天主の十戒はなぜ発布されたのか
2026年6月21日 聖霊降臨後第4主日
トマス 小野田圭志神父 説教 イエズスの聖心巡回聖堂(札幌)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
北海道に来ると、大自然の美しさとその恵みにいつも心を打たれます。大宇宙の秩序と調和、そして美しさは、すべてを無から創造された天主が、大宇宙において制定した秩序と理念に由来しています。小さな原子や電子に始まって、巨大な天体や星々の動き、また無数の植物や昆虫、鳥、魚、動物たちのさまざまな生態、これらすべては、天主によって定められた秩序に従っています。
今日は、天主の十戒が私たちに与えられた理由と、それがどのようにして与えられたのかを一緒に黙想したいと思っています。
【天主の定めた秩序】
昔々、まだ私たちが創造される以前のこと、人間が知ることのできない過去に、天主は、人間に先立って最も完全な被造物である天使たちを創造されました。天使とは限りのある純粋な霊であり、知性と自由意志を持ち、人間よりも遥かに優れています。人間は知性と自由意志を持っているため、この点で天使たちと繋がっていますが、同時に肉体を持っているため、物質的な目に見える自然と接してもいます。
目に見える全被造物は、人間に奉仕するために、そして人間に従うことで創造主(天主)へと至り、天主を賛美するという秩序においてつくられました。ですから、天使、人間、またすべての被造物は、天主によって生まれ出て、すべては天主を褒めたたえて従いつつ、天主へと戻っていかなければなりません。ですから、すべてには、天主の輝く美しさと善(良さ)、秩序や正義がありました。主から出て主に帰るという秩序を万物が保っていることこそ、善にして美しさであり、この秩序を破壊して調和を乱すことが悪なのです。
かつて、天使たちが創造主に服従して、美しさと調和を保っていた時、最高の天使ルチフェルは、天主(創造主)から目を背けました。何故かというと、自己崇拝に陶酔していたからです。自分が自分の究極の目的であるかのように思い上がっていたのです。そして、天主の神聖にして犯すべからざる普遍の法則を拒絶しました。天主に従う代わりに「私は従わない」と叫んだのです。これが最初の無秩序、最初の悪にして最初の罪でした。こうして、ルチフェルは美しさと光を失い、堕天使となりました。悪魔となりました。そして人間がつくられた時、清く美しく罪のない人間を天主への反乱に引きずり込もうとしました。悪魔は、最初の女を悪意ある言葉でだましました。天主の掟に対する不信、好奇心へと導き「おまえらは天主のようになるだろう」という傲慢に駆り立てました。残念ながら、アダムとエワは醜くも天主に逆らい、全宇宙は大混乱に陥りました。人間の罪は、この地上に病と災い、飢えと死を呼び込み、大地を茨で覆いました。聖パウロが今日の書簡で言うように「全被造物は、自分の望みによってではなく、自分を服従させたものによって、はかなさに服従させられた」のです。
【天主の掟】
天主は人類創造のまさにその瞬間から、私たち人間の霊魂に、そして私たちの心に、消えることなく常に存在する実践的な光を刻み込まれました。これを「良心」と言います。良き心です。これによって、人間は善と悪、正と邪、徳と悪徳とを区別することができるのです。詩篇にもこうあります。
「主よ、あなたの御顔の光は、私たちに刻まれております。」(詩篇4篇7節)
人が罪のない原初の義の状態であった限り、人は良心に刻まれたこの法をはっきりと読み、その良心の教えに従って行動を律することができていました。しかし、残念ながら不幸にして罪が世にもたらされると、罪の乱れた情欲と共に、人間の良心の光は少しずつ覆い隠され、やがてその痕跡だけしか残らなくなってしまいました。どのような痕跡かというと、人類はどれほど廃退したとしても、それが何であれ善と悪が存在するとは常に認めてたということです。しかし心は暗み、冒涜・呪い・殺人・姦淫・不貞・強盗・乱痴気騒ぎ・饗宴・哄笑・狂乱・残酷・不正・欺瞞・詐欺などなど、この地上は罪悪でますます満たされるばかりでした。
人々はもはや良心においては、天主の法を明確に認識していませんでしたが、それはこの法が消滅したからではありません。人間の心が情欲にくらみ、自ら盲目となったために、その存在を認識しようとしなかったからです。ですから、天主は十戒を通して、ご自分の定めた自然の法そのものを私たちに確認してくださったのです。つまり、十戒とは単なる文化ではなく、イスラエルの一部の人々のものでも決してありません。そうではなくて、時代・国・場所・民族・言語のすべてを超えて、すべての人間がすべての時代において守らなければならない秩序であり、法であり、道理なのです。
【天主の十戒を受ける準備】
では、天主の十戒はどのようにして授けられたのでしょうか?
