キリストによって贖われなかったなら、私たちが生まれて来たことは利益がなかった

ソース: FSSPX Japan

2025年4月20日  復活の主日

トマス小野田圭志神父  説教(大阪 聖母の汚れなき御心聖堂)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、

私たちの主イエズス・キリストは本当に、死から、死者のうちから復活されました。そして主は、この大勝利の喜びを私たちと分かち合いたい、私たちに与えたいと思っています。この喜び、溢れるばかりの勝利の喜び、栄光に溢れるこの喜びを、ぜひイエズス様から受け取ってください。

でもイエズス様はこの喜びを、本当に永遠の喜びとして分かち合いたい、同じ勝利を分かち合いたいと思っています。そのために、イエズス様は特別の方法を作りました。単なるテレビでサッカーの選手が勝った、金メダルを取った嬉しい、のではなくて、「全くイエズス・キリストと同じ勝利、同じ喜びを私たちも得る」ということです。どうやるんでしょうか?それが「洗礼」です。

洗礼によって、私たちはキリストと同化する、キリストと一つになる、頭であるキリストにつながることができるからです。

そこで、今日私たちは、主の復活の喜びを分かち合うために「洗礼の神秘——特に洗礼が死であり、復活であるということ」を黙想いたしましょう。

【洗礼は死であり復活である】

まず、洗礼は「死」です。洗礼によって、イエズス・キリストのうちに、キリストの神秘体の一部(成員・肢体)として私たちは組み込まれます。

すると、神秘体の一部であり、頭であるイエズス・キリストの体の一部である私たちは、イエズス・キリストと同じ道を通らなければなりません。

復活の前に必ず通るべき道があります。それは「十字架」です。

私たちは世に対して、罪に対して、自分に対して十字架につけられて死ななければなりません。

聖パウロはこうはっきりと言っています。ローマ人への手紙の一部を引用します。

「キリスト・イエズスにおいて洗礼を受けた私たちは、みなキリストの死において洗礼を受けたことを、あなたたちは知らないのか。それゆえ私たちはその死における洗礼によってイエズスとともに葬られた。」(ローマ63-4

まさに、洗礼は罪の洗いでもありますが、洗礼の水が私たちにかぶさるとき、あたかも墓に葬られたかのようにキリストと共に葬られました。

第二に、洗礼は「復活」でもあります。

ちょうど私たちが洗礼の水から出ると、洗礼によって、私たちは罪の死から離れて、新しい聖寵の恵みの命に、恵みの生活に入ります。

聖パウロの、ローマ人への手紙の続きを引用します。

「それゆえ私たちはその死における洗礼によってイエズスとともに葬られた。それは、御父の光栄によってキリストが死者の中からよみがえったように、私たちもまた新しい命に歩むためである。私たちはキリストの死にあやかってキリストとともに植えつけられたのだから、その復活にもあやかるであろう。」(ローマ64-6

もしもキリストの死と一つになったら、復活にもあずかることができる——

ですから、洗礼というのは「死と復活」です。その原型(モデル)は「イエズス・キリストの死と復活」です。

ですから、私たちは洗礼によってすべての被造物に対して死ななければなりません。そして、イエズス・キリストとともに、あたかも私たちがもはや地上の人ではなく天の人であり、その心と思いがいつも天に向いてとどまっているかのような、そして天の国を慕う生活を送ることが義務づけられています。

聖パウロは、コロサイ人への手紙の中でこう言っています。

「あなたたちがキリストとともによみがえったのなら、上のことを求めよ。キリストはそこで、天主の右に座したもう。地上のことではなく上のことを慕え。」(コロサイ31-2

さらに、聖パウロはローマ人への手紙の中でこう言います。

「もし私たちがキリストとともに死んだのなら、また彼とともに生きることをも信じる。キリストにおいて死んだ者は一度そして永久に罪に死に、生きる者は天主のために生きる。同様にあなたたちも、自分は罪に死んだ者、キリスト・イエズスにおいて天主のために生きる者だと思え。」(ローマ6810-11

