離教でもなく不従順でもない
聖ピオ十世会に、教会内の分裂の責任があるかのように描写したり、教皇に対する重大な不従順、あるいは真の離教であるかのように描写したりする声明、記事、インタビューが数多く出回っている現状に対し、私たちは若干の説明を行うために、ここに数行の文章を記すことが適切であると考える。
私たちの方法は常に同じである。印象や伝聞、あるいは日和見主義的な評論家の憶測ではなく、カトリック神学、すなわち教会の不変の教導権と偉大な神学者や教会法学者の教えという源泉から導き出された神学に基づく。
1. 聖ピオ十世会は離教ではない
史上最も偉大な神学者の一人であるトマソ・デ・ヴィオ枢機卿(通称カエタン、1469-1534)は、次のように明言している。
「教皇に不従順すること、たとえ頑固に不従順したとしても、それは離教を構成するものではない。離教を構成するのは、全教会の頭としての教皇への従順を拒否することである。」[1]
離教に至らない単なる不従順と、従順拒否を意味し離教を構成する反逆を伴う不従順との違いは何だろうか?
カエタン枢機卿はそれを明確に説明している。私が教皇の命令に不従順できる理由は3つある。
● 教皇の命令が気に入らない、あるいは不当に思える場合。
● 教皇が私に対して不当な行為をしていると信じる場合。
● 教皇を私の長上と認めない場合。
最初の2つのケースでは離教は存在しないが、3つ目のケースで離教が成立する。[2]
その違いは明白である。もし私が教皇を長上と認めないならば、いかなる状況下でも、教皇がどのような命令を下そうとも、私には従う意思はない。逆に、教皇を長上と認めるならば、特定の点において教皇に不従順することはあるかもしれないが、それでもなお教皇に従う用意はできている。したがって、私は離教者ではない。
そうでなければ、例えば定められた日に断食をしない、あるいは日曜日のミサに出席しないなど、教皇の命令に背いた者は誰でも離教者ということになる。これは不合理である。
「実際、ある人が長上を認めながらも、その命令に従うことを拒否することはしばしばある。」[3]
このカエタン枢機卿の教えは、例外なく、その後のすべての教会法学者と神学者によって採用されてきた。
しかし、聖ピオ十世会の一貫した姿勢と上長たちの声明を考慮すると、聖ピオ十世会が教皇に不従順なのは、教皇を長上として認めないからでもなければ、あるいは従順しないからでもなく、教皇が出す或る特定の命令を受け入れられないと考えているからであることが明らかになる。したがって、私たちはカエタン枢機卿が述べた最初のケースに当てはまる。
実際、聖ピオ十世会はミサの典礼文で教皇の名を挙げ(これにより教皇を長上として認めていることが示されている)、近代主義の確実性や蓋然性がないすべての事柄(例えば、聖職剥奪、教皇に留保された特免や恩恵の申請、聖年宣言など)において聖座に従っている。また、教皇の命令が第二バチカン公会議および公会議後の近代主義的教義への固執を意味しない限り、あらゆることにおいて教皇に従う用意がある。
したがって、聖ピオ十世会は決して離教的ではない。
ところで「少なくとも不従順だ」と言えるだろうか?重大な不従順の行為は、必ずしも離教行為とは限らないが、少なくとも不従順だ、と。この点については、論点3で回答する。
2. 教皇の委任なしに行われた司教聖別は、離教行為とはみなされず、また、聖ピオ十世会を離教状態にするものではない。
まず、中世末期まで、司教聖別は教皇に留保されていなかったことを覚えておく必要がある。つまり、通常、教皇は司教を任命せず、他者によって任命された場合でも、それを承認することさえなかった。司教の任命または承認に関する教皇の留保は、13世紀末に遡り、真に確立されたのは次の世紀になってからである。
古代においては、司教聖別は確かに教皇の介入なしに行われたが、教皇の意思に反して行われたことはなかった、と反論する人もいるかもしれない。しかし、これは必ずしも真実ではない。
聖アウグスティヌスの時代には、すでに名義上の司教がいる教区で、司教が補佐司教として任命されることがあり、また、公会議の規定に反して、ひいてはそれらの公会議を承認した教皇の意思に反して、司教が別の教区に異動させられることもあった。多くの人がこれらの行為の不規則性を指摘したが、離教について語る者はいなかった。
12世紀から13世紀にかけて、より近世においても、主に托鉢修道会【訳注:例えばフランシコ会やドミニコ会など】出身の司教たちが、正規の教会法上の手続きを経ずに司教聖別され、教皇の意思に反する行為を行った例があった。この場合も、教皇庁は秩序回復のために介入したが、誰も離教者とはみなされなかった。この問題については、別の記事でより詳しく論じよう。
