告解で起こる大奇跡は、永遠の命に関すること、超自然の命が回復することなのです

2025年4月27日 白衣の主日(主の御復活の八日目)
トマス小野田圭志神父 説教(大宮 聖なる日本の殉教者聖堂)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日、福音でも読みましたが、私たちの主は、悔悛の秘蹟(告解の秘蹟)を制定されます。復活の主日に、主はこう言われます。
「聖霊を受けよ。あなたたちが罪をゆるす人にはその罪がゆるされ、あなたたちが罪をゆるさない人はゆるされない。」
今日は一緒に、告解の秘蹟(悔悛の秘蹟)について黙想いたしましょう。そして、主の憐れみを感謝いたしましょう。
【最後の晩餐の高間】
時は復活の主日の夜遅く、場所は最後の晩餐の高間です。
数日前、聖木曜日の夕暮れに、同じ最後の晩餐の高間で、私たちの主イエズス・キリストは御聖体を制定されました。
旧約のすべての預言と前兆を成就させて、それを廃止し、新しい新約のいけにえを行います。
つまり、十字架の犠牲を先取りして、そして今後それを再現させるミサ聖祭を初めて立てられます(初ミサ)。
そして、主は御聖体によって聖寵を与えるのみならず、聖寵の作り主である御自身を、私たちに与え尽くそうと御聖体を制定されました。
また、その直後に同じ場所で、最高司祭であるイエズス・キリストは、御自分の永遠の司祭職を執行する権能(権限)を使徒たちに与えます。つまり、叙階の秘蹟を制定して、使徒たちを司祭として、世界で最初の叙階式を行います。旧約の司祭職はこれで廃止されます。
そして、唯一の永遠の新約の司祭職、つまりイエズス・キリストの司祭職が存続するために、天主に唯一嘉(よみ)される、つまり快く受け入れることができるいけにえとして、真の天主の小羊を秘蹟的に屠る力を使徒たちに預けます。
こうすることによって、使徒たちは司祭として叙階され、主のおん体(キリストの物理的な肉体)を信徒たち(キリストの神秘体)に与える権能さえも授けられました。
50日後、聖霊降臨の主日の午前9時頃には、同じ最後の晩餐の高間において聖霊が降臨し、堅振の秘蹟が制定されることでしょう。
【悔悛の秘蹟の制定】
復活の主日の夜、主は告解の秘蹟(悔悛の秘蹟)を制定されますが、いったいなぜでしょうか?
何故かというと、主は御聖体を私たちに与えようと、御自分の御恵みをすべて与えようとされますが、御聖体を受けるには、私たちが洗礼を受けて成聖の聖寵の状態になければなりません。
しかし大罪がある状態では、天主のおん体、御血、御霊魂、御神性をすべて含む御聖体を拝領することはできません。
もしもふさわしくない状態で御聖体を拝領してしまえば、聖なるものを汚してしまい、涜聖の罪を犯すことになってしまいます。
ですから、私たちがふさわしい状態で主の御聖体を拝領することができるように、復活の主日に悔悛の秘蹟を制定されます。
また同様に、堅振の秘蹟を受けるにも、大罪がある状態では受けることができません。
聖霊を受けて、完成されたキリスト者になるというこの堅振の秘蹟は、成聖の恩寵の状態でなければなりません。
そこで私たちの主は、まず復活のその日に、無限の憐れみによって悔悛の秘蹟(告解の秘蹟)を制定されました。
洗礼の御恵みを受けて、原罪とすべての自罪(自分の罪)が赦される御恵みを受けたとしても、私たちが生きている間は、不幸なことに罪を犯して主を侮辱してしまう可能性が残っています。
私たちが、ふさわしく主を拝領することができるために、私たちには悔悛の秘蹟が必要です。
私たちがもしも不幸にして罪を犯してしまった場合、それがどのようなものであったとしても、そして何度であったとしても、もしも私たちが心から罪を痛悔するならば、それを赦してくださる、そして、そうしてでも御自分を私たちに与えたい、与え尽くしたいと思われるほどの憐れみ——その主の深い憐れみによって告解の秘蹟が制定されたことを、私たちはどれほど感謝すべきでしょうか!