こうやって、洗礼を受けてイエズス・キリストと一致した者(イエズス・キリストに属する者)は皆、古い人間のこの世から離れています。

イエズス様は、最後の晩餐の時に、天主おん父にこう祈られました。

「私がこの世のものでないのと同様に、彼らもこの世のものではないからです。」(ヨハネ1716

洗礼を受けた時に、私たちは白衣(白い衣)を受けました。

聖パウロはこう言っています。ガラチア人への手紙で「キリストの洗礼を受けたあなたたちはみな、キリストを着たからである。」(ガラ327)と。

ですから、私たちは新しい被造物になりました。新しい世界に生きる者となりました。永遠の命を生き始める者となりました。

この世を最初の日に創られた時に、主は「光あれ」と言って光ができました。週の最初にこれが成就します。イエズス・キリストの復活の光が、栄光の光が全地上を照らし出します。新しいアダム、イエズス・キリストは、私たちにすべてを与えるために光を輝かせました。ですから、私たちキリスト者の新しい世界では、すべてのキリスト者は皆、イエズス・キリストからすべてを受けて、限りなく豊かな者です。聖パウロはこう言っています。コリント人への手紙です。

「この世、命、死、現在、未来、すべてあなたたちのものである。」(コリント前322

ですから、私たちキリスト者は、本当の宝、富、栄誉、喜びを、私たちの新しく生み出された世界に見出し、持っています。洗礼を受けていない、まだ闇にとどまっている暗やみの子らは、確かに、この世のものを見たり、話したり、聞いたりすることに喜びを見出し、楽しく思っています。でも、私たちは違います。使徒聖ヨハネは、その書簡の中でこう書いています。

「かれらは世のものであるから、世について語り、世はかれらのいうことをきく。しかし私たちは天主からのものである。天主を知る者は、私たちのことばをきき、天主からでない者はきかない。」(1ヨハネ45

ですから、私たちは洗礼の水によって、キリストの大勝利にあずかる者、本当の勝利を受け取るもの、永遠の命を受け取る者となりました。つまり、あらゆる種類の聖徳で飾られた聖なる生活、天主への愛、天主への賛美、隣人への愛徳を絶えず実践するように召されました。

聖パウロはこう言っています。

「私は天主に生きるために律法によって律法に死に、キリストとともに十字架につけられた。私は生きているが、もう私ではなく、キリストが私のうちに生きたもうのである。私は肉体をもって生きているが、私を愛し、私のためにご自身をわたされた天主の子への信仰の中に生きている。」(ガラチア219-20

私たちは、洗礼によってこの滅びる世から脱出しました。そして、洗礼の水を通して滅びない大勝利の贖いの命に入りました。ですから、教会は復活の徹夜祭で高らかにこう宣言しました。

「キリストによって贖われなかったなら、私たちが生まれてきたことは利益がなかった」と。

つまり、教会が何を言いたいかというと、「もしも私たちが洗礼の水を通して贖われなかったならば、もしもこの世の終わりに地獄が待っているだけであったならば、滅びが待っているだけだとしたら、勝利がなかったとしたら、私たちの生きている意味はなかった。しかし、イエズス様は洗礼を通して私たちに大勝利を与えてくださった。復活があるので、私たちの人生には深い意味がある、生には深い意味がある」と言います。

では、最後に遷善の決心を立てましょう。

信仰と洗礼の御恵みを、心からイエズス様に感謝しましょう。

勝利を私たちに分かち合ってくださるイエズス・キリストに感謝いたしましょう。

主が、さらに多くのプレゼント、高貴な賜物で私たちを満たしてくださるように、さらに信仰を増し、希望を増し、愛徳を増し、ますます多くの御恵みで私たちを満たしてくださいますように。

私たち自身もイエズス様にお捧げしましょう。主の賜物が私たちのうちに実を結び、そして私たちの心に、アダムの古い世界に対する大きな軽蔑と、罪に対する嫌悪が刻まれますようにお祈りいたしましょう。これらはすでに十字架につけられたものとなりますように。また、私たちに与えられたキリスト者の新しい世界に対する深い愛、キリストの神秘に対する尊敬が刻まれるよう、天主に切に願い求めましょう。

また、この復活祭の時に、聖なる日本の殉教者聖堂、大宮の聖堂で、またここで、もうすぐ洗礼を受けられる方々がおられます。新しい命に生まれる方々のためにもお祈りいたしましょう。

最後に、イエズス様はマリア様とともに、私たちを永遠の命に贖ってくださったということを思い出しましょう。マリア様は新しいエワです。

私たちが洗礼の約束を終わりまで忠実に守り、キリストの命を完全に生きることができるようマリア様に御助けを願い、祈りましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。