聖霊降臨後第二十五主日の説教
イエズスの聖心
聖霊降臨後第二十五主日(御公現後第五主日)の説教
2024年11月10日 東京、大阪 イヴォン・フィルベン神父
慈愛について
親愛なる信者の皆さま、
あわれみ深く、謙遜で、慎み深く、忍耐強い人(コロサイ3章12節)を想像してみてください。悪くないですね。その人は、かなり徳の高い人のように思えます。しかし、その人に他の資質を加えてみましょう。その人は、他の人に対して忍耐強く、自分に悪いことをした人を赦します(3章13節)。この人は、その行いにおいて並外れていると言えるでしょう。聖パウロは今日のミサの書簡で、そのような行いについて述べ、私たちに、それを取り入れるように勧めています。「ゆえに、天主に選ばれた者であるあなたたちは、聖なる者、愛される者として、深いあわれみの心、温情、謙遜、慎み、忍耐をまとえ。互いに忍び、他人に不平があっても赦し合え」(12-13節)。
しかし、聖パウロはこう言います。「それは良いことだが、それでは十分ではない」。これらの徳はすべて良いものであり、私たちはその徳を得ようとしなければなりませんが、それよりも必要なものがあります。それは、とりわけ、「何よりもまず慈愛をまとえ。慈愛は完徳のかなめである」(14節)。あわれみの心、親切、謙遜、柔和、忍耐を持つことは素晴らしいことですが、それでは十分ではなく、もし慈愛がなければ、何にもならないのです。
親愛なる信者の皆さま、慈愛はカトリックの宗教に特有の徳です。私たちのキリスト教的生活の目的は、私たちの霊魂に慈愛の徳を持ち、それを高めていくことです。この説教では、慈愛とは何か、それはどこから来るのかを説明します。
1)慈愛は友情である
慈愛とは、何でしょうか。慈愛とは愛だというのは、明らかなように思えます。しかし、違います。慈愛とは、私たちが「愛」と呼ぶものと等しいものではありません。なぜなら、愛とは、地上全体に存在する自然のものであり、例えば夫婦間や親子間といった人間の間の愛がありますが、それは自然のものであるからです。しかし、私たちが「慈愛」と呼ぶものは、自然のものではなく、天主から受けた超自然の賜物なのです。
慈愛とは、具体的には何でしょうか。それは霊魂と天主との間の友情であり、慈愛を所有する霊魂は、天主の友人となります。聖パウロが書簡で述べているように、慈愛はかなめであり、完徳のかなめでさえあります。友情のかなめです。
皆さまが誰かと友人であるなら、皆さまはその友人の善を望み、友人も皆さまに同じことを望みます。友情には相互関係があります。
慈愛とは、被造物である人間の霊魂と、万物の創造主である無限の天主との間にある、そのような友情なのです。天主の御前では無である私たちが、天主の友人となり、それで私たちの人生の意味は変わります。私たちは天主をお喜ばせしたいと望み、天主の栄光を望み、天主は私たちに恩寵を与えることで、私たちの幸せを望んでおられるのです。
慈愛とは、天主と霊魂の間の完徳のかなめであり、そのかなめの結果として、慈愛は私に、天主への愛のために他の被造物である人間を愛させます。私がこれらの人間を愛するのは、彼ら自身のためだけではなく、彼らが天主によって創造され、愛されているからなのです。
2)慈愛によって、天主は私たちの内に住もうと望まれる
なぜ天主は、私たちと友人になろうと望んでおられるのでしょうか。なぜなら、天主は、私たちの内に住もうと望んでおられるからです。「私を愛する者は、私の言葉を守る。また父もその者を愛される。そして私たちは、その人のところに行って、そこに住む」(ヨハネ14章23節)。
私たちが慈愛を持ち、成聖の恩寵の状態にあるとき、天主は、私たちの内に住まわれ、父と子と聖霊は私たちの霊魂の内に住まわれます。そして、その住まいは大きくなることができ、もっともっと大きくならなければなりません。キリスト教的生活の目的は、私たちの霊魂の内に天主をお迎えするだけでなく、天主をもっともっとお迎えすることです。それはどのようにして可能になるのでしょうか。私たちの慈愛の行いによってでしょうか。私たちが天主を愛すれば愛するほど、天主はもっと私たちの内に住まわれます。私たちが天主への愛において寛大ならば、天主の現存は、私たちの内でさらに強くなるのです。
私たちはイエズス・キリストへの信仰によってのみ救われるのではなく、私たちの霊魂を天主の住まいとし、この住まいをますます大きくすることによって救われるのです。このため、私たちは、天主に対して、また天主を愛するがために隣人に対して、慈愛を実践しなければならないのです。
3)慈愛は私たちの主イエズス・キリストの恩寵から来る
慈愛とは、私たちの主イエズス・キリストにのみ存在する新しい能力です。天主である主は、弟子たちにこう言われました。「私はもう、あなたたちをしもべとは言わない。しもべは主人のしていることを知らぬものである。しかし、私はあなたたちを友人と呼ぶ」(ヨハネ15章15節)。天主である私たちの主イエズス・キリストは、私たちをご自分の友人、天主の友人としたいと望んでおられ、それは私たちが主の恩寵を受けるときに起こります。
通常、この恩寵は洗礼の秘跡によって与えられます。洗礼は、私たちを天主の友人とし、私たちに成聖の恩寵の状態を与え、私たちがその成聖の恩寵の状態を保つなら、私たちは天主との友情関係にあります。
私たちの主イエズス・キリストの外には、天主との友情はありません。人間的で自然な感情としての「愛」は普遍的なものであり、地上のすべての文化に存在しますが、慈愛はそうではありません。天主との友情である慈愛が存在するのは、私たちの主イエズス・キリストの恩寵を自分の内に持つ霊魂においてのみです。
聖書にその一例があります。「慈愛」という言葉さえも、新約聖書の聖なる書き手たちによって発明されたとも言える、新しい言葉です。彼らはギリシャ語で新約聖書を書きましたが、その言語には、「愛」を表す一般的な言葉が二つあります。それはエロス(eros)とフィリア(philia)です。しかし、新約聖書の聖なる書き手たちは、これらの言葉を使いませんでした。その代わりに、天主と被造物の人間の一人との間の友情という、まったく新しい種類の愛を表現するために、古くて珍しいギリシャ語の言葉、アガペー(agape)を見つけたのです。アガペーはラテン語ではカリタス(caritas)、英語では「チャリティー」(charity)となりました。それが新しい言葉であったのは、それが私たちの主イエズス・キリストにおいてのみ与えられる新しい現実だったからです。
親愛なる信者の皆さま、慈愛は「完徳のかなめ」であり、天主からの最も偉大な賜物です。それを大切にし、私たちの愛の行いによって、日々それを増大させましょう。