ミサ聖祭を生きるための十字架の道行き

ソース: FSSPX Japan

準備の祈り
イエズスよ、御身の全生涯は、正義と愛、知恵と憐れみの崇高な行為なる十字架に向けられたり。
ミサは、信仰と希望、正義と愛の美徳を養い、実践する機会をわれらに与える祈りなり。
イエズスよ、ミサをより完全に生きるために、われは御身の十字架の道行きに同行しようとここに馳せ参じたてまつれり。
われは、聖マリア・マグダレナに、聖ヨハネに、特に七つの悲しみの聖母に近づかんとす。われをして彼らとともに十字架の道を歩ましめ給え。
イエズスよ、御身のいけにえのすべての功徳を、御身のすべての意向と聖母の意向のために、御身にささげたてまつる。

第一留 イエズス、死刑の宣告を受け給う

イエズスよ、御身は苦悩の中で、わが罪をすべてご覧になり給い、わが善のなきことを知り給えり。ピラトの前で、御身は、われに代わりて不当な死刑の宣告を受け入れ給えり。
イエズスよ、われは罪を犯せり!御身が使徒たちの足を洗った時のように、われも跪いて痛悔し奉る。
聖母よ、われがミサの初めに痛悔の祈りを唱えるとき、わが心を、おのれの罪に対する悲しみで満たす恵みと、わが罪の償いに惜しみなく力をつくす固い意志を与え給え。

第二留 イエズス、十字架を担い給う

イサクのように、イエズスは御父から犠牲の木を受け取り給う。熱意と決意をもってそれを抱き給い、肩の上に置き給う。
ミサ聖祭において、司祭はパテナに置かれたホスチアを捧げる。それにより、わが罪の負債の赦されんがため、あらゆる悪に捧げようとする救い主の御旨を実現するなり。
「聖なる父よ、わが無数の罪、過ち、怠慢のために捧げられたこの汚れのないホスチアを受け取り給え」と。
聖母よ、わが罪の償いを分かち合うために、毎回の奉献において、御摂理が望み給うすべての苦しみを、身も心も喜んで受けることができるように聖寵を祈り給え。
善き母よ、十字架がわれに与えられるや否や、イエズスのように決意をもって十字架を受け入れることができるよう、われを思い出し助け給え。

第三留 イエズス、初めて倒れ給う

イエズスはゆっくりと歩み給う。体を少しでも動かすことはイエズスにとりて拷問なりし。鞭打たれ給うた時、主の聖なる御体は引き裂かれたるがためなり。
イエズスよ、わが過失の多くは、肉の欲望の声に耳を傾けすぎたがためなり。肉の欲望は、常にわれを利己主義へと向かわせんとす。つまり怠惰、官能なり。ゆえにわれは、徳の道を進むために、わが肉欲の苦行が必要なのだと理解する。
わが愛する救世主よ、われはこの苦行の生活を始めんとす。
聖母よ、われがミサ聖祭に与る時、主の現存に相応しい態度、慎み深い態度を保ち、たとえ犠牲を払っても主に対する敬意を表すことができるよう、われを助け給え。

第四留 イエズス、聖母と出会い給う

聖母は天主の御子の公生活の間には姿を消されたが、御子の犠牲のためにまたお現われになる。
主の使徒たち、主の友人たちが姿を消したその時、聖母は主の近くに来られた。イエズスは、われらのためにそうすると同じように、母のために受難を耐え忍ぶ。聖母の存在は、主を励まし、主は犠牲の限りを尽くすそうとされる。
われらは、ミサがおわって帰路に就くとき、聖母がわれらの救いの道につねにおられること、常に天上へと続く道に沿って聖母が現存しておられるという深い確信とともに聖堂を離れねばならぬ。人生の道のりは、わが十字架の道なり。自分の都合ではなく進歩するために常に自己克己をせねばならぬ。その道において、われらの良き聖母の励ましのまなざしに出会うなら、それができるなり。
努力のない一日、自己犠牲のない日とは、進歩のない日なり。

第五留 シモン、イエズスの十字架を担い奉る

全能の天主なるイエズスは、われらの罪を償う方法を示すために、主の十字架への道のりを誰かが助けることを望み給うた。「愛は多くの罪を覆い隠す」ペトロ前4:8
ミサにおいて、われらはこの憐れみを行使することができるなり。一に、苦難にある人々のために、罪人の回心のために、煉獄の霊魂の救いのために熱心に祈ることによりて、二に、特定の人を訪問し、助けることによりて、われらがシレネのシモンになることを求め給うイエズスのまなざしに応えることができるなり。
イエズスよ、われにとりて償うべきこと多し!ゆえに、わが負債を減らすべき愛徳の方法を提供し給うた主に感謝したてまつる。