【司祭の権能の偉大さ】
ところで、告解の秘蹟を考えれば考えるほど、司祭の権能がどれほど偉大であるかということが分かります。
何故かというと、罪の赦しというのは、天主だけが行うことができるからです。
これについて福音書には、たとえばカファルナウムというところで、イエズス様のもとに多くの人々がやって来て、その時に、床に寝ている中風の人が、友だちによって「イエズス様なら治してくれる」と連れて来られたことが記録されています。
しかし人があまりにもいたので、屋根を取って吊るしてイエズス様の前に持ってきました。
イエズス様は、彼らの信仰を見て非常に感動します。そこで、彼の病を治癒されようとしますが、病を治癒するのみならず、肉体の病気あるいは死がこの世に入った根本の原因(霊魂の病と死)、つまり罪を癒そうと、赦そうとされました。
そこで、この中風の人に向かって「子よ、信頼せよ。あなたの罪は、ゆるされた」と言われます。
すると、そのとき近くにいた律法学士たちは「この人は、冒涜のことばを吐いた」と考えました。
何故かというと、天主だけが罪を赦すことができるはずなのに、この人は自分を天主としている、だからこれは冒涜だ、という論理でした。
確かに、「罪」とは何よりもまず天主に対する侮辱です。
罪とは、何よりもまず、絶対の愛の天主と、主に愛されてつくられた私との関係です。
たとえ、私たちが隣人に対して犯した罪であったとしても、何よりもまず、天主に対して犯されるのです。
ですから、天主に対して犯された罪は、天主しか赦してくださることができません。
私たちが告解場に行って痛悔する時、「痛悔の祈」というとても美しい祈りを唱えますが、それをよく見てください。
「ああ天主、われ、主の限りなくきらい給う罪をもって、限りなく愛すべき御父に背きしを深く悔み奉る。」
私たちが罪を痛悔するのは、天主に対して罪を犯したからです。
罪を赦すのは、全能の創造主である天主しかできません。
しかし、この罪の赦しの権能を、素晴らしい想像を絶するような権限を、主は新約の司祭たちに与えました。しかも無制限に。
「あなたたちが罪をゆるす人にはその罪がゆるされ、あなたたちが罪をゆるさない人はゆるされない。」
そこでカトリック教会の司祭は、告解の秘蹟で痛悔している信者にこう言います。十字架のしるしを切りながら、
+ 聖父と聖子と聖霊との御名によりて私はあなたの罪を赦します。アーメン。
Ego te absolvo a peccatis tuis in nomine Patris, et Filii, et Spiritus Sancti. Amen.
このたった数語の一文で、告解場に入る前と入った後では大変化が起こります。告解場に入る前の私たちが、もしも大罪の状態であったとしたら地獄行きでした。永遠の死という死刑をいつか受けるべき、それを待っている極悪人、謀反人、犯罪者でした。
しかし、罪がすべて赦されて告解場を出る時には、永遠の至福を受けるべき、天主の子供としての家督を回復した幸せな霊魂となって出てきます。何という大変化でしょうか!
この変化は、たとえば気持ちが悪い毛虫が、葉っぱを食べてきれいな蝶々になったとか、病気があっという間に治った、どころの話ではありません。とても美しいものでも、これは自然の話です。死者が生き返った、ということも遥かに超越する超自然の大奇跡です。
何故なら、告解で起こる大奇跡は、永遠の命に関することだからです。超自然の命が回復することだからです。
来世で、栄光によって永遠に至福直感の生命を生きることができるようになる秘蹟だからです。
この悔悛の秘蹟を制定してくださった、私たちの主イエズス・キリストに、まさにこの復活の主日にくださったイエズス・キリストに、私たちはどれほど感謝しなければならないことでしょうか!
ちなみに、聖ピオ十世会の司祭は、領域的あるいは属人的にも裁治権を持ってはいませんが、必要な状態にある信者からの要求(ニーズ)の観点から、教会法によって規定されている、補われた裁治権を有しています。
さらに、亡くなられた教皇フランシスコ様は、聖ピオ十世会の司祭たちが、全世界で適法に使徒職(司祭職)を果たす権能をお与えになっています。
書簡「ミゼリコルディア・エト・ミゼラ」で、聖ピオ十世会の司祭たちが、世界中ですべての信者のために告解の秘蹟を行う権限を持つと宣言されています。
ですから、もしも罪を犯した、あるいは罪の赦しを受けたいという方は、どうぞこの御恵みを十分に受けてください。
【遷善の決心】
では、最後に遷善の決心をいたしましょう。
私たちの罪の赦しのための秘蹟を制定された主に感謝いたしましょう。私たちに罪の赦しを与えたい、そして御自分をすべて与え尽くしたい、御恵みの嵐を、御恵みの大洪水を私たちに与えたいと思われる、この主の憐れみに心から感謝いたしましょう。
永遠の生命とは、イエズス・キリストの名前においてのみあります。イエズス様は最後の晩餐で言われました。
「永遠の命とは、唯一の天主なる御父あなた、そしてあなたが送られたイエズス・キリストを知ることにあります。」
また、聖ペトロも断言しています。
「全世界に、私たちが救われるこれ以外の名は、人間にあたえられませんでした」(使徒行録4:12)
イエズス・キリストに感謝いたしましょう。
最後にマリア様にお祈りしましょう。
マリア様の御取次で、良い告解の秘蹟を受けることができますように。
イエズス様の愛に、私たちがますます良く応えることができますように。
そして、イエズス様に対する私たちの愛に満ちた信仰が、ますます深まり固められますように。
マリア様にお祈りいたしましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。