十字架の道行き:悔悛

ソース: FSSPX Japan

準備の祈り

主よ、私はなんと盲目に生きていることだろうか!私は大きな罪人でありながら、そのことをほとんど気にかけていない。罪が天主を怒らせ、私の霊魂を汚すことを知っているにもかかわらず、私は絶えず罪に陥ってしまっている。なんと惨めなことだろうか!

聖霊よ、私の罪の数と醜さを隠している闇を払い、私の心の頑なさを打ち砕き、悔悛の涙が流れ出るようにし給え。私の意志を強め、これから来るすべての誘惑に打ち勝ち、御身にふさわしい償いを捧げることができるように。

第一留 イエズスは死刑を宣告される

「哀れで愚かな罪人よ!あなたのすべての罪を知っておられる天主に、あなたは何と答えるつもりであるか?あなたは怒りの人を見ると震えるような者であるくせに!」 キリストに倣いて

わが天主よ、ねがわくは御身のしもべをまだ裁き給うなかれ。まず私に御身の光を与え給え。そうすれば、私は自分のすべての罪を悟り、その重大さを深く理解し、正しく償うことができるでしょう。私は、他人の罪を指摘するのは容易だが、ああ、自分の罪にはあまりにも盲目なり。

イエズスよ、死刑を宣告される前に、御身は私が今犯したすべての罪を身にまとわれ給うた。ゆえに、ねがわくは私の霊魂の目から鱗を取り除き給え。そうすれば、私は今の自分のすべての罪を見ることができるだろう。

第二留 イエズスは十字架を負わされる

まことに、主はわれらの罪を負い、われらの苦しみを背負われた。主にのしかかる罰はわれらを救い、イエズスの傷によってわれらは癒される。イザヤ書53章

救い主は私の身代わりとなられた。そして今、天主の裁きの怒りが容赦なく彼に下る。罪の罰はどれほど重いことか。天主であり人である方だけが、それを正当に償うことができるのだから。

イエズスよ、罪の重大さをもう少し深く理解させ給え。私の霊魂を畏怖の震えで貫き給え。多くの罪を犯した私の恥と混乱を、私の心に深く刻み込み給え。

第三留 イエズスは初めて倒れる

「主の前にへりくだれ。そうすれば、主はおまえたちを高めてくださる。」ヤコブ4:10

われらは、傲慢な性質ゆえに、いとも簡単に罪に陥り奉る。自分の過ちを真に認め、天主の前にへりくだり、謙遜であり続けることは、きわめて困難である。だからこそ、われらの悔い改めは永続的な実を結ばないのだ。

イエズスよ、この最初の倒れの功徳によって、あらゆる罪について「これはわが過ちなり、わが過ちなり、いと大いなる過ちなり!」と真実に言える恵みをわれに与え給え。ああイエズスよ、福音書に出てくる税吏が謙遜に頭を垂れ、胸を打ち、天主と人々の前でした態度を、私が保てるよう助け給え。

第四留 イエズスは聖母マリアと出会う

「通り過ぎるすべての人よ、よく見よ、私のような悲しみがあるか見よ。」哀歌 1:12

聖母の海の水のように広大なこの悲しみの理由は、もちろん、天主の御子の苦しみと屈辱を目にしたことにある。そして今、聖母の汚れなき御心は、天主の御子を通して、罪がいかに天主の栄光を汚すかをよりはっきりと悟った。

ああ聖母よ、御身はわが母でもあることを覚え給え。わが霊魂の内に、天主の御子を形作るのは、御身なのである。悪しき思いと罪の温床である私の心に、ねがわくは優しく語りかけ給え。そうすれば、私は揺さぶられ、悲しみに打ちひしがれ、父なる天主に対して犯した罪を悟ることができるだろう。

第五留 シモンはイエズスの十字架を担ぐのを手伝う

「主よ、御身の受難の神秘に近づき、御身の赦しにふさわしい者とならせ給え。」聖火曜日の集祷文

十字架の道への参与にふさわしく、私の罪の赦しを得給え。天主なる救い主が捧げられた贖いには、その霊魂の悲しみだけでなく、その肉体の苦しみも含まれている。であるから、私もまた償いをしなければならない。さらに、苦しみは人の心を教え導く。それは、人に反省を促し、罪の重大さを悟らせ、罪から離れる助けとなる。