このためにイスラエルの民族は準備がありました。この掟はシナイ山で与えられるのですが(出エジプト記19章)、モーゼの指導の下に、エジプトを脱出してから47日後、第三の月の初めの日に、ヘブライ人たちはシナイ山のふもとに天幕を張りました。シナイ山はシナイ半島の一番南に位置しており、天主がヘブライ人たちに与えた最初の目的地です。彼らはそこで、ファラオが捧げることを頑なに拒否した犠牲(いけにえ)を捧げなければならないとされていました。
陣営が設営されるとすぐに、モーゼは一人でシナイ山(あるいはホレブの山とも言う)の斜面を登り始めました。これは決して簡単なことではありません。その傾斜は非常に恐ろしく険しく、今日でさえ、これを登るにはとがった岩の裂け目に常にしがみつく必要があります。極めて難しい登山でした。すると、80歳になろうとするモーゼに、かつて燃える茨の中から聞こえてきたあの声が再び聞こえ、こう告げました。
「ヤコブの家に告げよ、イスラエルの子らに告げよ:あなたがたは、わたしがエジプト人たちに何をしたか、また、どのようにしてあなたがたを鷲の翼に乗せて運び、わたしのもとに引き寄せたかを見た。もし今、あなたがたがわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたは、すべての民の中から選ばれた、わたしだけの民となる。全地はわたしのものである。わたしはそれを創造したからである。しかし、あなたがたは、とりわけ特別な形でわたしのものであり、わたしのための司祭の王国、すなわち、わたしの司祭たちを通して直接統治する王国となり、聖なる民となる。イスラエルの子らにこう告げよ。そうすれば、彼らはわたしを愛し、わたしに忠実になるであろう。」
これを聞くとモーゼは急いでシナイの山(ホレブの山)を下ります。すべての部族の長老たちを召集し、天主がモーゼに告げられたことを伝えました。長老たちはそれを民に告げると、イスラエルの民は心を打たれ、熱狂して一斉に叫びます。「はい、私たちは主の言われたことにすべて従い、行います。」
それを聞いたモーゼは、もう一度山に登ります。そして、民の承諾と忠誠の誓いを天主(ヤーウェ)に申し上げるのです。すると、天主はこう答えられました。
「まもなく、わたしは雲に包まれてあなたのもとに来る。わたしがおまえに語りかけるのを民が聞き、永遠におまえを信じるようになるだろう。ユダヤ人のところへ戻り、彼らに命じて、今日と明日、悔い改めと宗教的な行いによって身を清めさせなさい。彼らは衣服を洗い、三日目に備えておくように。その日、わたしは降りて来て、シナイ山で、すべての民の目の前で、目に見える姿として現れるからである。これに備えて、山を取り囲むように柵を設け、民にこう告げよ。『決して山に登ってはならない。その周辺に足を踏み入れることも、手で触れることさえ決してしてはならない。山に触れる者は誰でも、必ず死ななければならない。その者は石打ちにされるか、矢で殺される。その処刑の際でさえ、自らを汚すことのないよう、その者に触れてはならない。人であろうと獣であろうと、死ななければならない。』」
恐ろしいメッセージが与えられます。モーゼはもう一度民のもとへ戻り、天主との正式な契約を祝う準備として、彼らが何をしなければならないか、果たすべき務めを詳しく説明します。まず、衣服を洗い清めなければならないこと。このしるしが、内面の清らかさの必要性を彼らに思い起こさせるためです。さらに、厳格な禁欲生活を送り、夫婦は三日間たがいに触れてはならないこと。そして最後に、熱心に祈るよう命じました。ユダヤ人たちはこれに同意し、異議を唱えることなくこの規律に従います。
