抽象的な従順と具体的な従順

ソース: FSSPX Japan

聖ピオ十世会は、2026年7月1日に司教聖別式を執り行うことで、教皇に背いていると非難されることが多い。その論拠は単純に思える。ローマ教皇庁がこれらの司教聖別式を禁じたのだから、従順は当然必要だった、というものだ。しかし、この反論は、抽象的な行為と具体的な行為との根本的な混同に基づいている。従順とは、孤立した行為を指すのか、それとも、その道徳性を決定づけるあらゆる状況を含めた実際の行為を指すのか。これが問題の核心である。

神学者の課題は難しい。神学は複雑な学問分野である。その理由は、対象が天主ご自身であり、人は天主を間接的に、類推によってしか知ることができないからだけでなく、その主題が、あらゆる存在に及ぶほど広範だからである。なぜなら、あらゆるものが天主と関連づけられるからである。神学を習得するには、まずスコラ哲学、次に神学そのものを学ぶという、長年の研究が必要である。神学者を自称する者は、しばしばソクラテスの有名な格言の反対に陥る。「知らないほど、知ったかぶりをする。」

聖ピオ十世会は、「抽象的な」従順を実践していないとして批判されている。ここで説明しよう。教皇が、抽象的に、かつ道徳的対象の観点からのみ考察すれば善悪どちらでもない行為(7月1日の司教聖別式を控えること)を聖ピオ十世会に命じた以上、同会はそれに従うべきであった、たとえこの行為が、具体的に、かつ全体として考察すれば悪である可能性があったとしても(なぜなら、それは必然的に第二バチカン公会議と新しい典礼の受容につながるから)。しかし果たして本当にそうだろうか?

従順の対象は具体的な行為であり、抽象的な行為ではない

聖トマス・アクィナスによれば、法の対象は「個別的かつ偶発的な事実から成る」人間的な行為[1]、すなわち具体的な人間の行為である。なぜなら、具体的なものは個別的かつ偶発的であるのに対し、抽象的なものは普遍的かつ必然的だからである。言い換えれば、法は、あらゆる状況を伴う、今ここで行われる特定の行為の遂行を規定する。

さて、従順の対象は命令(précepte)である[2]。命令と法律の違いはただ一つ、法律は常に共同体に対して向けられるのに対し、命令は個人に対しても向けられるという点だけである。したがって、法律と同様に、従順も具体的な人間の行為を対象とする。

その理由は非常に単純である。抽象的な人間の行為は現実には存在しないからである。それはまさに抽象化、つまり、現実には切り離せない側面を切り離す私たちの知性の働きに過ぎない。

例を挙げてみよう。すべての人間は人間本性を持っている。しかし、人間本性それ自体は現実には存在しない。言い換えると、人間本性は、分離して存在することも、自律的な存在を持つこともない。つまり、人間本性は私たち人間の中にのみ存在する。真に存在するものは人間、すなわち人間本性をもつ具体的な人間であり、人間本性は各個人を個人たらしめるものと不可分に結びついている。

人間の行為についても同様である。抽象的な人間の行為、つまり、道徳的対象の観点からのみ考察された行為は、現実には存在しない。例えば、単純な「殺人」は実在しない。存在するものは、ある特定の人物の殺害とそのあらゆる状況である。被害者は無実だったのか?不当な侵略者だったのか?正当な戦争における敵だったのか?などなど。まさにこうした状況こそが、人間の行為を具体的なものにするのである。

そして、法や命令が命じるのは、まさにこの具体的な人間の行為である。したがって、命令が合法であるか否か、ひいてはそれに従うことが正当であるか否かを判断するには、それが規定する具体的な人間の行為の道徳性を評価しなければならない。

具体的な人間の行為の道徳性は、その道徳的対象だけでなく、状況にも左右される

さらに進む前に、重要な点を明確にしておく必要がある。抽象的な行為と具体的な行為とは何を意味するのだろうか?

人間の行為の道徳性は、その道徳的対象と状況という二つの要素に依存する。最も重要なのは、行為者が追求する目的である。詳細に立ち入らずとも、道徳的対象とは、行為がその性質上向かうものであり、その行為の主要な道徳的側面を構成するものである(例えば、歩くこと)。一方、状況とは、この主要な対象に付加される二次的な道徳的側面である(例えば、強盗をするために歩くこと、リラックスするために歩くことなど)。

抽象的な人間の行為とは、状況を考慮せず、その道徳的対象のみの観点から考察される行為を指す。他方で、具体的な人間の行為とは、その道徳的対象と、あらゆる状況の両方の観点から考察される行為を指す。

例を挙げてみよう。マーク氏は歩いている。この行為は良い行為だろうか、悪い行為だろうか?抽象的に言えば、つまり道徳的対象のみの観点から言えば、歩くことは道徳的に中立な行為である。歩くことは良い行為でも悪い行為でもない。

