復活徹夜祭の説教―洗礼は新たな創造

アダムの創造
復活徹夜祭の説教―洗礼は新たな創造
2025年4月19日 大宮 イヴォン・フィルベン神父
聖土曜日の説教
親愛なる兄弟の皆さま、
復活徹夜祭の典礼は、洗礼に焦点を当てています。今晩のように、洗礼志願者が何人かいる場合には本当の洗礼があり、そうでない場合には、少なくとも、私たち一人一人が自分の洗礼を思い起こしながら、洗礼の約束の更新があります。
考えてもみてください。教会は、洗礼の秘跡に一つの儀式全体を割り当てるほど、この秘跡を非常に重要視しているのです。この秘跡は、まさに今夜の中心です。なぜなら、復活されたキリストが弟子たちにご出現になるのは、日曜日の朝だからです。今夜、私たちがお祝いしているのは、まさに洗礼そのものなのです。
第一の朗読から、洗礼の持つ一つの側面を詳しく見てみようと思います。それは、洗礼は新たな創造である、ということです。
1)創造と七日目
第一の朗読には、宇宙創造の記述がありましたが、このテキストの中心となる教えは、天主がすべてを創造されたことと、天主が創造されたものはすべて完全なものだということです。この朗読の中には、繰り返し、「天主は、それをよしと思われた」とあります。そして、六日目の人間の場合は、「天主は、それを非常によしと思われた」とあるほどです。つまり、すべてが完全であり、天主が創造されたものには欠陥や悪い出来のものは何もないのです。
すべては良いものですが、六日目が創造の最後ではありません。六日目の後には七日目があり、「こうして、天と地と、そのすべてのものが完成した」とあるのは、七日目だけです。創造は、物質的には六日目に完成しますが、七日目までは完全な完成にはならないのです。これには深い意味があります。
七日目とは何でしょうか。その日は天主ご自身の日、聖なる日、天主がご自身のために聖別された日です。その日は日曜日であり、天主に聖別された日、祈りの日です。この七日目は、創造の目的、霊的な目的を教えてくれます。創造の目的は、創造の中心にいる人間が、天主を知って天主を愛することなのです。
2)霊的なものの優位性
私たちが今いる国と簡単に比較してみるのも興味深いことです。日本は、見事に“何事にもきちんとした”(organized)国です。日本を訪れたり日本に住んだりする外国人は、大抵は口をそろえてこう言います。「このような“何事にもきちんとした”(organized)国に住むのは、とても快いもので、ほとんどの人が社会のルールを尊重し、仕事は極めてまじめに行われる」と。これは自然的な観点、人間的な組織という観点と呼べるもので、日本は、この観点から見れば大変な成功を収めています。しかし、この人間的で自然的なレベルだけでは十分ではありません。それはとても重要なことですが、もっと高い目的、つまり人々が天主を知って天主を愛することができるようになるための手段にすぎません。もし、社会組織の自然的なレベルに自らを限定し、人間の超自然的な召命を忘れてしまえば、人類は次第に利己的になり、希望もなく、子どももなく、喜びもない、ということになってしまいます。
このことを考えれば、家庭生活や、子どもたちの教育などで、私たちが選択をしなければならない際に、私たちの助けになるはずです。家庭生活が“きちんとしていて”(organized)、十分なお金があり、子どもたちが良い教育を受けるといったことは重要ですが、他のすべてのものに意味を与える目標、すなわち天主を知って天主を愛するということを忘れてしまっては、これらすべてがまったく無意味なものになってしまいます。物事は常に正しい秩序のもとに置かなければなりません。卒業証書、キャリア、これらはすべて、一つの目的へと向かう手段ですが、その目的は、天主を知って天主を愛するということではないのです。
3)原罪
だからこそ、すべての人間は、洗礼の秘跡によって再創造されて、天主との友情を再発見する必要があります。この友情は、アダムの罪によって失われたからです。アダムは霊的な罪、すなわち天主を拒絶するという高慢の罪を犯し、私たちは、生まれたときから天主を拒絶するほど、この罪の犠牲者なのです。この拒絶は、創造の目的を拒絶することであるため、他のすべてを崩壊させます。アーチの真ん中にある石によって丸天井が支えられているゴシック建築の大聖堂が、この石を取り除けばすべてが崩れてしまうのと同じです。同じことが、私たち人間という存在についても当てはまります。天主を拒絶することは、他のすべてのものを機能不全、制御不能な無秩序へと陥らせます。欲求は悪しきものとなって私たちを分裂させ、人間はもはや協力するすべを知らず、社会をバラバラにします…それが今の悲しい世界なのです。これらすべての原因はただ一つです。それは天主を拒絶することであり、これが天主の創造の持つ美しい秩序を破壊したのです。
親愛なる信者の皆さま、
洗礼が、私たちと、今晩洗礼を受けたばかりの人々にもたらしたものは、まさにこの美しい秩序です。洗礼は、私たちが、天主との友情や、私たちの存在の真の意味を再発見できるように助けて、私たちを再創造するのです。しかし、洗礼は始まりにすぎず、私たちは、その洗礼に従って生きる必要があります。つまり、私たちの存在の持つ各要素を、「天主を第一に」という正しい秩序のもとに置くのです。そうすれば、すべての現実の状況が、自らの正しい居場所を見いだすことでしょう。