これらのことから、司教聖別に関する教皇の排他的権利は、神法ではなく教会法の問題であることがわかる。
神法の問題は、司教が教皇との交わりを保つことである。さて、最初の点でも述べたように、聖ピオ十世会の司教たちは離教の意図はないため、教皇と完全に交わりを保っている。
少なくとも第二バチカン公会議までは、教皇の委任状なしに司教聖別を行うことを離教行為の例として挙げた神学者や教会法学者はいなかった。
1951年までの伝統的な教会法では、教皇の委任状なしに司教聖別を行うことは単に聖職停止の刑罰に処せられるだけであり、破門によって制裁される離教行為とはみなされていなかった。
1951年以降、刑罰が聖職停止から破門へと引き上げられた後も、教皇の委任状なしに行われるすべての司教聖別がそれ自体で離教行為であると主張する神学者や教会法学者はいなかった。
教皇の委任状なしに司教聖別を行うことが、その性質上離教行為であるという考えは、1988年のルフェーブル大司教の司教聖別の際に初めて現れたものであり、神学や教会法の伝統において前例はない。
最後に、【司教聖別それ自体によって】司教に裁治権が与えられるとされる、すなわち教区を統治し司祭と信徒に対する権威を行使する権利を付与するとされる【のならば】、委任状を伴わない司教聖別は、離教的、あるいは少なくとも離教に向かう傾向にあるとみなされるかもしれない。
しかし、ピオ六世とピオ十二世が明確に教えた教義によれば、司教は司教聖別によってではなく、教皇から授けられた教会法上の使命によって裁治権を得る(第二バチカン公会議はこれとは逆の教え【司教聖別の儀式それ自体によって新司教に裁治権が与えられる】を説いている…)。したがって、教皇の意思に反して裁治権を付与すると主張することは、教皇の権威の簒奪であり、離教に向かうことになる。
しかし、聖ピオ十世会は、その司教に裁治権を付与すると主張したことは一度もない。
聖ピオ十世会の司教は、司教として、信徒や司祭を統治する権限を持たない。彼らは聖職権、すなわち司教にのみ留保されている秘跡(堅振、叙階)およびその他の準秘跡を授ける権のみを有している。
この聖職権は教皇からではなく、司教聖別を通して天主から直接授けられたものである。
したがって、ローマ教皇に属する権能の簒奪も、離教への傾向もない。
3. 聖ピオ十世会は不従順でもない。
カトリック教義において、従順は絶対的なものではない。教皇への従順でさえも例外ではない。
聖トマス・アクィナスは次のように教えている。
「権威の濫用は、長上の命令がその権威の本来の目的と相反する場合に起こり得る。例えば、長上が、その権威が促進し保護しようとしている徳に反する悪行を命じる場合などである。このような場合、長上に従う義務はないだけでなく、従わない義務さえある。聖なる殉教者たちが、暴君の不敬な命令に従うよりも死を選んだように。」[4]
同じ教えは、レオ十三世の回勅『ディウトゥルヌム・イルド』(1881年6月29日)にも見られる。
さらに、長上の不当な命令が信仰に危険をもたらす場合、不従順は公然と行われなければならない。
聖トマス・アクィナスはこう断言している。
「信仰に差し迫った危険がある場合、聖職者自身は信徒によって公に叱責されなければならない。だからこそ、聖ペトロの目下であった聖パウロは、信仰に関するスキャンダルの差し迫った危険のために、聖ペトロを公に叱責したのである。そして、聖アウグスティヌスの注釈書がガラチア人への手紙第2章について述べているように、『ペトロ自身がこのようにして上長たちに模範を示した。もし彼らが正しい道から逸れたならば、たとえ目下からであっても、訂正されることを拒んではならない。』」[5]
偉大なドミニコ会神学者フアン・デ・トルケマダ(1388-1468)は、上記のすべてを次のように要約している。
「ローマ教皇がそれ自体悪である何かを命じる場合、すなわち天主の法、信仰、あるいは霊魂の救いに反する何かを命じる場合、そのような場合には、不従順によってローマ教皇に従わないことは違法ではない、したがって、離教とは呼べない。」[6]
これ以上明確なことはない。そして、繰り返すが、これは一人の神学者の孤立した意見ではなく、神学の伝統全体における一致した教えである。
4. 聖ピオ十世会は、信仰が置かれている必然的な状況ゆえに行動したのである。
しかしながら次のような反論があるかもしれない。つまり、聖ピオ十世会が従うことを拒否した命令は「それ自体悪」あるいは「罪」であったと言えるだろうか?結局のところ、司教聖別を放棄すること自体は、悪い行為ではない。したがって、聖ピオ十世会は離教には至らなかったものの、非常に重大な不従順行為を犯したと結論づけることもできる、と。
