フランシスコの新司牧 その2

ソース: FSSPX Japan

2024年9月13日に教皇フランシスコが発言したスキャンダラスな言動を振り返る

聖ピオ十世会のジャン=ミシェル・グレーズ神父によるこの記事は、2024年9月13日に教皇フランシスコが発言したスキャンダラスな言動を振り返ったものです。グレーズ神父は、エコンにある聖ピオ十世神学校で護教論、教会論、教義学の教授を務めています。同神父は「Courrier de Rome」の主要な寄稿者です。2009年から2011年にかけて、ローマと聖ピオ十世会の教理上の議論に参加しました。

1.教皇フランシスコが9月13日に行ったスキャンダラスな発言[1]は、第二バチカン公会議に照らして理解するならば、微妙な形式の宗教無関心主義として理解することができます。

「エキュメニズムに関する教令」(Unitatis redintegratio)や「キリスト教以外の諸宗教と教会の関係に関する宣言」(Nostra aetate)によって完結した「教会に関する教義憲章』(Lumen gentium)は、宗教多元主義の原理そのものを否定しています。つまり、すべての宗教に、等しい尊厳があるという考えや、すべての宗教に救いの効果があるということを否定しています。

すべての宗教の救いの価値を認めるために、第二バチカン公会議の教えは、カトリック教会に存するキリストの教会の優越性に言及することによって、差別化された形で理解されています。

2.厳密な意味での宗教多元主義という考え方は、2001年2月26日にオッセルバトーレ・ロマーノ紙に掲載された通達の中で、ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿が当時の長官だった教理省によって批判的に評価されました。

聖座は、1997年に書店で発売されたイエズス会士ジャック・デュプイ神父の著書「宗教多元主義のキリスト教神学に向けて」(Toward a Christian Theology of Religious Pluralism)の出版を契機に、宗教間対話を認可するものだとされていた公会議文書の真の意味を示して反発しました[2]。

カトリックの宗教は、そしてカトリックの宗教だけが、救いの経綸の充満、つまりその完全な状態を表しているのであり、一方、キリスト教以外の宗教やカトリック以外のキリスト教の信仰告白【教派】は、その部分的な状態――その程度はたしかにさまざまであるがしかし現実に部分的な状態――を表しているにすぎない、としました。

言い換えれば、そして教皇フランシスコがシンガポールの若者たちに向けて語った例で言えば、カトリックだけが天主に到達するための最も完全な言語を表している一方で、他の宗教は同じような正確さを持たないということになります。

しかし、すべての宗教が天主に至る道であることになってしまうという事実には変わりがありません。要するに、宗教多元主義であることに変わりはないのです。言い方は変わっても、新しい形の同じ誤謬、あるいはその変種にすぎません。

3.教皇フランシスコの考え方は、第二バチカン公会議と連続していて、この変種に対応しているのでしょうか。教皇フランシスコの発言の残りの部分は、そうでないことを示唆していると言わざるを得ません。「しかし、私の天主はあなたのものよりも重要です!」と彼は反論しています。

【しかしフランシスコ教皇は言葉をこう続けて】「それは本当でしょうか。唯一の天主が存在し、宗教は言語のようなもの、天主に到達するための道なのです」と言いました。もしどの宗教も、他の宗教よりも重要な天主へと導くと主張できないのであれば、多元主義の緩和はどこにあるのでしょうか。そして連続性はどこにあるのでしょうか。

4.かなり好都合なことに、9月17日(火)、教皇はシンガポールでのこの発言に立ち返り、その範囲を明確にしました。教皇フランシスコは、エキュメニカルなグループの若者たちに対して、彼らの宗教的アイデンティティの多様性は「天主の賜物である」と述べました。

9月17日に放送されたビデオメッセージの中で、教皇は、「希望の巡礼者、平和の建設者」をテーマとした「Med24」会議のためにティラナに集まった若者たちに向けて演説しました。ビデオの中でフランシスコはこう宣言しました。「天主はすべての人を愛しておられます。天主は、私たちの間に違いを作られませんでした」。フランシスコは「一致」の成長を呼びかけ、参加者の宗教的背景の多様性を「天主の賜物」と表現しました。

