十字架の道行き:司祭
準備の祈り
司祭は天主の無限の愛によって創造された存在である。天主は司祭を通して、すべての霊魂に近づき、教え、清め、力づけ、慰め、聖化される。司祭は、天主の無限の愛を人類に伝える使命を担っている。
人類と天主との仲介者として任命された司祭の召命は、何と崇高なことか。
人類救いのための天主の計画を阻むためにあらゆる手段を尽くしてきた悪魔は、今もなお、司祭職を滅ぼそうとしてい奉る。十字架の恵みが、もはや人々に届かないようにするためである。
おお、イエズスよ、私は御身が十字架の道行きを通して獲得されたすべての功徳を御身に捧げ奉る。司祭たちを高め、支え、聖化するための力強い恵みを授け給え。
第一留 イエズスは死刑を宣告される
司祭にとって最も恐ろしいことは、理想を失うこと、すなわち天主に捧げられた召命、つまり霊魂に天主を伝え、霊魂を天主へと導くという使命を失うことである。そうなってしまうと司祭は次第に祈りと学問への情熱を失い、集会の喧騒に、そして世俗の快楽に惹かれていく。超自然的な精神を失い、平凡な生活に陥り、あらゆる誘惑に弱くなり奉る。信仰や道徳生活の喪失、憂鬱、社会活動への傾倒などである。
そして、霊魂にとって、こうした堕落や平凡さがもたらす結果は計り知れない。
おお、イエズスよ、御身の不当な死刑宣告の功徳を御身に捧げ奉る。召命から遠く離れてしまったすべての司祭たちを立ち上がらせ給え。
おお、聖職者の母、聖母マリアよ、司祭たちのために執り成し給え。
第二留 イエズスは十字架を託される
司祭は、深く心を乱し、怠惰や無関心に陥らせるような、大きな人間の苦難に直面することがあり奉る。それは、言葉が行動に伴わないこと、信徒が必ずしも寛大ではないこと、信徒からの無神経で時には不当な批判にさらされること、同僚の司祭や権威者からの支援の欠如や、理解の欠如、そして時には孤独を感じることである。
おお、イエズスよ、私は、霊魂への御身の熱意の功徳を御身に捧げ奉る。重い十字架を受け、困難な人間の試練に苦しむすべての司祭を支え給え。司祭たちを強め給え。彼らが御身に支えを見出し、彼らの苦しみを御身の苦しみと結びつけることができるようにし給え。
おお、苦しむ人々の慰め主、聖母マリアよ、彼らのために祈り給え。
第三留 イエズス、初めて倒れる
霊魂の救いにおける司祭の役割をはっきりと理解している悪魔は、特に激しく司祭を攻撃する。教会の危機の中でキリスト者としての感覚を失わせるほど司祭を盲目にしたり、野心や独立心を甘やかして霊魂の救いへの熱意を失わせたり、不純の火を燃え上がらせて司祭としての命を失わせたり、あるいは司祭としての嫉妬や落胆に陥らせたりする。
おお、イエズスよ、この最初の倒れの功徳を御身に捧げ、司祭たちが悪魔の攻撃に立ち向かう力を与え給え。
おお、悪魔の頭を打ち砕く使命を受けた聖母マリアよ、地獄の敵から司祭たちを守り給え。
第四留 イエズス、聖母マリアと出会う
司祭は、司祭職の尊厳に高められたとはいえ、やはり人間、罪深い人間なのである。毎日聖なるミサを捧げ、頻繁に告解の秘跡を授ける司祭は、もし大罪の状態にあるならば、多くの冒涜を犯す可能性があり奉る。司祭の威厳と周囲からの尊敬は、司祭を沈黙させ、冒涜的な告白へと導くことがありうる。この一つの罪は、大司祭イエズスの母を深い苦悩に陥るが、それでもなお聖母は天の父に憐れみを乞い願い給う。
おお、聖母マリアよ、この悲痛な出会いの際に流された御身の涙の功徳によって、御身の天主の子から、これらの哀れな司祭たちに深い回心の恵みを授け給え。
第五留 シモン、イエズスの十字架を担ぐ
人類はかつてないほど大きな必要を抱えている。恐ろしいほどの霊的貧困に満ちたこの世界で、人々は真理によって養われ、自らの人生と苦しみの意味について照らされる必要がある。この冷たく利己的な世界にあって、人類は試練の中で支えられ、慰められ、天主の愛によって温められる必要がある。この怠惰な世界にあって、人々は職務において力づけられ、励まされ、罪から清められる必要がある。天主に無関心で独立心に満ちたこの世界にあって、人間は謙遜な祈りと天主の聖なる御心への愛へと立ち返る必要がる。
