が別の者にとってはそうではないため、あらゆるケースにおける危機の定義は不可能です。
語源的に「危機(crisis)」という言葉は、ギリシャ語の「krisis」に由来し、これは「病気の経過における決定的な時点」を指します。1
https://www.etymonline.com/word/crisis
本質的に、危機に直面したとき、あなたは病気の真っ只中にいるのであり、身体が生き延びるためには行動を起こさねばならないのです。 マルセル・ルフェーブルに対する評価はさておき、彼が教会の危機を病と捉え、行動を起こしたことは明らかです。
おそらく、危機においてルフェーブルが正しいことをしたとは認められないかもしれないし、あるいはあなたなら異なる行動を取ったかもしれません。しかし問わねばならないのは、天主なる医師イエズス・キリストを除いて、いかなる医師にも、肉体的あるいは霊的な大病の時代に生じるあらゆる疑問を満足させる完璧な行動を期待することが合理的かどうか、ということです。
言い換えれば、たとえルフェーブル大司教のこの意見やあの意見に欠点を見いだせたとしても、それは重篤な癌から一人の命を救った偉大な医師を、精製糖への過敏性を考慮した栄養計画まで提供しなかったと非難するようなものです。
聖ピオ十世会ポッドキャストのエピソードで聖ピオ十世会のマクギリヴレイ(MacGillivray)神父が述べたように、マルセル・ルフェーブルと聖ピオ十世会の行動は「理論的・数学的・形而上学的問題ではなく、具体的な問題に対処するものです。…これに誰も完全に満足のいく神学的説明を提供できない危機的状況です…。それを求めてもどこにも見つからないでしょう。」2
【SSPX Podcast, “Crisis Series #37: How Can an Indefectible Church Give us Deficient Worship?” https://www.youtube.com/watch?v=IvILoep8yq4&t=1768】
さて、私たちが教会が危機にあると言うのは、単に悪いことが起きているからではありません。教会では常に悪いことが起きてきたし、人間が教会の一部である限り、その人間の一部は悪いことをするでしょう。初期教会には異端があり、離教があり、怠慢な司祭も確かに存在しました。
現代との違いは、私たちが深刻な霊的・典礼的病に侵された時代に生きている点です。これは定義上の危機です。しかし私たちの牧者たちは、感染で足を失いかけている患者にイブプロフェンを投与すべきかアセトアミノフェンを投与すべきか議論に忙殺されています。
この危機を理解するには、ある比喩を用いるのがよいでしょう。
教会は唯一の救いの箱舟であるから、海事の比喩で十分でしょう。
大きな船で海上にいる場面を想像してみてください。この船には船長、船長の補佐役、そして多数の乗組員がいます。さらに、船には目的の目的地へ向かう乗客も乗っています。
海上の旅に出るなら、高波と強風を伴う嵐に遭遇するリスクを受け入れねばなりません。しかし私たちはこのリスクを受け入れています。なぜなら船は嵐に耐えうる構造で建造され、船長と乗組員が嵐に対処する十分な準備と意志を備えていると信じるからです。
想像してみてください。大嵐の真っ只中に乗客として船上にいる状況を。しかも単なる嵐ではなく、伝説級の嵐の中を。
このような試練の中で、私たちは何が起こることを期待するでしょうか?
