復活の主日の説教

ソース: FSSPX Japan

キリストの復活

復活の主日の説教

2025年4月20日 大宮 イヴォン・フィルベン神父

私たちのいけにえの小羊であるキリスト

今日、私たちは、最初にあった御復活の告知をお祝いしています。それは、まず婦人たちに、次いで他の弟子たちに行われました。このミサの典礼によく注意していると、「Pascha nostrum immolatus est Christus.」という一節が繰り返し現れます。この一節は、このミサで読み上げられる、次の聖パウロの書簡がもとになっています。「私たちの過ぎ越しであるキリストは、すでにいけにえとなられた」(コリント前書5章7節)。
 この説教では、この一節の意味を説明したいと思います。

1)過ぎ越し:天主の小羊

聖パウロが言っていることを理解するためには、まず、「過ぎ越しと復活祭」の意味を理解しなければなりません。

今日、私たちは「復活祭」をお祝いしており、この「復活祭」という日本語は、確かにこの日にお祝いする中心となる出来事、つまり主の御復活のことを言っています。しかし、これは聖パウロが使っている言葉ではなく、聖書や典礼の中で他のどこにも出てきません。「復活祭」は、この祝日の意味を説明するために作られた日本語ですが、翻訳したものではありません。典礼では、聖パウロと同じく、「パスカ」(Pascha)という言葉が使われています。この言葉は、ヘブライ語とアラム語に由来するもので、元々はヘブライ人がお祝いしていた旧約の祝日のことを指しています。日本語では、この旧約の祭りを「過ぎ越しの祭り」と呼んでいます。元々は「越える」という意味だったのでしょうが、この祭りの専門用語、固有名詞となっています。現代の日本語訳の問題点は、「復活祭」と「過ぎ越しの祭り」に、二つの別々の意味があると思ってしまうことです。実際には、過ぎ越しの祭りは一つしかありません。旧約の過ぎ越しの祭りは準備であり、イエズス・キリストの御死去と御復活によって成し遂げられた過ぎ越しの祭りはそれが成就したものなのです。

しかし、さらに話を進めていく必要があります。聖パウロは、キリストは「私たちのいけにえとなった過ぎ越し」であると語っています。「過ぎ越し」という言葉は、単に祝日を指すのではなく、いけにえそのものを指すようになったのです。聖パウロが、キリストは私たちの過ぎ越し、と語るとき、キリストはいけにえの小羊である、と言っているのです。

2)復活祭:いけにえを実現すること

復活祭は御復活の祝日であるだけでなく、いけにえの小羊の祝日でもあります。なぜ私たちの主は復活されるのでしょうか。贖いは十字架上で成し遂げられたのであり、ある意味、聖金曜日で十分なのです。キリストが十字架上で御死去になるとき、神殿の幕が裂け、大地が揺れ、多くの死者が復活します。御死去になる直前に、私たちの主は「すべては成し遂げられた」と言われました。実際に、十字架ですべてが成し遂げられたのです。では、御復活は無意味なのでしょうか。もちろん、そうではありません。御復活は、十字架上で御死去になったお方が、友人のために死んだ素朴で寛大な人間なのではなく、天主の小羊であるということを私たちに知らせてくれる基本となるものなのです。御復活は、私たちの主の神性を証明するものです。なぜなら、死からよみがえることができるのは天主だけであり、自ら復活することができ、死の後に生き返ることができるのも天主だけだからです。

自問してみましょう。そうです、贖いは十字架で成し遂げられましたが、御復活がなければ、誰がイエズスの神性を信じたでしょうか。童貞聖マリアと聖ヨハネを除けば、おそらく誰も信じなかったでしょう。ですから、御復活が必要なのです。これこそ、十字架上で御死去になったお方が本当に天主であるという、反論の余地のない証拠なのですから。

御復活のおかげで、私たちは、十字架上で御死去になったのが本当に天主だったということを理解します。ですから、彼は本当に天主の小羊であり、いけにえであり、人間にして天主であり、このお方だけが私たちを天主と和解させることがおできになるのです。今日、私たちは御復活をお祝いしているだけではなく、聖パウロとともに、こう言っているのです。「キリストは、真に私たちのいけにえの過ぎ越し、私たちの過ぎ越しの小羊、私たちを天主と和解させるいけにえである」。

聖木曜日、聖金曜日、そして復活祭は、一つのいけにえの各段階です。聖木曜日は始まりであり、私たちがこのいけにえの意味の教えを受けるときです。すなわち、それは愛徳からなされるいけにえだということです。「世にいるご自分の人々を愛し、彼らに限りなく愛を示された」(ヨハネ13章1節)。聖金曜日は、このいけにえの実現です。そして過ぎ越しの祭りは、このいけにえの完成であり、このいけにえの知らせを全世界に伝えるものなのです。

3)いくつかの結論

どのような結論が引き出されるでしょうか。第一に、復活といけにえを決して切り離してはなりません。実際、いけにえと復活のつながりを弱めることは、現代の教会で頻繁に見られる誤謬です。そのため、よくあるのは、十字架につけられた人物の像のない十字架が使われ、「イエズスは復活されたのだから、もはや十字架に表される必要はない」として、それを正当化することです。これは、もはやカトリック的な概念ではありません。十字架につけられた人物の像のある十字架を愛しましょう。復活祭は、十字架上で自らをいけにえとされた天主の小羊の祝日なのですから。

特に復活祭にはミサにあずかりましょう。なぜなら、ミサは、祭壇に現存される天主の小羊のいけにえだからです。

続誦が述べることに従いましょう。「キリストの信者たちよ、過ぎ越しのいけにえに、賛美のいけにえを捧げよ」。私たちの主のいけにえを捧げるのは司祭だけですが、洗礼を受けた者は皆、自分のいけにえを捧げなければなりません。それは、賛美のいけにえ、霊的な礼拝(ローマ12章1節)、私たちの主のいけにえに対して内的に感謝を捧げるものです。復活節の間、私たちは、復活祭でその意味が完全に明らかにされる十字架のいけにえの偉大さをもっと黙想して、十字架上で御死去になって私たちを父なる天主と和解させてくださった天主の小羊に感謝することが必要です。