第一戒:聖人、聖遺物、聖像への崇敬

ソース: FSSPX Japan

2026年7月5日  聖霊降臨後第6主日

トマス 小野田圭志神父 説教  日本の聖なる殉教者聖堂(大宮)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、

天主の十戒シリーズ第三回目です。今日は第一戒「われはなんじの主なり。われを唯一の天主として礼拝すべし」の続きを黙想いたしましょう。

【復習】

この前、私たちはすでに天主の十戒の中で、その内容や荘厳さ、また卓越性から、第一戒が第一にして最大の掟であり、私たちすべての人間に課せられた最も重大な掟であることを学びました。第一戒とは、全宇宙を創造した全知全能の真の天主を認め、信じ、礼拝し、希望し、お愛し申し上げるという絶対の客観的な義務です。

考えてみてください。ここに或る家族がいるとします。お父さんとお母さんと子供たち、使用人たちやペットもいます。お父さんの父親としての愛と計らい、一生懸命の労働で、良いお家もあればご飯も食べられます。このお父さんが、妻や子供たちから深い愛と従順を受けるのは全く当然です。もしも、その妻が夫以外の男性に夫のように仕えたら、それは大きな罪です。また、子供たちが、お父さんから全てを受けながら、何もしていない別のおじさんを父親であるかのように敬ったら、それは狂気の沙汰です。

これと同じように、私たちは天主からすべてを受けています。すなわち、家庭のお父さんが受けるよりも、さらに深い愛と服従とを天主がお受けになるのは、まったく当然です。天主は私たちを造り、治めておられます。私たちは、お母さんのお腹の中にいる時から天主に養われ、天主によってこの世に生まれてきました。また、天主は、私たちの生命と生活に必要なものすべてを供給してくださっています。特に洗礼を受けた私たちは、まるで天主から特別の愛を受けた妻であるかのようです。

ですから、聖にして母なるカトリック教会が、二千年間、信ずべきこととして教え続けてきた使徒継承の信仰を信じ続けなればなりません。これが、第一戒を守ることの大切さです。それを信じずに異端に陥る人、夢判断や占い、迷信、その他のむなしい事柄を信じる人、自分の救いについて失望し、天主の憐れみに依り頼まない人、地上の富だけを頼りにする人、人間の尊厳をあまりにも高め、崇めるがあまり、天主の尊厳やその権利についてはまったく無視をするような人、どの宗教も同じだなどという宗教無差別主義の人などは、客観的には第一戒に背いています。

【聖人、聖遺物、聖像への崇敬について】

ところで、カトリック教会は、聖なる天使たちや、天国の栄光を受けている聖人たちを崇敬し、祈りを捧げます。また、聖遺物や聖像に対して敬意を払っています。これはどうなのでしょうか? 今日は特に、カトリック教会が常に実行してきた、聖人や聖遺物などに対する崇敬についてお話ししたいと思います。

【礼拝と崇敬】

これは第一戒に背くものでは決してありません。何故ならば、天主だけに捧げられるべき「礼拝」と、天使や聖人たちに行われる「崇敬」とは別のことだからです。

「礼拝」とは、ギリシア語で「ラトリア(latria)」と呼ばれます。これは、最高の敬意で、私たちの最高の主であり支配者である天主に対してのみ捧げられるべき、第一かつ重要な礼拝のことです。

「崇敬」は、ギリシア語で「ドゥリア(dulia)」と呼ばれ、下位の敬意です。これは、天使たちや聖人たちに対して捧げられる、純粋な尊敬と崇敬の念に基づく礼拝です。何故ならば、聖人たちの卓越性はすべて、天主に由来するもの、天主に依存するものだからです。天主が恵んでくださったからこそ、聖人たちは優れた者となったのです。また、特に聖母マリア様は、無原罪の御宿り・充ち満てる聖寵・天主の御母・共贖者・すべての聖寵の仲介者・天と地の元后という類まれな素晴らしさゆえに、諸聖人の中で特別の地位を占めておられます。ですから、マリア様には「特別崇敬(ギリシア語ではヒペルドゥリア)」と呼ばれる特別な崇敬が捧げられます。マリア様に対する崇敬も、聖人たちに対する崇敬も、本質的には異なるものではありませんが、最高の程度の崇敬という意味で、マリア様は「特別崇敬」と言われています。

天主と聖人の間において教会が設けている「礼拝」と「崇敬」というこの根本的な区別は明白です。厳密に「ラトリア」という最高の礼拝に属する行為の例として、ミサ聖祭があります。これは天主のみに捧げられるものであり、聖人に捧げられるものではありません。ある聖人の記念日や祝日にその聖人を特別に記念してミサが行われるため、慣習的に「聖だれそれのミサ」と呼ぶことはありますが、本質的には天主へのいけにえです。聖堂や祭壇も本来、ミサ聖祭を捧げるためのものです。ですから、ある聖人を保護者として聖人に因(ちな)んで建てられることはあっても、聖堂や祭壇そのものは聖人のためではなく、天主のみのために建立されるのです。