わが救い主よ、天主の怒りを満足させるべく、日々ふさわしい償いをし、天主が私に下されるすべての苦しみを、同じ心で受け入れることができるよう、助け給え。

第六留 聖ヴェロニカはイエズスの御顔を拭う

「主よ、怒りをもって、私から御顔を隠さないでください。御身のしもべを捨てないでください。」詩編26

イエズスよ、御身の御顔は、限りない愛と善意、永遠の知恵と真理、そして私の霊魂の隅々まで浸透し、変容させ、活力を与えようと切望する、御身のすべての完全性を輝かせている。しかし、ああ!すべて罪は、天主を喜ばせず、天主は私から顔を背けられ奉る。

イエズスよ、御身の聖にして聖化をもたらすまなざしから私を遠ざける罪、私の習慣的な罪を認識し、悔い改めることができるよう助け給え。これらの罪は、結果として私の霊的な麻痺と生ぬるさの原因となっている。イエズスよ、私は何の理由もなく、つまり人々の視線を喜ばせるためだけに、御身の聖なる眼差しの恵みをあまりにも多く失ってきた。どれほど後悔していることだろうか!

第七留 イエズス、二度目の転倒

「わたしは敵を追い詰め、追いつき、滅ぼし尽くすまで離さない。」詩篇17:38

キリスト者の生活は、われらの中に潜む敵、聖ヨハネが三つの情欲と呼ぶものとの絶え間ない戦いである。われらが何度も同じ過ち、同じ状況に陥ってしまうのは、この戦いをやめてしまうからである。原罪によって傷ついたわれらは、本能の衝動に屈してしまうのである。自分の最も強い過ちに対して、毎日警戒し、戦い続けることができれば、克服はどれほど容易なことか。そうすれば、われらは自分自身よりも天主を愛していることを天主に証明できるだろう。

しかし、残念ながら、われらは日々の確固たる決意を欠いている。そして、われらが容易に避けることができたはずの数々の過ちを、全て身に受けたイエズスは、再び転倒され給うた。何という不幸、何という悲しみだろうか。

イエズスよ、私は自分を奮い立たせ、再び歩み出したい。毎朝、私を支え給え。

第八留 イエズスはイスラエルの娘たちを慰める

「もし生木にすらこうなら、枯れ木はどうなるだろう。」ルカ23:31

青々とした木は樹液、すなわち超自然的な生命に満ちてい奉る。しかし、われらの中には、多くの枯れた木、すなわち死んだ行いがある。死んだ行いなのは、それらの行為は悪しき行為だからである。そして、枯れた木はいつの日か、煉獄の火か地獄の火に投げ込まれるだろう。天主の正義の罰を恐れよう。それは恐ろしいものである。なぜなら、天主を嘲る者は、そこにはないからである。もし天主の愛が常に私の中で誘惑に打ち勝つのに十分でないとしても、少なくとも罰への恐れが、私が再び罪に陥らないように助けてくれんことを。

おお、イエズスよ、私の心にこの有益な恐れを満たし給え。そうすれば、私は罪を遠ざけ、罪と妥協することなく生きることができるだろう。

第九留 イエズスは三度目の転倒を経験する

「ああ、人間の弱さはなんと大きいことか。人間は常に悪に傾きやすい。今日罪を告白しても、明日にはまた罪に陥ってしまう。」(キリストに倣いて1:22)

何よりもまず、罪がわれらの心に根を下ろすことを許してはならない。罪に気づいたらすぐに、天主に許しを請い、そして、天主の聖なる御旨に従い、この世におけるわれらの義務を、惜しみなく実践しよう。

イエズスよ、私が不幸にも倒れてしまったら、すぐに立ち上がれるよう助け給え。そして、私を倒すに加担した五感を、少しでも抑制できるよう、自らに課し給え。多くの場合、それは目や舌を沈黙させることであり、時には官能や甘美さに対抗する禁欲的な生活を送ることである。

第十留 イエズスは衣を剥ぎ取られる

「もし御身の右の目が御身をつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。体の一部を失う方が、全身が地獄の火に投げ込まれるよりはましである。」マテオによる福音書 5:29

不純は最も蔓延している罪である。そして、そこから解放されるために、主はわれらに、あらゆる罪の機会、特に視覚と触覚に関わるすべてのものを惜しみなく犠牲にするよう求めておられる。この決意を固めるためには、われらは貞潔を深く愛さなければならない。貞潔を通して、霊魂は強く、輝きに満ち、愛に溢れるようになるのである。これは殉教者、使徒、聖人、そして純粋で高潔な霊魂の徳である。この徳がなければ、キリスト教生活の根幹は常に揺らいでしまう。

イエズスよ、御身は肉体において多大な苦しみを受け、われらに霊が肉に完全に勝利する恵みをもたらし給うた。ねがわくはこの戦いにおいて私を強め給え。私の心の清らかさによって、常に御身に喜ばれる者となれるように。