そうして三日目の朝(エジプトの脱出から五十日後)、驚くべき出来事が起こります。その日、天候は驚くほど穏やかで、空は澄み渡り、とてもよく晴れて雲一つありませんでした。ところが、突如として未曾有の猛烈な暴風雨が吹き荒れるのです。稲妻の眩い閃光が走り、恐ろしい雷鳴が絶え間なく空気を引き裂きます。シナイ山が根元から震えているような大地震が起こります。考えてみてください。もしも、羊蹄山【ようていざん:北海道にある標高1,898メートルの美しい円錐形の火山、蝦夷富士(えぞふじ)の愛称がある)が噴火直前のような姿を見せて、この北海道全体が大きな地震で揺れ動き、まるで天変地異が起こったかのように、あたかもこの世の終わりであるかのような様相が私たちの目の前に広がっていたとしたら――。
シナイ山はその時そうでした。噴火寸前の火山のようであり、その山頂は不透明な黒い雲に覆われ、その隙間から凄まじい火災の炎のようなものが見えていました。それは、主の名において語りかける天使を包み込む炎でした。空は暗くなり、雨は激しく降り注ぎ、風は嵐となって吹き荒れました。その突風の合間から、極めて力強い角笛のような音が聞こえてきました。それは長く響き渡り、音量は次第に増していきました。ヘブライ人たちは恐怖に身を凍らせ、テントの中に身を潜めました。自分たちの最期が来たのだと確信していました。自然の力を支配し、エジプトの災いを解き放ち、紅海を自らの前で割らせたモーゼでさえ恐れていました。聖パウロが後に言うように、恐怖で震え上がっていました。「その光景は、モイゼが、「私は恐れている。おののいている exterritus sum et tremebundus」といったほど恐ろしいものであった。」(ヘブレオ12:21)
その時、天主はモーゼを呼び、まるで二人で静かに語り合いたいかのように、山の頂上へ登るようにと命じます。モーゼは天主に従い、恐ろしいこの山を登ります。しかし、モーゼがそこに辿り着くや否や、天主はこう言います。
「下りて民に語りかけよ。彼らが、おまえの定めた境界を越えようという気になり、多くの者が滅びてしまうことのないように。この命令は祭司たちにも当てはまる。彼らは、主の御前に近づくがゆえに死の罰を受けることがないように清めを行い、他の者たちと同じこの掟をすべて守らなければならない。」
【神秘的な意味】
最初の過越祭から50日後に繰り広げられたシナイ山の場面は、救い主の復活から50日後に起こった聖霊降臨を象徴しています。天主の到来に伴う稲妻、雷鳴、嵐、その他のしるしは、激しい風、炎の舌、そして聖霊が使徒たちの上に降臨する際に巻き起こるあらゆる轟音を予告していました。そして、その騒音の中で、次第に高まっていくラッパの音が聞こえてくるとは、それは使徒たちの宣教の始まりの前兆であり、ユダヤ人たちに悔い改めを呼びかける聖ペトロの説教であり、その宣教は、地の果てに至るまで広がっていくのです。
火山のようなその山は、熱意に燃え、愛の情熱に揺さぶられ、まるで雄羊のように世界征服へと飛び出そうとする初期の教会を告げています。その頂上には、主が地上に灯しに来られ、やがて全宇宙へと広がっていくであろうその炎がきらめいているのが見えます。しかし、その炎はまず、ユダヤ人たちの不信仰という極めて濃い雲に包まれており、彼らはその炎が輝くのを阻むためにあらゆる手段を講じるでしょう。
山の周囲に設けられ、越えれば死罪となる境界線は、教義の分野においても道徳の分野においても、教父たちによって定式化された定義と規則を表しています。これらの障壁を強引に破り、山に触れようとする者は、災いあれ!