第六留 ベロニカ、イエズスの顔を拭きたてまつる

汗にまみれた主イエズス・キリストを見た聖ヴェロニカは、尊敬の念を込めて、唾液と血で汚れた救い主の御顔を拭き、お返しに、主は、聖なる御顔をベールに写し出し給う。そは、聖所に、御自分の完全なる清き霊魂と、主の愛だけがその中にあることを示すためなりし。
われらの目の前で、天主の御栄(みさかえ)は、犯し続けられる罪によりて足元から踏みにじられるなり。
ミサ聖祭では、われも、御父への聖なる捧げものとして、天主の御子の無限の崇敬、人の忘恩を償うための救い主の無限の感謝、人の罪を償うための天主の犠牲(いけにえ)の贖いが捧げ奉る。
イエズスよ、主は返答としてわが心を清め給うことをわれは知るなり。

第七留 イエズス、ふたたび倒れ給う

カイファの憎しみの言葉、ペトロとピラトの臆病な言葉、群衆の軽率な言葉が、イエズスの脳裏をよぎる。
イエズスよ、われは自分の欠点の多くが舌に関係していることに気づく。すなわち、嘘や虚栄の言葉、陰口や辛辣な言葉、無駄な言葉、高慢な言葉。救いの道を歩むためには、舌を、そしてそれ以前に心の動きを、慎まなねばならないことを悟る。
愛する救い主よ、われはミサにてこの慎みを始めたてまつる。天主の場所、祈りの場である教会ではおしゃべりを避け奉る。

第八留 イエズス、イスラエルの娘たちを慰め給う

<< 受難は愛により、最も硬い心をも溶かす >> 聖ボナヴェントゥーラ
ああ、イエズスよ、わが信仰と愛は、ミサの最中に眠りこけている!聖別の瞬間に、聖金曜日の犠牲が再現されるを知りつつも、イスラエルの女たちとはちがい、われは憐れみの涙を流すにはほど遠し。
イエズスの受難の功徳がわれらを清めるには、同情では足りず、悔い改めが必要なり。ゆえに、救い主はこれら女性らに、わが罪と子供らの罪のために泣くように招き給えり。
ミサにては、天主の犠牲の前に、司祭は「nobis quoque peccatoribus 罪人であるわれらにも」と胸を打ちたたくなり。その時、聖母よ、ねがわくはわれらの心に触れ給い、われらの心を開きて、われらの罪とわれらが隣人に犯させた罪のために、痛悔の涙が溢れ出ずるようなさしめ給え。かくてイエズスの血潮は、われらを清めることができるなり。

第九留 イエズス、三度、倒れ給う

イエズスははや力尽き、再び倒れ給う。御受難のおり、イエズスは見世物にされる。なんという光景なりぞ!何という屈辱ぞ。すべての目が主に注がるる。主についてうわさし、批判する鳴り。
イエズスよ、わが欠点の多くが不潔や時間の浪費につながることをわれ知れり。徳の道を進むは、わがまなざしを戒めるが肝要なり。
愛する救い主よ、われはミサにて目の修練を始め奉る。他人の物音、態度、服装への好奇心に抵抗し奉る。わが霊魂がこころして熱心に祈るべく、慎み深くあらんと努め奉る。

第十留 イエズス、服をはがされ給う

ゴルゴダで十字架につけられる前に、イエズスは恐ろしき苦しみの中で裸にされ、すべての傷は再び開く。
私審判と公審判の時、われらの霊魂も天主と人の前に裸にさるる。そは恐ろしい屈辱なり。今、われらは周囲の人々よりの尊敬を保つため、「良き姿」なるマントで人生を覆う。そのとき、善行さえも汚すわが悪意が、わが罪とともに明らかにされるべし。わが態度を説明するは、虚栄心、利己主義、恨み、臆病、世間体なり。霊魂の善や天主の栄光への配慮にはあらず。
イエズスよ、われはミサに行く前、ミサ中も、ミサを終えて帰るときも、高貴でまっすぐな意向で霊魂を満たすことから始め奉る。