諸聖人を崇敬することで、その聖寵によって彼らをそれほど聖なる人とされた天主を私たちは賛美し、感謝し、褒め称えるのです。ですからこれは、第一戒に背くことでは一切ありません。

もし、或る王国で、本当の王を王として認めず、誰か別の人を王だとするなら、これはクーデターであり謀反です。つまり偶像崇拝のことです。しかし、王は、自分が任命した大臣や行政官、あるいは自分の妻や子供たちが尊敬されるのを禁止するようなことはしません。何故ならば、彼らを尊敬することは、彼らにその地位を与えた王を尊敬することだからです。

ですから、私たちは、至高の主であり支配者である天主にのみ帰すべき、天主以外には捧げられ得ない礼拝は天主のみに留保しつつ、天主の友人である聖人たちを敬意と愛情を込めて崇敬します。それはちょうど、この地上において、高貴さや功績、聖性によって際立った人々を私たちが敬うのと同じことです。

王が大臣に捧げられる名誉によって喜ぶのと同様に――何故なら、そのような名誉は、実際には君主自身の栄誉にも繋がるからです――聖人に捧げられる名誉もまた、天主の栄光につながるのです。

私たちが聖人たちを敬うのは、単に聖人たち自身のためだけではなく、聖人と天主とが親しい関係にあるからです。聖人たちが天主に愛され、天主の友人であり、天主と親密に結ばれているからであり、また、聖人たちの中に、天主がその力と寛大さ、憐れみの豊かさを現すことをよしとされたからです。ですから、聖人を敬うことは、あらゆる聖性の源にして、あらゆる善の創始者であり、またあらゆる徳に報いられる方である天主を敬うことでもあります。

【祈りにおける呼びかけの違い】

ですから、天主への呼びかけと聖人への呼びかけの間には違いがあります。私たちが天主に呼びかけるとき、天主をあらゆる善の源であり、与え手であると見なしています。そのため、天主に向かって次のように祈ります。「我らを憐れみ給え(私たちを憐れんでください)」「我らの祈りを聞き入れ給え(私たちの願いを聞き入れてください)」「我らを救い給え(私たちを救い出してください)」と。

ところが、聖人たちに対してはこのように祈りません。カトリックにおいて、聖人たちは私たちの執り成し手として見なされています。聖人たちの祈りは、私たち自身の祈りよりもはるかに大きな力を持つからです。そのため、聖人たちに向かっては「我らのために祈り給え(私たちのために祈ってください)」「我らのために取り次ぎ給え(私たちのために執り成してください)」と祈ります。

確かに、私たちに与えられた仲介者は主キリストただおひとりです(1ティモテオ25)。イエズス・キリストだけがその御血をもって私たちを天の御父と和睦させ(ローマ5910)、永遠の贖いをなしとげられ(ヘブレオ912)、ただ一度だけで永久に至聖所に入り、私たちのためにつねに取り次いでおられます(ヘブレオ725)。

だからといって、主が聖人たちの取り次ぎを求めることは許されないということにはなりません。なぜなら、使徒聖パウロは、生きている兄弟たちの祈りを自分のために熱心に求めていたからです(ローマ1530、エフェゾ61819、テサロニケ後312)。生者の祈りも、天国にいる聖人たちの祈りも、仲介者キリストの栄光と尊厳とを減少させることは全くありません。

【聖遺物】

聖遺物とは、聖人の死後に残されたもの、例えばその遺体、骨などを指します。また、かつて聖人が使用したものや、聖人と触れ合うことで聖とされたもの――衣服や埋葬布、あるいは殉教者が拷問を受けた際に用いられた道具などもこれに含まれます。

ここでは、イエズス・キリストの御受難と死に関わった品々については除外しておきます。それらには、イエズス・キリストご自身に捧げられるのと同じ崇敬が捧げられるべきだからです。

今ここで、聖人の聖遺物のみに目を向けるならば、彼らの遺体は聖人たちの一部であり、聖人たちがかつてどのような存在であったか、そしていつの日かどのような存在になるかという両方の理由から、私たちは聖遺物に敬意を表するのです。

聖人たちはイエズス・キリストの生ける肢体であり、聖霊の神殿でした。また、克己、償い、あるいは殉教によって天主に受け入れられる捧げ物となり、善行と極めて優れた徳を実践する器でもありました。

聖人たちはどのような存在になるのでしょうか? 今は小さく無価値に見えるその骨も、いつの日か霊魂と再び結び合わされ、永遠に栄光をまとったものとなります。聖人たちが所有していた様々な品々についても同様です。私たちはそれらを、彼らの徳を証しする記念の品として、また彼ら自身を偲ぶための尊い形見として敬います。つまり、聖遺物を敬うことは、それがかつて属していた聖人を敬うことであり、聖人を敬うことは、彼らの友である天主を敬うことなのです。天主ご自身が彼らを尊び、私たちにも彼らを敬うよう命じておられるからです。