おお、イエズスよ、御身の受難の功徳によって、御身の司祭たちの心に、今日の信徒たちを支える御身の熱意を注ぎ込んでください。そうすれば、人々は常に徳において前進することができるだろう。
おお、使徒の女王マリアよ、すべての司祭の霊魂に使徒の炎を燃やし続け給え。
第六留 聖ヴェロニカがイエズスの顔を拭う
天主なる救い主は、ご自身の贖いの業に深く結びついた司祭たちに、特別な愛を注いでおられる。司祭は、祈り、黙想、そして聖心との一致の霊魂でなければならない。聖ヨハネのように、司祭は毎日、イエズスの聖心に頭をあずけ、天主の愛徳に満たされる時間を持つべきである。そして、心と心を通わせる対話の中で、司祭は心の内を天主なる主に注ぎ出し、自分に託された霊魂について語り、願い、感謝し、償いをする。しかし、悲しいことに、活動主義や快適な生活の追求が、司祭を聖心におけるこの真の使徒職から遠ざけてしまうことがあまりにも多い。
主イエズスよ、この聖女の優しさの功徳によって、すべての司祭に、御身の御心との親密な祈りへの真の傾きを与え給え。
第七留 イエズスは二度倒れる
「この言葉を覚えておきなさい。『しもべはその主人より偉くはない。もし世がわたしを迫害したなら、おまえたちをも迫害するだろう』」(ヨハネ15:20)。現代社会はリベラル化が進み、善悪、真理と誤謬の区別を見失っている。それゆえ、現代社会の唯一の敵は、闇を払い、闇を断罪する光を肯定し、説くことである。主に従う司祭は、意見ではなく真理を宣言する力を持たなければならない。また、悪と誤謬を糾弾しなければならない。これは容易なことではない。だからこそ、多くの司祭は残念なことに耳に心地よいこと、現代の思考様式や生活様式に沿ったことだけを教えている。イザヤ書にあるように、彼らは「口のきけない犬」(56:10)である。
イエズスよ、この二度目の倒れの功徳によって、すべての司祭を恐れを知らない説教者となし給え。
第八留 イエズスはイスラエルの娘たちを慰める
優しさと憐れみは、良き牧者の特徴的な徳であった。これらの徳は霊魂を引きつけ、心を天主に捧げるように開かせる。これらの徳は、完全な献身とあらゆる形のいらだち・あせりの完全な克服を求める。これらは霊魂への愛と完全な自己否定の具体的な実りである。司祭がしばしば冷たく、利己的で、せっかちな性質に屈してしまうならば、敏感で恐れを抱きやすい霊魂は心を閉ざしてしまうことがありうる。
イエズスよ、御身はこれらの聖なる女性たちを優しく憐れみ深く、本来の務めへと導く方法をご存知でした。すべての司祭が霊魂たちに近づくとき、主のこれらの徳を豊かに授け給え。
聖母マリアよ、証聖者の元后よ、すべての司祭に母性的な心を与え給え。
第九留 イエズスは三度倒れる
司祭は、自らのためだけでなく、託された霊魂のためにも、惜しみなく償いを実践しなければならない。なぜなら、救いの業は十字架にあるからである。アルスの聖司祭は、「犠牲を捧げなければ、刈り取るものは何もない」と言った。そして聖なる教会は、灰の水曜日にこの義務を思い起こさせる。「入口と祭壇の間で、主の司祭たちは民のために泣きこう言え。『主よ、御身の民を憐れみ給え。』」(ヨエル書2章17節)。
ああ、多くの司祭は、残念ながら、罪の重大さや救い主への償いという召命を見失い、この使徒職のあり方を忘れ、あるいは軽視している。
おお、イエズスよ、この三度目の倒れの功徳によって、すべての司祭に、その司祭生活を通して、犠牲の精神を豊かに授け給え。
第十留 イエズスは衣を剥ぎ取られる
ラ・サレットで、聖母マリアは現代に向けて次のような恐ろしい預言をされ給うた。「司祭たちよ、わが子のしもべたちよ、司祭たちは、その邪悪な生活、不敬虔な態度、聖なる秘蹟を執り行う際の不敬虔さ、金銭欲、名誉欲、快楽欲によって、不純の温床となってしまった。[…]もはや、この世のために永遠の父に汚れなき犠牲を捧げるにふさわしい者は一人もいない。」不純が蔓延し、罪の機会が増すこの世界において、司祭は天使のような徳を保つために、深い超自然的な生活を送り、その務めにおいて極めて慎重かつ警戒心を持ち続けなければならない。
おおイエズスよ、この恐ろしい自己否定の功徳によって、すべての司祭に、この堕落した世界にあって貞潔の徳を保つために必要な恵みを与え給え。
聖母マリアよ、純潔の百合よ、司祭たちのために祈りたまえ!
