ケネディ・ホール著『聖ピオ十世会:擁護』マルセル・ルフェーブルとは誰か?聖ピオ十世会とは何か?
ケネディ・ホール著『聖ピオ十世会:擁護』
マルセル・ルフェーブルとは誰か?聖ピオ十世会とは何か?
聖ピオ十世会について語る上で、創設者であるマルセル・ルフェーブル大司教について触れずに語ることは意味をなしません。
以下は、読者が理解しやすい形で彼の概要を示す簡潔な経歴です。詳細な伝記研究については、ベルナール・ティシエ・ド・マレレ司教による公式の伝記など、数多くの権威ある網羅的な資料が存在しています。8
【私たちが推奨する英語での伝記の資料は次のとおりです。
(1) ベルナール・ティシエ・ド・マレレ司教著『マルセル・ルフェーブル』(アンジェルス・プレス、カンザスシティ、2004年)
(2) マイケル・デイヴィス著『Apologia Pro Marcel Lefebvre』(アンジェルス・プレス、カンザスシティ、1979年)
(3) 紹介ビデオ(103分)『Archbishop Lefebvre – A Documentary』(アンジェルス・プレス、カンザスシティ、2003年)オンラインおよびDVD形式で入手できます。
(4) 自伝的著作二冊を紹介します。『Spiritual Journey』(アンジェルス・プレス、カンザスシティ、1991年)と『The Little Story of My Long Life』(聖ピオ十世会の修道女会、2002年)】
マルセル・ルフェーブルはフランス北部のトゥルクワン市出身です。父は製造業を専門とする成功した実業家であり、これは20世紀当時のフランスではごく一般的な職業でした。両親は明らかに敬虔な信者であり、自ら深い信仰心を持つだけでなく、八人の子供たちに信仰を深く浸透させる形で伝えたため、そのうち五人が天主の召命に応えて聖職に就きました。マルセルの人生にこれほど多くの不当な論争が付きまとうのは残念なことです。それはおそらく、彼の両親の勇気と聖性を正しく探求する上での妨げとなっています。親が子供に伝えられるのは、自ら与えることができるだけです。大司教の両親の場合、祈りと犠牲を通して天主の恵みの泉が豊かに流れ出していたようです。
マルセルは司祭職の初期をフランス語圏アフリカで宣教師として過ごしました。この数年間、彼はまさに「何でも屋」であることを示しました。 現地では、洗礼を受けたばかりの家庭の若者たちを教育するかたわら、漁村で機械を修理し橋を架ける姿が見られました――常にスータン姿でです。現地の方言を習得し、 管轄下の宣教地や前哨基地で農業経営を成功裏に監督しました。ベルギー国境近くの寒冷地で育ったとしても、彼はまるでアフリカ原住民のようになり「ジャングルの人」の生活さえ愛するようになりました。
やがてマルセルは、現在のセネガルに位置するダカール大司教の座に就くに値する人物となりました。実際には単なる都市教区ではなく、彼が統括したのは広大な地域でした。彼の指導のもと、カトリック信仰は驚異的な速度で大陸全体に広がり、今や多くの人々からイエズス・キリストへの信仰が最も深い地域と見なされています。生まれながらのビジネスセンス、穏やかでありながら妥協を許さない性格、そして天主の祝福による卓越した神学教育が相まって、発展途上のサハラ以南のアフリカという地で永続的な影響力を発揮できる人物が生まれました。
第二バチカン公会議が近づくにつれ、大司教は準備文書の諮問を依頼されました。ローマへの忠実な子供として、彼はこれに応じました。マルセル・ルフェーブルは聖伝のために倦むことなく尽力しました。聖座への忠誠から、彼は公会議文書に同意しました(ただし深い留保付きで)。ルフェーブル大司教は他の保守派の司教たちと共に戦い、公会議文書から最も甚だしい誤りを排除する多くの成功を収めました。
公会議の余波は、忠実なカトリック信者にとって罰のように受け止められました。歴史的に装飾豊かな小教区に戻った者も、スタジアム式の座席やグロテスクな建築を目の当たりにしました。これはルフェーブルにとって痛切な現実となりました。神学校生たちが彼に訴え出たのです。彼らは司祭養成のために神学校に入学したのに、今や失われつつある宗教のために訓練されているように感じていました。 何万人ものカトリック信者が教会を離れ、修道女たちは女子修道院を、修道士たちは男子修道院の独房を去っていきました。長年祭壇で奉仕してきた若者たちは二度と教会に足を踏み入れませんでした。
信仰を損なうこうした変化に抵抗できる聖職者や教会の司祭たちはどこにいたのでしょうか?霊的な子らがその遺産を受け継げるよう保証する人物はどこにいたのでしょうか? ルフェーブル大司教こそがその使命にふさわしい人物でした。