そして、こう付け加えました。「時のしるしを見分けるために、共に学ぶよう皆さんにお勧めします。皆さんの伝統の違いを豊かさのように、天主が望まれる豊かさのように考えてください。一致は画一ではなく、皆さんの文化的、宗教的アイデンティティの多様性は天主の賜物です。多様性の中の一致。皆さんの先祖の証しに従って、皆さんの間に相互の尊敬を成長させてください」。

5.これ以上言うことがあるでしょうか。一致が画一ではなく、一致が多様性の中で達成されなければならないのであれば、多元主義の緩和は、特異的に緩和されるのではないでしょうか。そして、第二バチカン公会議との連続性は、これまで以上に問題となります。

6.緩和されようと緩和されまいと、宗教多元主義―あるいは宗教無関心主義―は、いずれにせよ、私たちの信仰を確証するために教会の教導権が常に提示してきたように、天主の啓示された教えに反する異端です。

教導権は、救いのための教会の必要性を、非常に正確な表現を用いて常に確認しています。それによれば、教会の必要性は絶対的なものであり、教会の外には、つまり、カトリック以外の宗教の効力による救いはありません。1208年、教皇イノチェンチオ三世がワルド派に布告した信仰告白がまさにそれです(DS792)。

これは、1215年の第四ラテラノ公会議の信仰告白(DS 802)でもあります。これは1302年の教皇ボニファチオ八世の大勅書「ウナム・サンクタム」(Unam sanctam)の教えでもあり、1351年の教皇クレメンス六世が、アルメニア・カトリコスであるメキタル(「慰め主」)に対して送った書簡「スーペル・クイブスダム」(Super Quibusdam)の教え(DS1051)でもあり、1442年の教皇エウジェニオ四世の大勅書「カンターテ・ドミノ」(Cantate Domino)におけるヤコビ派のための教令の教え(DS 1351)でもあります。

これは、教皇ピオ九世の1856年の回勅「シングラーリ・クイデム」(Singulari quidem)(DS1647)で、また、1863年の回勅「クアント・コンフィチアムール・メローレ」(Quanto conficiamur moerore)(この中で教皇は、この真理は教義であり、最もよく知られているものの一つであると述べています)で、そして最後に、二つの断罪された命題16番(DS 2916)および17番(DS 2917)の定言における1864年の「シラブス」(Syllabus)で、同教皇が思い起こさせる真理です。

教皇レオ十三世も、1896年の回勅「サティス・コニタス」(Satis cognitum)(DS3304)でこの真理を思い起こし、また教皇ピオ十二世はさらに3回、1943年の回勅「ミスティチ・コルポリス」(Mystici Corporis Christi)(DS3821)、1949年のボストンのカッシング大司教宛の検邪聖省の書簡(DS3868)、1950年の回勅「フマニ・ジェネリス」(Humani Generis)(DS3891)で、この真理を思い起こしました。

【「教会で」と「教会をとおして」の意味の違い】
もちろん、打ち勝つことができない無知【故意ではなく、カトリック教会の真理を知ろうとしてもどうしても知り得ない】の状態にある善意の霊魂は、どこにいても救いの恩寵を受けることができますが、それはまったく別の問題です。救いの恩寵は、たとえ特別に教会で受けられないときであっても、常に教会を通して受けるものなのです。

【「において」と「によって」の意味の違い】
また、カトリック以外の宗教において救われる人がいるとしても、カトリック以外の宗教によって救われる人はいません。これはつまり、カトリックの宗教を除いて、他のいかなる宗教も天主に至る道や言語を示すことはできないのです。

7.このことはすべて、完全に明確で明白なことです。それだけに、2024年9月12日、バーク枢機卿はXでのメッセージの中で、私たちは実際に「終末の時代」にいるようだと考えています[3]。

これまで、聖ピオ十世会は、当会が第二バチカン公会議と公会議後の教導権が重大な誤謬によって損なわれていると考えているという口実の下で、教会の不可崩壊性(indefectibility)を否定していると批判されてきました。