理想的には、船長が乗組員を率い、乗組員は乗客を救い、船を航路に保ち転覆を防ぐために、自分たちの知る限りのことを行うでしょう。 船長と乗組員が船と乗船者を救うために必要な行動を取る限り、嵐は危機とはならないのです。しかし、船長が乗組員を率いることを放棄したり、乗組員が船長の指示に従わず、船長が乗組員を統制するために何もしなかったり(あるいは何もできなかったり)した場合、嵐は危機へと変貌します。
その後、乗客にとっては絶望的な瞬間が訪れるでしょう。船を救う手段がなく、なぜか船長と乗組員は船室でラム酒を飲みながら酒場の歌を歌っている一方で、乗客たちは嵐の猛威に押し流されて海へ投げ出されるのですから。
このような状況下では、たとえ船長が職務を怠っていたとしても、少なくとも一人の乗組員や船長補佐が立ち上がり、指揮を執ることを望むでしょう。ただし、これは乗組員が船長の役割を引き継ぐ、つまり船長の地位を奪って反乱を起こすという意味ではありません。そうではなく、この英雄的な船員は、他の誰も行動しないからこそ、乗客が必要とすることをただ実行するだけなのです。彼は革命家でもなければ、船を乗っ取るつもりもありません。
この英雄が気にかけるのは、恐怖に震える乗客たちが船にしがみつき、目的地にたどり着くために必要なものを与えることだけです。船長が職を失ったのか、それとも失っていないのかは、この仮説上の海の英雄にとって当面の関心事ではありません。 彼が気にかけるのはただ一つ、嵐の中を船を導くために常に機能してきた道具が活用されることです。どの道具を更新・改良すべきかという議論は、船長と乗組員が嵐と理屈で向き合い、サメと共に泳ぐ利点を検討した結果、絶望した乗客たちが罪の海へと船から飛び降りるのを止めた後、後日行われることでしょう。
この男は反逆者でもならず者でもありません。ただ忠実な海軍士官であり、最優先事項はあなたを無事に岸まで運ぶことです。
この状況下では、無能な乗組員たちは彼を嘲笑し、あるいは船長の逆効果あるいは無為な行動に従わないことを理由に、彼を反逆的だと非難する可能性が高いかもしれません。
私が描いたこの状況こそ、第二バチカン公会議以降の教会の現状です。
カナダ管区長シェリー神父がこう述べた通りです。「危機は、教皇と司教たち(全ての司教たちではありませんが)が…カトリックの信仰を教えず、誤りを正さず…群れを見守り、襲い来る狼から群れを守らないという事実から生じているのです」3と。
【 “Why The SSPX Is Correct - SSPX Interview Series - Episode 7,” SSPX Podcast, https://www.youtube.com/watch?v=zQBRBu6Xu0I&t=3164s】
言い換えれば、第二バチカン公会議以降に異端や冒涜が蔓延した事実そのものが危機を生んだのではなく、歴代の教皇や司教たちが従来のように船を導き、防備を固めることに失敗したことが危機の原因なのです。
第四世紀のアリウス派危機を振り返れば、単なるアリウス派異端の存在ゆえに危機と呼ぶのではありません。教会の指導層が異端に屈服し、あるいは積極的に支持したからこそ危機と呼ぶのです。
だからこそ、立ち上がって聖伝を堅持した聖アタナシウスや他の高位聖職者たちは英雄なのです。要するに、船長と乗組員が嵐に船を乗っ取られる権利があるかのように振る舞う中、彼らは私たちの英雄的な水兵のように行動したのです。
マルセル・ルフェーブル大司教は私たちの時代の航海の英雄です。嵐の中で彼がしたことは、訓練された通りに振る舞うことだけでした。教皇や司教たちが「カトリック教会から無数の霊魂が船を降りる」という行動方針を続ける方が良いと考えたからといって、嵐に屈することはなかったからです。
もし教会が現在、あるいはしばらくの間「戦時」状態にあると証明されれば、それは司祭や司教が平和時には正当化されない(あるいは必要とされない)行動を取る状況が生じ得ることを意味します。
これは決して、司祭や司教が結果主義的に行動し、他の善を達成するために本質的に不道徳な行為を許されるという意味ではありません。しかし本書で明らかにするように、危機が迫り真の危機が頭上に差し迫った時、より低い法が破られることを意味するとしても、より高い法や原則に固執せざるを得ない場合があることを意味します。
また、教会の普遍性を考慮すれば、危機は普遍的であると同時に地域的でもあります。共産主義独裁者の支配下にある国家は、他の地域の聖職者には存在しない独特の課題を司教や司祭に突きつけます。続く章で見るように、教皇ヨハネ・パウロ二世は、鉄のカーテンの向こう側で司教を務めていたルフェーブル大司教の行動とさほど変わらない方法で行動しました。そしてこのポーランド出身の教皇は、技術的には違法な司教叙階を行ったことで知られるウクライナの司教を枢機卿に任命し称賛さえしました。この叙階は、本来なら違法となる行為に先行した「必要状態」により、後に教会によって承認されたものです。