私たちは、手元にあるこれらの尊い証(あかし)を通して、聖人たちに取り次ぎを祈るために敬います。私たちが聖遺物を通して彼らを思い起こし敬うように、彼らにも私たちのことを心に留め、天主の御前で祈りによって助けてくださるよう願うのです。

【聖像】

聖像(イコンや彫像など)の崇敬に関するカトリック教会の教えも、これとほぼ同様です。ある人を愛し尊敬へと導くのと同じ自然な本能が、その人の肖像画を愛し、愛情や尊敬、崇敬の念をもって受け入れることへと私たちを導くのです。実際、私たちは偉大な人物や友人、親、あるいは親愛なる人の肖像を敬うものではないでしょうか。ならば、どうしてイエズス・キリストや聖母、そして聖人たちの聖像に対して、同じような敬意を表すことを拒むことができるでしょうか。

聖像に対して私たちが払う敬意は、あくまでそれが表している聖人に対するものであり、絵画や彫像そのものに向けられたものではないということは、誰もが知っています。

聖像に対する敬意は絶対的なものではなく、相対的なものです。聖像を超えて、その像が表す聖人へと向けられる敬意なのです。ですから、私たちが聖像に接吻したり、その前でひれ伏したりするとき、私たちの意図は、イエズス・キリストを礼拝すること、あるいは聖母やその像のモデルである聖人に敬意を表することにあるのです。そして、その崇敬が天主に向けられるか、聖母に向けられるか、あるいは聖人たちに向けられるかに応じて、それぞれ「ラトリア(礼拝)」、「ヒペルドゥリア(特別崇敬)」、「ドゥリア(崇敬)」という名で呼ばれることになります。

ある絵画や聖像は奇跡を起こすものとされることについても、天主はご自身の望むままに自由に恵みを分配される方であり、数ある画像や聖像の中から特定のものを特別な驚くべき特権によって自由に選ばれ、その画像の前や聖地において天主に自らを委ねる人々の祈りを、より快く聞き入れられるからです。

特定の画像や聖像が特別に崇敬されるのは、それら自体に何らかの特別な力が備わっているからではなく、むしろそれらが、天主が私たちに恵みをお与えになる際の全能さ、寛大さ、そして善意を示す、永続的な記念であり、証(あかし)であり、勝利のしるしであるからなのです。

そのような聖画を通して天主に祈りを捧げた人々に対し、天主がしばしば恵みや祝福を授けてこられたのなら、私たちもまた同じ場所で祈るなら、多くの祈りの実りを得られるだろうという希望をもつようになります。

天主ご自身が奇跡を通じて、こうした崇敬を大いに是認されることを幾度となく示されたとしても、決して驚くべきことではありません。この事実は、私たちが述べてきたことを全面的に裏付けるものです。

【遷善の決心】

では、最後に遷善の決心を立てましょう。

私たちは、三位一体にして唯一の天主を、この大宇宙の真の創造主であると認め、信じ、礼拝し、希望し、お愛し申し上げています。だからこそ、天主の聖寵と愛と憐れみの傑作である諸天使や諸聖人を崇敬し、天主の全能と憐れみを賛美するのです。天主の傑作である天使たちと聖人たちは、私たちを助けるために主が私たちに贈ってくださった愛のプレゼントです。私たちが聖人たちの模範を見て、これに奮発して倣うようにするため、また、私たちのために祈ってくれるように聖人たちが存在しています。どうぞ聖人伝をお読みください。カトリック教会には、ものすごい数の素晴らしい聖人たちが驚くほどおります。そしてその生活は本当に私たちの驚きであって、主に賛美せざるを得ないほどのものです。一人ひとりの聖人が歩んだその聖徳、十字架、また生涯は、知れば知るほど本当に素晴らしいものです。聖アウグスティヌスはこう述べています。「殉教者に倣うことなく彼らを崇敬することは、彼らに対して偽りの敬意を払うことに等しい」と。聖人への信心を、彼らが残してくれた模範――天主への愛と従順――に倣うこと以外の何ものかに求めることは誤りです。ですから、私たちは聖人たちに祈りを取り次いでもらうのみならず、聖人たちの模範に倣わなければなりません。また、聖人への敬意を表す信心のために、キリスト信者としての本質的な義務を怠ることは誤りです。正義と聖性をもって天主を愛し、天主に奉仕することに導かない信心は、単なる表面的な信心にすぎません。もし、聖母や聖人への信心を理由に、信仰や道徳に反する生活を送りながらも、なおかつ幸福な死を迎えられると思い込むようなことがあれば、その信心は迷信にまで堕落しかねません。

天使たちや諸聖人への信心は、天主が私たちに憐れみ深く差し伸べてくださった助けであり、天主に近づくことを容易にし、祈りの目的が達成されることへの確信を強め、私たちの敬虔さや信仰を深めるのに役立つものです。

最後にマリア様にお祈りいたしましょう。

マリア様の力強い執り成しと、またその模範によって、私たちと私たちの愛する兄弟姉妹たちが、聖人たちの模範に倣い、現代の様々な誤謬にもかかわらず、真の天主への信仰を固く保ち続けますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。