私たちは、司教聖別を放棄する行為は、抽象的に考えれば確かに悪い行為ではないと答える。しかし、教会の現状と具体的な状況においてそれを考慮に入れると、それは悪であり、非難されるべき行為となる。
教会の現状において、もし聖ピオ十世会が7月1日の聖別式を執り行わなかったとしたら、避けられない選択を迫られていただろう。それは、聖ピオ十世会が徐々に消滅していくか、少なくとも実際には、第二バチカン公会議とその後の時代における新しい典礼と誤った教義を受け入れるか、のどちらかだった。
7月1日の聖別式がなければ、聖ピオ十世会は数年以内に、現職の司教の自然死によって、司教不在の状態に陥っていただろう。
司教がいなければ、司祭の叙階は行われず、叙階がなければ司祭もいなくなり、ひいては、聖伝のラテン語ミサも、聖伝の秘跡も、カトリック教義の包括的な教えも、すべて失われてしまうだろう。
そうなった場合の唯一の選択肢は、ローマから司教を要請するか、教区司教によって司祭を叙階してもらうか、信徒を教区司祭のもとへ送るかのいずれかだった。しかし、これらの解決策はいずれも、少なくとも事実上、第二バチカン公会議と第二バチカン公会議後における誤った教義の受容を意味するものだった。
私たちは既に今日、その兆候を目にしている。教理省は、7月2日に公布された破門令の付録(覚書)において、「ローマとの交わり」への復帰を希望するすべての者に対し、現在の教導権の解釈に従って第二バチカン公会議を受け入れ、教皇の教えを決して批判しないことを誓約する宣言書に署名することを求めている。
したがって、司教聖別がなければ、聖ピオ十世会は、信教の自由、エキュメニズム、司教団体主義、死刑の違法性、離婚・再婚したカトリック信者への聖体拝領の可能性、あるいは同性カップルの祝福といった教義を受け入れざるを得なくなるか、少なくとも、それらを公に批判しないことに同意せざるを得なくなるだろう。
したがって、教皇の命令が、それが下された特定の状況下で検討されると、客観的に見て誤りであり、非難されるべき行為を命じているのは理解できる。なぜなら、信仰に反することを容認したり、非難を控えることは決して許されないからである。
この点において、聖ピオ十世会の教義上の立場は単なる意見ではないことを忘れてはならない。それは個人的な好みでもなければ、特定の感受性でもなく、嗜好でもない。それはカトリックの教義であり、教会の不変の教導権によって決定的に教えられているものである。このことを確信するには、歴代教皇の言行、そして第二バチカン公会議以前のすべての神学者の著作を読めば十分である。
したがって、それらは信仰の遺産に属するものであるため、放棄することは不可能である。教皇がこれに反することを要求するならば、トルケマダの言葉を借りれば「天主の法、信仰、あるいは例魂の救済」に反していることは明らかである。したがって、私たちは彼に不従順できるだけでなく、そうしなければならないのである。
最後に、もう一つ反論を述べよう。「あなたは、第二バチカン公会議と公会議後の教えが聖伝の教義に反すると主張する資格はない。その判断は最高権威、すなわち教皇のみに属するからだ。」
しかし、もしそうだとすれば、トルケマダをはじめとする多くの神学者が、教皇が客観的に誤った命令を下した場合、すべてのキリスト教徒は教皇に不従順する権利があると主張していることは、一体何の意味を持つのだろうか?
アレクサンドロ六世が、愛妾ジュリア・ファルネーゼに対し、破門の罰をちらつかせながら、自分との二人の生活を捨てて正式な夫のもとに戻ることを禁じたとき、彼女は、教皇の行為が天主の法に適っているかどうかを判断するのは、自分の権限外であるという口実で、彼に従うべきだったのだろうか?
同様に、現代のカトリック教徒が、離婚・再婚者への聖体拝領に反対したり、同性愛行為の容認に反対したりする場合、彼らは教皇のみに属する権力を簒奪していることになるのだろうか?
結論
聖ピオ十世会は離教的でも不従順でもない。聖ピオ十世会に対して宣告された破門は無効である。なぜなら、罪がなければ罰も存在しないからである。傷は確かに存在するが、私たちがそれを引き起こしたわけではない。
私たちは、主イエズス・キリストが教会に約束されたことに基づき、いつの日か教会当局が真のカトリック教義に立ち返り、私たちの完全な無罪を認めることを確信している。
ダニエレ・ディ・ソルコ神父
註:
1 聖トマスの『神学大全』注解、第二部第二巻、第39問、第1項、第3節
2 同上、第7項
3 同上
4 『命題集 第二部』第44節、第2問、第2項
5 『神学大全』第二部第二巻、第33問、第4項 異論回答2
6 『教会論』、第 4 巻、第一部、11章