聖霊降臨後第六主日の説教―天主の寛大さ(大阪と名古屋)

ソース: FSSPX Japan

婦人よ、あなたの子を見よ

聖霊降臨後第六主日の説教―天主の寛大さ(大阪と名古屋)

2026年7月5日 イヴォン・フィルベン神父

聖霊降臨後第六主日の説教―天主の寛大さ(大阪と名古屋)

親愛なる信者の皆さま、今日で、第一戒についての勉強を締めくくります。第一戒は、学ぶのに最も多くの時間がかかる掟の一つです。この数週間、天主への礼拝がいかなる形の偶像崇拝も排除することを説明してきました。しかし、時には批判を耳にすることもあります。特にプロテスタントの人々から、カトリック信者は聖人たちや童貞聖マリアの執り成しを求めたり、異教の神殿に例えられるような教会を建てたりすることで、天主が唯一であることを尊重していないという非難を受けることがあるのです。要するに、カトリック信者は依然として異教徒のままだという批判です。

これは間違っています。この批判は、天主の寛大さを認識しないという誤解から生じています。この説教で、私は論争を仕掛けようとしたり、相手を否定する話をしようとしたりするわけではありません。むしろ、批判する人々が見落としている天主の一つの側面である、天主の寛大さについて探求したいのです。私たちが聖人たちを崇敬したり、聖なる場所を重要視したりする理由は、まさにこの天主の寛大さによって説明できることがお分かりになるでしょう。

1)天主は私たちを協力者とされる

天主は物惜しみするお方ではありません。自分の権威を嫉妬深く守ろうとする私たちとは違うのです。私たちの心に起こる感情に正直になってみましょう。私たちはしばしば、他人を脅威とみなします。たとえば、同僚が頭角を現したり成功を収めたりすると、すぐに考えるのは、自分の成功が脅かされるのではないか、あるいは自分が目立たなくなるのではないかと、いうことです。職場では、あまりにも有能であったり、優れたアイデアを持っていたりするという理由だけで、主流から外されてしまうことは珍しくありません。その人が周囲に恐れを抱かせてしまうため、脇に追いやられるのです。これは、あらゆる人間社会に見られる反応であり、もちろん、原罪から生じるものです。

しかし、天主はそうではありません。天主は基本的に寛大なお方です。天主は私たちを脇に追いやるのではなく、むしろ御自分の御業に関与させて、私たちの能力を活用しようとされるのです。このことは、天主が被造物を導かれる際にも明らかです。天主は創造主でありながら、御自分だけで御摂理を実行されるのではありません。天主は、天使たちやあらゆる被造物が御摂理に協力するというオーケストラ全体を自由にお使いになり、彼らが行働することを許されています。部下を信頼して権限を委譲できることは優れた指導者のしるしであり、天主はその完璧な模範なのです。

創造の秩序において真理であることは、救いの秩序においても等しく当てはまります。天主は私たちを救いの御業の伴侶としてくださるのです。十字架を思い出してください。主は御母に対して「婦人よ、あなたの子を見よ」と言われました。童貞聖マリアは恵みの秩序における母となられました。主は御母を通して働くことを選ばれたのです。主は「私が唯一の救い主であるから、誰も十字架の近くにいてはならない。離れていなさい!」とは言われませんでした。そうではなく、主は御母に救いの使命を委ねられ、御母をすべての恵みの仲介者とされたのです。

童貞聖マリアから始まったこの動きは、教会においては聖人たちを通して続いています。イエズスは、御自分と一致して他の人々の霊魂を救うことができる多くの霊魂を伴侶とされました。教会の歴史を振り返ってみてください。聖フランシスコ、聖ドミニコ…。そして、このことは、私たちにも当てはまるのです。イエズスは、私たちが御自分と共に働くことを望んでおられます。イエズスは御自分の友人である聖人たちを頼りにしておられます。また、私たちが、特に自分が捧げる犠牲を通じて、主と共に行動することを望んでおられます。キリスト教の信仰とは、受動的に待つことではなく、イエズスと共に行動することであり、特に私たちが捧げる犠牲を通して行われるのです。ちょうど、聖体十字軍の子供たちが行っているようなことです。