彼は聖ピオ十世会司祭兄弟会を設立し、聖なるミサの犠牲とカトリック司祭職、そして正統なカトリックの信仰の教義と典礼を守ることに尽力しました。司祭の聖伝の養成を維持することに全身全霊を捧げたのです。
公会議後の20年間、彼は今日「聖伝主義者」と呼ばれる、妥協を許さない忠実なカトリック信者の少数派を率いました。過ぎ去った輝かしい時代には、いわゆる「聖伝主義者」は単に"カトリック信者"と呼ばれていました。いずれにせよ、ルフェーブルは生涯の終わりに近づき、司祭を聖伝に従って養成することを継続するには、目に見える道はないと悟ったのです。
司祭を叙階するには司教が必要です。通常、司教を聖別するには教皇の委任(mandatum)が必要です。しかし、教会の統治に関わる多くの事柄と同様に、深刻な緊急事態は一見過激な行動を必要とすることがあります。アリウス派の異端に抵抗した偉大な英雄たちや、半アリウス派信条を黙認した教皇リベリウスに対抗したように、マルセル・ルフェーブル大司教は、教皇の祝福なしに四人の司教を聖別し、天主の御旨であると信じたことを実行しました。
世界の大半にとってこれは離教行為のように映りました。しかしルフェーブルの考えでは、カトリック信仰の継承を守るためのどうしても必要不可欠な行動でした。彼は誰にも劣らず教会法を熟知し、卓越した神学者であり、慎重な人物でした。二千年にわたる教会の歴史において、司教の選出にローマの承認が常に必要とされてきたわけではないことを理解していました。 また彼は、"教会法的な管轄権を持つ地域を統括する司教を聖別すること"(これが分派的な行為であり、並行する教会を設立することを意味する)と、"良き司祭の叙階といった秘跡的奉仕を継続することだけを目的とする補佐司教を叙階すること"との違いを理解していました。あまりにも多くの人々がこの決定的な区別を認識しておらず、その重要性はほとんどの論評家によって著しく過小評価されています。
1988年にこれらの運命的な司教聖別を実行する前に、彼は天主のご摂理によって特別な行動が必要であることが示されるまで待ちました。とりわけ1986年のアッシジでの出来事は一つの兆候でした。世界が注目する中、キリストの代理者たる教皇が世界の諸宗教の指導者たちと自ら進んで対等であるかのように並んだからです。この瞬間、万王の王は、聖三位一体から霊魂を絶えず誘惑する堕天使たちと同列に置かれたように見えさえしました。
アッシジの行為自体が教会の指導層の病弱さを示しただけでなく、ほとんどの人々がスキャンダルに無関心だった事実もまた、ルフェーブル大司教が公然と抵抗するほぼ唯一の者であったことを物語っています。私たちの世界は信仰の偉大な時代からあまりにも遠く離れ、荒野で叫び、宗教的・世俗的指導者たちに悔い改めを呼びかける預言者をほとんど認識できなくなっているのです。
今日に至るまで、彼を離教者だと主張する者もいれば、「不服従」と叫ぶ者もいます。しかし、大司教はいったい誰から分離したのでしょうか?
ルフェーブル大司教は確かに主から分離したわけではなく、ローマカトリック教会の境界を公式に離脱する行為も一切行っていません。さらに、急速な衰退の中ではかなく過ぎ去る時代の精神に膝を屈しない者を、不服従と呼ぶことはできません。
また、天主は別の道を見出されただろうから、彼が司教を聖別する必要はなかったと示唆する者もいます。しかし、まさに天主がこのフランス人司教を選ばれて、ローマに蔓延した反キリストの精神に対して、公の反革命の立場を揺るぎなく貫くようにされた可能性は、同様に考えられないでしょうか?
ルフェーブルは預言者でした。すなわち、まだ万人に知られざる天主の秘められたことを語り、そのために預言者たちがそうであるように苦難に遭ったのです。しかし、もし私たちが聖伝の果実を享受するなら、この人物に感謝すべきです。マルセル・ルフェーブル大司教は聖ピオ十世会を授けただけでなく、危機の時代に聖人たちがなすべきことを私たちに思い起こさせてくれたからです。
正統性と聖伝をめぐる闘いは今もなお激しさを増していますが、現代の聖アタナシウスたるマルセル・ルフェーブルの尽力により、聖ピオ十世会には多くの司祭や修道者が秘跡を執り行い、聖なる生活を送っています。9
【現在、聖ピオ十世会はカトリック教会における最大の聖伝の司祭修道会です。ルフェーブル大司教が聖アタナシオとどのように比較されるかについては、マイケル・デイヴィスによるYouTubeの講演「THROWBACK: Michael Davies Legendary Pro-SSPX, Marcel Lefebvre speech」https://www.youtube.com/watch?v=JRVggSlUMkc をご覧ください。】