第十一留 イエズスは十字架に釘付けにされる
司祭は、その聖職を通して、もはや自分自身のものではなく、天主に、天主の御業に捧げられる。ゆえに、天主の御手の中で従順な道具となるためには、自分自身に対して死ななければならない。天主の教えと助言における天主の知恵に従順であるためには、あらゆる自己利益を捨て去らなければならない。自分の意志ではなく天主の意志を行うためには、あらゆる自己意志を捨て去らなければならない。不正義によってその務めが制限されないためには、あらゆる自己愛を十字架につけなければならない。これら三つの釘は、自分を際立たせようとする性質、常に自分が正しいと望む性質、独立を愛する性質、自分の好悪に従う性質にとって、苦痛である。
おお、イエズスよ、御身の十字架の功徳によって、すべての司祭が、この自己への死を達成し、完全に御身のものとなり、霊魂の益となるよう助け給え。
第十二留 イエズスは十字架上で息を引き取る
司祭は、その司祭職を通して、天主の栄光と霊魂の救いのために捧げられるいけにえとなることを切望しなければならない。ある司祭は、まるで病に釘付けにされたかのように、なすべき務め、霊魂の必要を目の当たりにしながらも、ミサを捧げ、祈ること以外にほとんど何もできない。彼らはすぐに自分の司祭職を無益なものと考え、重荷を感じ、深い落胆に陥る。しかし、十字架に釘付けにされ、受け入れ、愛し、自らの苦しみと無力さを捧げるすべての司祭は、真に司祭である。彼は大司祭イエズス・キリストと深く結びつき、世を救い、目立たないながらも、実に効果的な方法で、その務めを果たす。
イエズスよ、一見失敗に終わった御身の死の功徳によって、病に倒れた司祭たち、あるいは聖職を早々に終えた司祭たちの霊的な力を支え、強め給え。
第十三留 イエズスは母の腕に抱かれ給う
受胎告知の日、マリアは「御旨のままになれかし」と答えることで、大司祭の母となり給うた。聖金曜日には、沈黙の「御旨のままに」によって、使徒聖ヨハネの母となり、ひいてはすべての司祭の母となり給うた。それゆえ、司祭は聖母と共に、主キリストの神秘体――イエズス・キリストの養子である兄弟たち――を形成しなければならない。だからこそ、司祭は聖母への深い信心を培わなければならないのである。また聖母は悪魔の傲慢を打ち砕くべき汚れなき方であるため、聖母に身を捧げ、その献身を生きるすべての司祭は、サタンの策略から守られるだろう。
イエズスよ、「おまえの母、ここにあり」と告げられた聖ヨハネへの言葉の力によって、すべての司祭に、御身の聖母マリアへの子としての愛と精神を少しでも与え給え。
聖母マリアよ、すべての司祭が十字架の神秘に忠実であり続け、司祭職への愛を貫き、聖なるミサのいけにえへの信仰を貫けるよう、支え給え。
第十四留 イエズスは墓に葬られる
司祭は、霊魂が必要とする時だけ姿を現し、人知れず生きることを学ばなければならない。信徒を分裂させないために、自分自身のこと、自分の苦悩について慎重に振る舞い、個人的な好みを明かしてはならない。共同体生活に支えられている時は比較的容易であるが、孤独な生活を送る時は、この慎み深さはなおさら困難である。しかし、信徒は司祭の欠点や弱点にすぐに惑わされ、やがて司祭としての姿よりも、一人の人間としての姿を見るようになりうる。イエズスよ、司祭にとって唯一の慰めとなり給え。彼ら一人ひとりが、感情的、そして人間的な孤独を、御身に近づき、天主の愛において成長するための糧とするよう助け給え。
聖母マリアよ、孤独の重圧を感じる司祭を、教会の静寂の中で、イエズスの聖心に寄り添うよう、優しく招き給え。
最後の祈り
イエズスよ、我が聖なる救い主よ、御身は司祭たちに、贖いの業、すなわち霊魂の救いを託され給うた。
われは、司祭たちに対する御身の熱意と情熱の功徳を御身に捧げ奉る。なぜなら、彼らは依然として弱き人間だからである。さらに、悪魔は贖いの業を滅ぼそうと、彼らに最後の攻撃を仕掛けようとしている。であるから、われは御身に懇願する。司祭たちの徳と聖なる理想、司祭職のあらゆる敵から彼らを守り給え。
イエズスよ、御身の司祭たちの心を、御身の御心に深く浸し給え。御身の愛の炎に燃え上がり、彼らが強くなり、御身のより大きな栄光と、できる限り多くの霊魂の救い以外に何も求めないようになし給え。
聖母マリアよ、御身が聖霊降臨の日に使徒たちに与えたように、すべての司祭に愛の炎を与え給え。多くの聖なる司祭たちが立ち上がり、天主のために世界を再び征服することができるように助け給え。
主祷文 - 天使祝詞 - 栄光唱