第十一留 イエズス、十字架に釘付けにされる

「イエズス・キリストの生涯は、十字架と長い殉教に他ならなかった。それなのに、おまえたちは安息と喜びを求めているのか。とんでもない間違いだ。」(キリストに倣いて 2:12)

主が地上に来られた時、主の視線を惹きつけたものは何だっただろうか?十字架である!主の心から、愛に満ちた長いまなざしが、絶えず十字架を慕い求め給うた。主は十字架のあらゆる側面を知り、永遠に深く結びつき、十字架と結ばれることを切望され給うた。一方、罪深い私は、十字架がすべての苦しみとともに現れると、そこから逃げ出してしまうのである。だからこそ、私の人生は平凡で、罪が私の中で支配し続けているのである。

十字架につけられたイエズスよ、御身がすべての聖人に与えたこの限りない恵みを、私にも与え給え。つまり十字架への愛を。それだけで私には十分である。

第十二留 イエズス、十字架上で息を引き取る

十字架上で、イエズスはわれらにこう言われる。「« Dilexit eos in finem »  彼らを、限りなく愛し給うた」(ヨハネ13:1)。私はおまえたちを愛し、私の愛のすべてをおまえたちに捧げ、苦しみの中で、私の存在のすべてをおまえたちに捧げた。被造物を救う創造主の愛は、憐れみである。救われることを受け入れる被造物の愛とは、完全な悔悛である。

イエズスよ、私はどれほど切に御身に痛悔の心を捧げたいことか。悔悛によって心の隅々まで打ち砕かれた心、涙に濡れた心、御身がかつてマグダラのマリアに語りかけた、あの慰めの言葉を聞くことができる心を。

「彼女の多くの罪は赦された。彼女は大きな愛を示したからである」(ルカ7:47)。聖ペトロと聖パウロ、そしてすべての悔悛した聖人たちよ、私のために執り成したまえ!

第十三留 イエズスは母の腕に抱かれる

「女は自分が育てた子を忘れることができるだろうか。自分の胎の実を愛するのをやめることができるだろうか。たとえそうであっても、わたしは御身を忘れない」と主は言われる。(イザヤ書49:10)

「わが天主よ、私は御身に属し、御身の被造物です。確かに私はふさわしくありませんが、御身の御手の業です。ですから、私は子としての信頼をもって、すべての罪を、聖心の燃え盛る火に投げ入れます。そして、それらが、瞬時のうちに、そして戻ることなく燃え尽きることを知っています。」幼きイエズスの聖テレーズ

イエズスよ、御身の無限の憐れみに対する信頼が限定的であるという、さらに大きな罪を、私の罪に加えたくありません。御身は、霊魂を創造することよりも、悔い改めた罪人を赦すことに、より大きな喜びを感じておられることを知っているからです。

第十四留 イエズス墓に葬られる

「わたしは全能者である。わたしの前を歩みなさい。そうすれば、あなたたちは完全になるだろう。」創世記17章1節

もしわれらが信仰によって生きるならば、罪や不完全ささえももはや存在し得ないだろう。天主の御前で天主を怒らせるなど、あり得ないことである! さらに悪いことに、天主の祝福と力を用いて天主を怒らせるなど、父なる天主から決して目を離さない愛に満ちた霊魂にとって、決して許されない態度である。主はある聖なる霊魂にこう言われ給うた。「わたしを思うとき、あなたはわたしのために生きている。わたしを思わないとき、あなたは自分のために生きている。」

悲しみの聖母よ、私に天主の御前で生きるというこの偉大な恵みを与え給え。そうすれば、私の思い、言葉、行いに、より純粋な意向、愛、そして寛大さを注ぎ込むことができるだろう。

最後の祈り

「主よ、私を憐れみ給え。…私は自分の罪を認め、私の罪は常に私の目の前にあり奉る。御身に対して、ただ御身に対してのみ、私は罪を犯し、御身の御目に悪とされることを行いました…私が御身に捧げるいけにえは、砕かれた霊魂、悔い改めと謙遜の心です。わが天主よ、御身はこれらを軽んじ給わないことを私は知っています!」詩編50

「主よ、もし御身がわれらの罪を数え上げられるなら、誰が御身の前に立つことができましょうか。しかし、御身には赦しがあります…私の霊魂は御身の憐れみに信頼し奉る。」詩編129

「イエズスの御血よ、私の霊魂をすべての罪から清め給え。」ヨハネの手紙一 1:7

「私を洗い給え。そうすれば、私は雪よりも白くなります…私のうちに清い心を造り、私のうちに確固たる意志を新たにし給え。」詩編50

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