これは本質的に、バーク枢機卿のような保守的な高位聖職者たちに励まされたエクレジア・デイ運動の護教家たちによって、ここ数カ月の間に展開され、強調された議論です。例えば、マチュー・ラヴァニャ神父は自身のYouTubeチャンネル[4]で、イレール・ヴェルニエ神父は聖ペトロ司祭兄弟会(FSSP)のウェブサイト[5]で、です。

では、教皇フランシスコの最近のこれらの声明に関連して、彼らはどのように自分たちを位置づけることができるのでしょうか。聖ピオ十世会のように、これらの声明が重大な誤謬であると主張するならば、彼らも教会の不可崩壊性を否定することにならないでしょうか。

そして、もし彼らがこれらの声明はそうではないと断言するのであれば、イノチェンチオ三世、ボニファチオ八世、クレメンス六世、エウジェニオ四世、ピオ九世、レオ十三世、ピオ十二世の教えが重大な誤謬であると断言しないわけにはいかないでしょう。

そして、彼らはまた、違うやり方ではあるものの、教会の不可崩壊性も否定するのではないでしょうか。このことは、エクレジア・デイ運動の神学者たちに、深刻な思考の糧を与えるのは確実でしょう。

8.聖ピオ十世会としては、1974年11月21日の宣言を常に遵守しています。その中でマルセル・ルフェーブル大司教は、教会の聖伝から受け継いだ基本的な区別を定めました[6]。つまり、教会は教皇ではない、ということです。

イエズス・キリストによって創立された目に見える社会の不可崩壊性は、信仰告白、礼拝、そして天主によって制定された司牧者らの統治への服従という三重のきずなの不可崩壊性です。これらの司牧者たちの行為はさまざまであり、その中にはカトリック信者の良心に重大な問題をもたらすものもありますが、たとえそうだったとしても、教会をそのようなものとして定義するこの三重のきずなの一致において、教会があるべき姿ではなくなってしまうことはありません[7]。

歴史が、このことの証人です。そして、カトリックの聖伝の生き生きとした姿は、今日、そのあらゆる形態において、この三重のきずなの不可崩壊性を証明するものとして存在しています。聖ピオ五世の典礼に従って行われる真のカトリックのミサの永続性は、「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditionis custodes)の怒りにかかわらず、教会のこの不可崩壊性の最も具体的な表現の一つなのです。

9.フィラデルフィアの名誉大司教であるカプチン会士チャールズ・シャピューは、宗教多元主義に関する教皇フランシスコのコメントは「非常に欠陥のあるもの」であり、そのような考えは「殉教からその意味を失わせるもの」と宣言しました[8]。

エクレシア・デイ運動のカトリック信者の誰が、この聖なる人物【シャピュー大司教】が教会の不可崩壊性を否定していると非難するでしょうか。ルフェーブル大司教は、存命していた時、霊魂の救いのために誤謬に抵抗する決意を固めた善き司祭や司教が立ち上がるのを見て喜びましょう、と述べていました。

[1] “The Neo-Pastoral Work of Francis”

[2] See the article “Le signe de contradiction“ [“The sign of contradiction”] in the May 2024 issue of Courrier de Rome.

[3] https://www.lifesitenews.com/news/cardinal-burke-are-these-the-last-times-it-certainly-seems-that-way/

[4] https://www.youtube.com/watch?v=muhZ0qLfiQA

[5] https://claves.org/peut-on-etre-sedevacantiste-sans-le-dire/ ; https://claves.org/peut-on-etre-prudentiellement-ecclesiovacantiste-2-2/

[6] See the article “21 novembre 1974-2024” [“November 21, 1974-2024”] in the September 2024 issue of Courrier de Rome.

[7] See the article “L'Eglise est indéfectible” [“The Church Is Indefectible”] in the September 2024 issue of Courrier de Rome.

[8] https://www.lifesitenews.com/news/archbishop-chaput-slams-popes-extraordinarily-flawed-comment-that-every-religion-is-a-path-to-god/