しかし、具体的に言えば、この行為は特定の状況下で行われる。もしマーク氏が盗みを働くために歩いているのであれば、彼の行為は悪い行為である。もし彼が休息のために歩いているのであれば、彼の行為は良い行為である。

別の例を挙げてみよう。マリアは施しをしている。施しは、その道徳的対象のみの観点から言えば、良い行為である。しかし、もしマリアが注目を集めるため、つまり虚栄心から施しをしているのであれば、彼女の具体的な行為は悪となり、罪を犯していることになる。

確かに、この原則はここにも当てはまりる。「原因の完全性から善が生まれ、欠陥から悪が生まれる」。
具体的な道徳的行為が善であるためには、その構成要素(対象と状況)すべてが善でなければならない。逆に、これらの要素のうち一つでも悪であれば、行為全体が悪となる。

先に述べたように、従順は具体的な人間の行為に関わるものである。したがって、命じられた具体的な行為が善であれば、従わなければならない。悪であれば、不従順でなければならない。

この論理は明確である。しかし、なぜ聖トマス・アクィナスをはじめとする神学者たちは、命令された行為がそれ自体悪である場合にのみ不従順が可能であると主張するのだろうか?

対象の道徳性を変化させる状況は、その対象の不可欠な一部となる

一見すると、それ自体悪である行為について語る時、私たちは自然と、状況を抽象化し、行為を道徳的対象の観点からのみ捉え、言い換えれば、抽象的な人間の行為として考えてしまいがちである。

実際には、そうではない。

「それ自体悪」という表現は、「本質的に悪」や「対象ゆえに悪」と同義ではない。これらは類推的な概念であり、その意味は文脈によって判断されるべきである。従順によって命じられた行為のように、具体的な行為について語る場合、「それ自体」という表現は、その具体的な行為の道徳性を指していることは明らかであり、その道徳性は状況によっても左右される。

聖トマスはより深い説明を与えている。

「理性の過程は或る一つに限定されてはいない。いかなる与件からも、常にさらに先へと進むことができる。従って、ある行為において、その行為の種類を規定する対象に付加された状況とみなされるものが、理性によって秩序付けられた行為の性質を規定する対象の主要な条件とみなされることができる。
「他人の財産を横領することは、他人のものであるという理(ことわり)からその種類【が何か】を得る。ここから窃盗の罪の種類が構成される。場所や時間という理(ことわり)について考えるなら、これらは単なる状況の理(ことわり)しか持たない。しかし、理性は、場所、時間、その他の同様の条件に基づいて秩序付けることもでき、対象に関して、場所という条件が理の秩序に反することがある。例えば、理は聖なる場所で罪を犯してはならないと定めている。
したがって、聖なる場所で他人の財産を盗むことは、理の秩序に特別な対立を加えることになる。このように、以前は単なる状況であった場所が、今や、理に反する主要な条件とみなされる。
このように、或る状況が理の特定の秩序に、好ましいか好ましくないかにかかわらず、関係する場合、その状況が、善であるか悪であるか道徳的行為に種類を与えなければならない。」[3]

要約し、簡潔に述べよう。

対象の性質から道徳的に中立な行為が、状況によって善悪を決定づける場合、あるいは対象の性質から善である行為が状況によって悪となる場合、状況は道徳的対象の不可欠な一部となり、それゆえ、その行為に固有の意味での主たる道徳性を付与する。

一方、対象がそれ自体で既に善であるか悪であるかが、状況によって単により良くなるかより悪くなるか、あるいは状況から具体的に異なる善悪を付与される場合、状況は単なる付随的な性質しか持たない。[4]

次の結論は避けられない。

最初の2つのケースでは、状況は行為の本質そのものに不可欠な要素であり、したがってその行為の本質的な道徳性を決定づける。行為は、その状況に覆われ、また状況によって、それ自体で善悪を決定づけるのであって、単に偶然的(付随的)ではない。

一方、最後の2つのケースでは、状況は純粋に偶然的(付随的)な善悪を付け加えるにすぎない。

教皇が聖ピオ十世会に命じた具体的な道徳的行為すなわち、あの司教聖別を控えることは、それ自体で悪であり【状況が行為の本質そのものに不可欠な要素でありしたがってその行為の本質的な道徳性を決定づけるのだから】、したがって従順の対象とはなり得ない

ピオ神父のケースを考えてみよう。

彼は、従順によって、告解を聞くことを控え、霊的な子供たちとのあらゆる接触を断つことを強いられた。

これらの行為は、道徳的対象という観点のみから見れば、道徳的に中立である。状況に照らして見れば、これらの行為を悪とする要素は何もない。告解を聞いたり、信徒に霊的指導を与えたりすることを禁じる命令は、信徒が健全なカトリック教義を持つ他の司祭に容易に相談できない状況にあった場合にのみ誤りであっただろう。しかし、少なくとも当時はそうではなかった。