アリウス、エウティケス、あるいはネストリウスのように、例えば御托身の神秘を、教会とは異なる方法で説明する権利があると自認する者は、災いあれ!
また、ルターやカルヴァンのように、聖なる秘跡の数や儀式を変更し、聖伝的な聖職階層を拒絶しようとする者は、災いあれ!
さらに、司祭の独身制、修道院生活、修道誓願、贖宥の実践などを非難する者は、災いあれ!
そのような者は、たとえ愚か者であっても――つまり、四足動物のような霊魂を持ち、もっぱら地上の事柄にのみ心を向けている者であっても――あるいは人間であっても――つまり、自らの理性の光のみによってすべてを判断すると主張する者であっても――死に至るでしょう。石で彼を打ち砕かなければなりません。すなわち、聖書のテキスト、公会議の決定、そして石のように堅固で不変のその他の証言によって、彼の主張を粉砕しなければなりません。あるいは、矢で彼を貫かなければなりません。つまり、教父や聖人たちの情熱に燃やされた言葉によって彼の心に訴えかけなければなりません。
天主の御訪れを受けるにふさわしい者となるためにユダヤ人に課された清めの儀式は、私たちが聖霊の賜物を受け入れるために、いかに注意深く備えるべきかを示しています。もし彼らに妻に近づいてはならないと命じられているとすれば、それは、真の内なる清さは、禁じられたものだけでなく、時には許されたものからも身を遠ざけることを求めるということを、私たちに理解させるためです。山に足を踏み入れること、さらにはその周辺で家畜を放牧することさえ禁じられていることは、十字架の聖ヨハネによれば、天主との交わりに入るために完全性の山を登ろうとする霊魂は、まず地上のあらゆる財産を、そして次に、ここでは動物に例えられているすべての情欲を捨て去らなければならないことを意味しています。もし誰かが、天主の愛の炎に冠され、その頂が天主に触れるこの山に登ろうとするならば、すべての動物、すなわち人間を獣に似せさせるあらゆるものを下に残さなければなりません。自分の中にあるライオンの傲慢、トラの爪、イノシシの野蛮さ、ヒョウの猫のような落ち着きのなさ、キツネの二面性、ラバの頑固さを想起させるあらゆるものを排除しなければなりません。蛇の毒、雄牛の猛り、孔雀の虚栄、オウムの饒舌、狼の肉食本能などもそうです。そして、人間、すなわち、天主の事柄を自らの尺度で裁こうとする精神のあらゆる傲慢さも、そこから遠ざけなければなりません。
【十戒(出エジプト記20章1-21節)】
山から下りたモーゼは、民にこう言います。
「今日、あなたがたが聞くのは私モーゼではない。あなたがたを奴隷の状態から救い出すために、ナイル川の水を血に変え、次々と災いを下してエジプト人の傲慢を打ち砕き、紅海を割いて道を開き、毎日天から降るパンを与え、渇きを癒すために岩から水を湧き出させた、その全能の天主があなたがたに語っている。アダムに、地と海が生み出すすべてのものを与えたのはこの御方であり、ノエを洪水の水から救い出し、アブラハムにカナンの地を授けたのもこの御方である。天主こそが、アブラハムにイサクを誕生させ、ヤコブに十二人の息子を与え、ヨゼフにエジプト全土の統治を委ねた御方である。この天主こそが、今日、あなたがたに掟を与えようとしておられる。(…) もしもあなたがたがこの掟を忠実に守れば、幸福に欠けることはなく、大地は常に豊かであり、海は常に穏やかである。あなたがたには多くの子供が与えられ、敵にとっては恐るべき存在となるだろう。私がこれほどの確信を持って語るのは、天主にまみえるというこの上もない栄誉に浴し、その不滅の御言葉を聞いたからだ。天主があなたがたを愛し、あなたがたを守りたいと思っておられることに、もはや疑う余地はない。」
モーゼはこの言葉を終えると、女性や子供たちを含む民すべてに、山のふもとに設けられた柵まで進むよう命じました。すると、シナイ山は四方から輝きに包まれ、雷のような轟きを伴う声が、その姿は見せぬまま、はっきりと告げるのを聞きました。天主の十戒が声で発布されたのです。
「わたしは、あなたたちをエジプトの奴隷の家から導き出した、あなたの天主、主である。