筆者は、教会に深刻な危機が存在し、それが普遍的である、つまり教会のあらゆる側面に影響を及ぼしていると主張します。
これは全てのカトリック信者が異端者であるとか、全ての司祭が現代主義者だという意味ではありません。しかし、異端やその他の弊害が悲しいことに常態化していることを意味します。
真実を見抜き、悪しき事象をそのように認識する者もいます。しかし他方では、自らの欺かれた目を信じず、聖ペトロ大聖堂の広場に現れた行列がパチャママの祭礼か聖母マリアの行列かを区別できない者もいます。
多くの人々が信仰の危機を認識できないのは、彼ら自身が信仰の完全性を教わったことがないからです。もし私たちがカトリック宗教の完全性、すなわち聖伝(典礼も大いに含まれる)に触れたことがなければ、どうして危機を認識できるでしょうか? 歴代教皇の教え、公会議以前の神学(回勅や良質な霊性書)を学び、聖伝の典礼で礼拝することによってのみ、真に起こったことの視点を得ることができるのです。
事実
本書の読者層が普遍的であるため、特定の国や地域に焦点を当てるのではなく、私たち全員が目にしている傾向について論じます。
本書を読むほぼ全ての人が、自身の小教区、司教区、学校、神学校で起きていることについて、何らかの恐ろしい話、あるいは終わりのない恐怖の連鎖を語ることができるでしょう。
例外はあるものの、修道者の召命は急落しています。青年男子が神学校に十分な数で入らないため、多くの神学校は恐ろしい神学的養成の拠点と化しています。修道女の数は世界的に激減し、かつて名声高かった修道会もフェミニズムの殻と化しています。
一部の批評家は、アフリカの教会が一見順調に見えることから、この危機が普遍的ではないと示唆するかもしれません。しかし、アフリカの教会は人々が考えるほど順調ではありません。プロテスタントはサハラ以南のアフリカ諸国で急増し、かつてカトリックの拠点だった地域を追い越しています。さらに、アフリカのカトリック信者は、イスラム過激派テロの脅威に関連する様々な危機に直面しているほか、辺境地域では司祭不足が深刻で、事実上宣教地のような状態にあります。
アフリカは文化的に保守的で宗教的な大陸であり、もちろん西洋と比べれば宗教の聖域のように見えますが、カトリック教会が何らかの黄金時代を迎えているわけではないのです。 4
【ジャネット・E・スミスはクライシス誌に「一致、カリスマ的ミサ、アフリカ」という素晴らしい記事を寄稿し、アフリカのカトリック教会の相対的な衰退について解説しています。また、サハラ砂漠以南のアフリカ亜大陸における信仰の基盤を築いたのは、マルセル・ルフェーブルのような伝統的な宣教師たちの働きであったと述べています。https://www.crisismagazine.com/opinion/unity-rejection-of-vatican-ii-an…】
マルセル・ルフェーブル大司教は、批判者たちよりもアフリカのカトリックの事情に精通していました。西アフリカで司祭および司教として30年間、アニミズムからカトリックへの改宗活動に従事した経験があったからです。
ヨーロッパやラテンアメリカといった伝統的なカトリックの拠点を見れば、壮大な規模の完全な惨状が明らかです。
西ヨーロッパの大部分は世俗化された道徳的ディストピアと化しており、所々に希望の光が見え隠れするに過ぎません。司祭志願者は激減し、家族はほぼ例外なく避妊を行い、若者は堅振を終えると「卒業式」とばかり教会を離れています。
北米でも同様の状況であり、ラテンアメリカでもこのような傾向は増加しつつあります。ただし文化的カトリックの影響で、社会的・家族的理由から儀礼的なカトリックを装うラテンアメリカ人は多いのは確かです。
世界中の司教たちは、あなたが恩寵の状態にあるかよりも、ワクチン接種の有無を気にかけることが多く、教皇フランシスコは、接種を受けることは愛の行為である一方、他者を改宗させようとすることは「重大な罪」だと述べています。5
【フランシスコ教皇は、「改宗活動(布教)」は罪であり、「重大な罪」であると何度も述べています。改宗活動(布教)とは、誰かを改宗させようとすることです。このことから、カトリック信者は、教皇が霊魂をキリストに改宗させようとすることを罪深いと考えていると確信しています。】
私たちは蔓延する性的虐待スキャンダルについては触れていません。これに対して司教区は和解金として莫大な金額を支払っています。
現時点でほとんどのカトリック機関は本質的に救いようがなく、もし確信が持てないなら地元のカトリック大学へ行き、リベラルな教授が「イエズスは社会主義者だった」と講義するのを最後まで座って聞くというつらい苦行をしてみてください。