したがって、ピオ神父が受けた命令自体には何ら誤りはなく、たとえ命令を下した上司が軽率さや個人的な恨みから罪を犯した可能性があったとしても(意図を判断することはできないので「可能性があった」と言う)、従わなければならなかった。

7月1日の司教聖別は、全く異なる状況から生じたものである。

聖ピオ十世会は、司教聖別を控えるよう命じられた。

道徳的な目的という観点のみで考えると、この行為は道徳的に中立である。状況に関わらず、司教聖別を行うか否かは、善でも悪でもない。

しかし、現代の具体的な状況を考慮に入れると、その行為は悪となる。なぜなら、私たちの記事「離教でもなく不従順でもない」でより詳しく説明したように、それは必然的に第二バチカン公会議と第二バチカン公会議後の誤りを受け入れることにつながるからである。

さて、対象においては道徳的に中立な行為が、状況によって悪となる場合、すでに述べたように、これらの状況はその道徳的対象の不可欠な一部となる。

したがって、今日、司教聖別を棄権することは、それ自体が悪い行いであり、教皇が命じることも、聖ピオ十世会が従うこともできない行為である。

さらに、抽象的に悪でない命令にはすべて従わなければならないという批判が正しければ、不合理な結論に至るだろう。

例を挙げてみよう。

銀行取引を行うことは、抽象的に言えば道徳的に中立な行為である。それが善か悪かは状況によって決まる。例えば、単に自分の口座から別の口座へ送金する行為は善い行いである。一方、盗んだ金をオフショア口座【自国の規制のかからない海外口座など】に送金する行為は悪い行いである。

反対者の主張によれば、司教が自分の部下の司祭に資金洗浄された金をケイマン諸島の口座に送金するよう命じた場合、司祭は命令に従わなければならない。なぜなら、銀行取引という行為は、それ自体を抽象的に、つまり道徳的な目的のみの観点から見れば、道徳的に中立だからである。

別の例を挙げてみよう。

聖体拝領は、道徳的な目的の観点から見れば善い行いである。しかし、大罪の状態にある人が聖体拝領を受けることは冒涜行為、すなわち悪い行いである。

私たちを批判する人々によれば、司教が、大罪の状態にある信徒に聖体拝領をすること命じた場合、その信徒はそれに従うべきである。なぜなら、その行為は、状況とは切り離して考えれば、それ自体善い行為だからである。

このような結論の不条理さは、言うまでもない。

また、批判者の方々には敬意を表しつつも、現在聖ピオ十世会を攻撃している多くのウェブサイトが、前教皇【フランシコ】の教導権の行為を構成する特定の教えを批判することに何の躊躇もないことを指摘しておきたい。例えば、和解の手続きを経て離婚・再婚したカトリック信徒の聖体拝領の承認や、同性カップルへの祝福などを考えてみよう。

これもまた、不従順の事例なのだろうか?

「従うならば、決して過ちを犯さない」という主張が本当に正しいならば、少なくとも彼らは批判を控えるべきである。

ピオ神父がルフェーブル大司教に対して行ったとされる預言については、もはや議論する価値すらない。

たとえ、護教論とは異なり、思弁神学において【自分の正当性を証明するために】奇跡に訴えること(provocatio ad miraculum 奇跡への訴え)が論拠の欠如を露呈させるとしても、このエピソードは完全に偽りであり、ここで言及する研究で既に徹底的に証明されている。

私は誰に対しても反対の証拠を提出するよう要求する。

ドン・ダニエレ・ディ・ソルコ


1 Summa theologica、II-II、q. 120、a. 1.

2 Summa theologica、II-II、q. 104、a. 2.

3 Summa theologica、I-II、q. 18、a. 10. "Sed processus rationis non est determinatus ad aliquid unum, sed quolibet dato, potest ulterius procedere. Et ideo quod in uno actu accipitur ut circumstantia superaddita obiecto quod determinat speciem actus, potest iterum accipi a ratione ordinante ut principalis conditio obiecti determinantis speciem actus. Sicut tollere alienum habet speciem ex ratione alieni, ex hoc enim constituitur in specie furti, et si consideretur super hoc ratio loci vel temporis, se habebit in ratione circumstantiae. Sed quia ratio etiam de loco vel de tempore, et aliis huiusmodi, ordinare potest; contingit conditionem loci circa obiectum accipi ut contrariam ordini rationis; puta quod ratio ordinat non esse iniuriam faciendam loco sacro. Unde tollere aliquid alienum de loco sacro addit specialem repugnantiam ad ordinem rationis. Et ideo locus, qui prius considerabatur ut circumstantia, nunc consideratur ut principalis conditio obiecti rationi repugnans. Et per hunc modum, quandocumque aliqua circumstantia respicit specialem ordinem rationis vel pro vel contra, oportet quod circumstantia det speciem actui morali vel bono vel malo."

4 M. D. Prümmer、Manuale theologiae Moralis secundum principia S. Thomae Aquinatis. 1961 年、第一巻 No 119.