第一に、わたしのほかに神々を置いてはならない。また、彫像や、天にあるもの、地にあるもの、水の中にあるもの、地の下にあるもののいかなる像も造ってはならない。それらを拝んではならず、それらに主なる礼拝を捧げてはならない。主なる礼拝は、天主のみにふさわしいものである。わたしこそ、あなたの天主、主である。
Ⅱ. 主なるあなたの天主の御名をみだりに口にしてはならない。主は、主なるあなたの天主の御名をみだりに口にする者を、罪のない者とはみなさない。
III. 安息日を聖なる日として守りなさい。六日間は働いて、そのすべての仕事を成し遂げなさい。しかし、七日目はあなたの天主、主の安息日である。その日には、あなたも、あなたの息子も、娘も、しもべも、しもべの娘も、家畜も、あなたの家にいる寄留者も、いかなる仕事もしてはならない。主は六日間で天と地と海、およびそれらの中に含まれるすべてのものを造り、第七日に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、聖別されたのである。
IV. あなたの父と母を敬いなさい。そうすれば、天主があなたに与えてくださる地で、あなたは長く生きることができる。
V. 殺してはならない。
VI. 姦淫してはならない。
VII. 盗んではならない。
VIII. 隣人に対して偽りの証言をしてはならない。
IXおよびX. 隣人の家を欲してはならない。また、隣人の妻、またそのしもべ、そのしもべ女、その牛、そのろば、その所有するすべてのものを欲してはならない。」
これらこそ、天主がその厳粛な現れにおいてご自分の民に示された十戒です。キリスト教会(カトリック教会)は、これをユダヤの会堂から貴重な遺産として今でも受け継いでおり、またあらゆる文明の基礎となっています。天主の十戒は、古代の法典に含まれる最も完璧な規定をも遥かに凌駕しており、人間の作ったいかなるものとも比較することはできません。まさに、この十戒が天主を起源とすることを完全に立証しています。
【十戒の核心】
十戒の宣言を聞いたのはモーゼだけではありませんでした。聖書によれば、民全体が雷鳴のような轟音と共に響き渡るその声を聞き、何千もの灯火が輝いているかのように見え、火山のように煙を噴き上げている山を目撃しました。民は、絶え間なく鳴り響くラッパのような鋭い叫び声に胸を締め付けられ、恐怖に襲われて後ずさりし、逃げ出そうとしました。あまりにも恐ろしかったからです。そこで、民はモーゼにこう言いました。「あなただけが私に語りかけてください。私たちはあなたの言うことを聞きます。天主御自身が私たちに語りかけることのないようにしてください。そうしなければ、私たちは恐ろしさのあまり死んでしまうでしょう!」
この後、モーゼは一人でシナイ山に40日間留まります。天主は、二枚の石板に十戒を刻み込み、モーゼに渡しました。
第一の石板には、天主に直接かかわる掟が三つ書かれていました。「唯一の真の天主をすべてに越えて愛するように」という掟です。第一の掟によって心で、第二の掟によって言葉で、第三の掟によって行いで天主を愛することを命じています。
第二の石板には、隣人に関する七つの戒めが刻まれました。「天主を愛するがために、隣人をわが身のごとく愛する」ことが命ぜられました。
天主はなんの報酬もなしに、ただご自分の栄光と名誉のためだけにこれを命じ、私たちをご自分に仕えさせることがおできになったにもかかわらず、ご自分の栄光と私たちの利益とを結合させ、人間にとって有益なことはご自分にとっても栄誉あるものとされ、これを守ることで私たちに報いがあるとしてくださいました。ここに、私たちに対する天主の寛大さと憐れみの富が示されています。
【遷善の決心】
これから毎週、私たちは天主の十戒を一つひとつ、少しずつ黙想しようとしますが、これについての詳しいことは、ぜひYouTubeを通してご覧になってください。
マリア様にお願いいたしましょう。私たちが天主の十戒をよく心に刻み、これを守ることができますように。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。