ミサにおける冒涜と不敬は世界中で制度化されたかのようで、これに異議を唱える者は「頑固者」と呼ばれ、モグラたたきのように容赦なく叩き潰されます。
最後に、私たちは現代主義が蔓延する時代に生きています。教皇ピオ十世はこれを「あらゆる異端の肥溜め」と定義しました。
もし私たちが対処すべき異端が一つだけなら、それは贅沢に思えるほどです。しかし実際には、それらすべての異端の総合に対処しなければならないのです。
四世紀のアリウス派危機について記した聖ヒエロニムスの言葉を借りれば、全世界は呻き、自らを近代主義者と見出して驚愕したのです。
この危機は現実のものであり、残念ながら、聖職者たちがこの問題について多くのことを行うことを期待することはできません。
フェレイ司教が1999年の講演でつぎのように述べたとおりです。「フランスの信徒の一人が、あるフランス人司教のスキャンダラスな行為についてヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿に手紙を書きました。枢機卿に代わってペルル司教はこう答えました。
『その通りです。教会の状況は無政府状態です。ローマからの命令でこの状況が解決すると期待するなら、それは完全な幻想です。』」6 (強調は筆者)
【1999 年にフェレイ司教が公会議後の危機、その要素と現実、そしてカトリック教会の対応がどうあるべきかについて行った典型的な会議からの抜粋。https://sspx.org/en/crisis-problems-causes-remedies-30568】
無政府状態、危機、何と呼ぼうと構いません。しかしローマが法的措置で問題を簡単に解決できると考えるなら、「あなたは完全な幻想の中にいる」と責任者たちは言います。
これはローマの法的措置が危機を解決する奇跡を起こせないという意味ではありません——私はそれが可能だと信じています——しかし興味深いのは、教会の最高権威でさえ教会内に無法状態が存在することを認めている点なのです。批判者が法的議論を離教や破門の非難へとすり替える時、あたかも教会の法的状態が混乱と荒廃に陥っていないかのように振る舞うのは、私たちに一考を促すべき点です。
実際、ルフェーブル大司教のいわゆる「破門」の背景にある論理(本書後半で詳述する)は、彼が教皇ヨハネ・パウロ二世の意向に従わず、教皇への服従を拒否したというものでした。 後述するように、マルセル・ルフェーブルは、原則として教皇への服従を拒否したのではなく、教会の益のために特定の状況下では教皇の意思に反する行動を取らねばならない、と信じていたのです。これは教会史において幾度となく行われてきたことです。とはいえ、たとえ一度でも教皇への服従を拒むことが、その者を離教者と呼ぶのに十分であるならば、ペルル司教が認めたように、そもそもローマの権威に従わない無数の聖職者たちについては、いったいどう説明すべきでしょうか。
有名な論文「離教にあらず、破門にあらず」の著者は、公会議以降カトリック信者が直面する選択肢を対比して、この状況を最もよく要約しています。7
https://fsspx.jp/ja/lijiaoniarasupomenniarasu-46819
【これは、書籍「聖伝は破門されたのか?」に掲載された記事で、1988年 9月の Courrier de Rome (イタリアの SiSiNoNo のフランス版) に初めて掲載されました。】
彼は、マルチン・ルターを不可謬的に(ex cathedra)排斥した教皇の非難と、ドイツの異端者の生誕500周年を祝い「カトリックとプロテスタントとの学者らの共同の研究により、ルターの深い宗教性が現れてきた」と宣言した現在の教会動向とのどちらかを選ばなければならない。
彼は、主の贖罪の事業以来、すべての人間に「霊と真実をもって」天主に崇拝を捧げる義務を課す、第一戒「汝、我が前に異国の神々をもつなかれ」と、ローマ教皇の招きによりアッシジのカトリック教会で、迷信さえも含めたすべての形式の礼拝が実践されたという、現在の教会の方針との間で選択を迫られている。
彼はカトリック教義「教会外に救いなし」と、非キリスト教さえも天主への運河であり、多神教さえも敬うべしと宣言する現代の教会方針との間で選択を迫られている…。
彼は、《異端者》や《破門されたもの》あるいは《離教者》は「カトリック教会の外にいる」とする教会の古来の教えと、現在の教会方針との間で選択を迫られている。後者によれば、「さまざまなキリスト教と呼ばれる団体」は「深さ」が異なるのみで、全き交わりの中にいるとする現在の教会の方向性、すなわち結果として様々な異端および/または離教の宗派は「教会として、又は、教会的団体として尊重されなければならない」とする方向性の間で選択しなければならない。