第十一留 イエズス、十字架につけられ給う

イエズスは今、十字架の上に大いなる釘によりて固められ、恐るべき苦痛を与えらるるなり。主はもはや、痛みの少なき位置を探したり、血を探し求めるハエを追うために、微動だにするをえず。
イエズスよ、わが多くの欠点は、気まぐれとわがままに関係するを知るなり。時間の浪費、怠慢、物事の失敗や省略、焦り、落胆、不平不満。われは、厳格、規律正しさ、克己に困難を覚ゆ。とりわけ、計画、時間割にわが意志を従わせるは至極難しきなり。計画と天主の御旨に従うにあらず、わが気ままに導かれるがゆえなり。
イエズスよ、ミサ聖祭にて司祭は常に同じ動作を同じ順序で繰り返す。司祭は自分の気分や好みに従わざるなり。ミサに空想の余地はなし。われもわが意志を天主の御旨に釘付けするを欲す。

第十二留 イエズス、十字架で死し給う

イエズスよ、十字架の道行きの終わりに、わが罪深く、惨めなるを感じ奉る。われは浅はかにして、多くの欠点に注意せず、今に至るなり。
イエズスよ、御身はいけにえの祭壇の上にて、徐々に死に向かい給う。御体は、頭から足まで、いとも深き苦痛の中にあるなり。御霊魂は、孤独の長き苦しみにあるなり。なんという苦しみなししぞ!われはマグダラのマリアのように、御足元で悔い改めの涙を流すを欲す。
わがイエズスよ、赦しと憐れみよ!「父よ、彼らを赦し給え。彼らは何をするかを知らざるなり。」主よ、願わくはわれをすべての悪から、過去現在の罪のために耐えねばならぬすべての苦しみから救い出し給え。御身の尊い犠牲の功徳によりて、未来において再び罪に陥ることなきよう助け給え。

第十三留 イエズス、十字架よりおろされ給う

お告げの時、聖母は救い主に御体(すなわち苦しむべき体)を与えるに同意されし。聖母はエルサレムの神殿で、御父の御旨に従い、救い主と自己を捧げ、贖いの業を遂行されし。
今日、天主御父は、洗礼を受けしすべての子らを養うがために、息絶えし聖なるいけにえを聖母に返し給うなり。
祭壇では、聖母はパテナによりて表さるる。パテナは十字架のふもとにまします聖母を意味し、聖母は聖なるいけにえを受け取りてわれらに与え、聖体拝領を通し、イエズスの功徳と徳でわれらの霊魂を養うなり。
わが善き母よ、御身がわれに与え給う恵みの宝の何一つ失われることなきよう、真の悔い改めと、生き生きとした信仰、深い尊敬、激しい愛徳をもって、わが霊魂をいつも聖体拝領のために整え給え。

第十四留 イエズス、墓に葬られ給う

聖母の目の前で、生気のない、引き裂かれた救い主の遺体が墓に埋葬されたり。
聖母は観想的な霊魂なりし。「聖母はこれらの出来事をすべて記憶にとどめ、心の中で思いめぐらした。」(ルカ2章)
十字架上のイエズスの三時間の苦悩は、当時の聖母には永遠のように思われたり。されど今や、聖母はすべてが早く過ぎしに気づき、贖罪の時を生き続けるを欲し給う。
われらにとりても、祭壇や聖体拝領で繰り広げられるドラマは瞬く間に過ぎるなり。ゆえに、良き黙想や十字架の道行きで、ミサ聖祭に与る準備をなし、日中は悔い改め、願い、感謝、愛、遷善の決心の行為を繰り返さんとす。
ミサに与りて、日常生活のあらゆる迷惑に対して寛大なる赦しを宣言するという固い決意を持ち帰るなり。

最後の祈り

イエズスよ、これほど多くの愛、これほど多くの善意、これほど多くの慈悲に、われはどうお返ししたら良いのか!
悔い改めの必要のない九十九人の義人のためよりも、罪を痛悔をする罪人のために、天主の心に嘉されるなり。
ゆえに、イエズスよ、この十字架の道行きの間、われは罪を痛悔せり。
また、善意の罪人を清め、強め、恵みで満たす喜びを、御身に捧げたり。この喜びはわれにとりて大きな喜びなり。この痛悔を新たにせん。
わがよき聖母よ、主が天主の恩恵をわれに浴びせる喜びを常に得られるよう、われを謙遜と謙遜のうちに守り給え。