童貞聖マリアの執り成しや、教会の聖人たちが成し遂げた業、あるいは私たち自身の犠牲が、どういうわけかイエズスを目立たなくさせてしまうと考える人がいるとすれば、それは本当に見当違いな見方です。主が唯一の救い主であることは、もちろん私たちも知っており、教会も常に告白してきていることですが、私が、その救いの伴侶とならなければならないのです。これを疑うことは、天主を御自分の特権に執着する器の小さい、嫉妬深い存在として描くことになってしまいます。

プロテスタントの批判に決して惑わされてはなりません。童貞聖マリアや聖人たちなどへの信心は完全に正当なものです。なぜなら、天主は、御自分の友人たちを救いの御業に関与させることを望んでおられるからです。私たちは、カトリック信仰のこの側面を実現させているでしょうか。教会は毎日、異なる聖人をたたえていますが、私たちは聖人たちとの交わりを持っているでしょうか。また、聖人たちの生涯について学ぶ時間を取っているでしょうか。自分の犠牲を通して、天主の御業の仲間に加わらなければならないということを、私たちは自覚しているでしょうか。

2)聖なる場所

私たちカトリック信者が聖なる場所を尊ぶ理由を理解させてくれるのも、まさにこの同じ天主の寛大さという概念です。もちろん、天主は目に見えないお方であり、特定の場所に限定されるお方ではありません。もちろん、恵みは目に見えないものであり、霊魂の内に宿るものです。私たちはそのことをよく知っています。それでも、聖書に立ち返ってみましょう。まさに最初から、天主は御自分の民と共に住むことを望んでおられました。無限の創造主である天主は、人類の中に住むことを望まれます。したがって、出エジプト記において、ヘブライ人がシナイ山のふもとに到着したとき、天主はこう言われました。「彼らに私のために聖所を造らせよ。そうすれば、私は彼らの中に住む」(出エジプト記25章8節)。この表現に注意してください。「彼らに私のために神殿を建てさせよ。そうすれば、私は彼らの中に住む」と言われているのであり、「神殿の中に」住むと言われているのではありません。なぜなら、出エジプト記においては、神殿はイスラエルの民の宿営の中央に張られていた、移動式の聖所である幕屋だったからです。天主は、御自分の民の中に住みたいと望んでおられるのです。

この御計画が完全に実現するのは、究極的には私たちの主イエズス・キリストが来られることと御聖体を通してです。聖なるホスチアに現存しておられるのは天主御自身、来られるのは天主ご自身です。これは異教とは正反対です。異教徒は神々をつくり上げ、その神々のために神殿を建てますが、それらはすべて人間から出て来るものです。しかし私たちの宗教においては、来られるのは天主御自身です。ミサで捧げられるパンとぶどう酒において御自分を与えることを選ばれた、私たちの主イエズス・キリスト御自身です。

では、なぜ天主はそのように決められたのでしょうか。理由は同じです。寛大さゆえです。天主は寛大なお方で、私たちを愛しておられます。遠くにいる友人のように、遠方から合図を送ったり、救いに関する情報を送ったりするだけでは満足されません。そうではなく、天主は、旧約聖書の救いの歴史の始まりから説明してこられた通り、私たちとともに、私たちの中にいたいと望んでおられるのです。だからこそ、私たちは美しいカトリックの礼拝の場を持たなければなりません。そうすることで、私たちは、天主の寛大な御計画に対して忠実であり続けることができるのです。教会の中にいるとき、私たちは、御自分の民の中に住みたいと望まれる天主の御前にいるのだということを、自覚できているでしょうか。


親愛なる信者の皆さま、教会が聖人たちや聖なる場所を尊ぶとき、それは単なる気まぐれではなく、天主のお望みに忠実であろうとする行為なのです。天主は寛大なお方です。天主は私たちを御自分の救いの御業に関与させ、私たちの中に住みたいと望んでおられます。この天主の寛大さに感謝し、私たちもその寛大さに倣うように努めましょう。