フランシスコの新司牧

ソース: FSSPX Japan

シンガポールにて、2024年9月13日

教皇は2024年9月13日、シンガポールの若者たちに対して、「すべての宗教は天主への道です」と明確に述べました。以下は、聖ピオ十世会のジャン=ミシェル・グレーズ神父による解説です。

グレーズ神父はエコンの聖ピオ十世神学校で護教論、教会論、教義学の教授を務めており、「Courrier de Rome」の主要な寄稿者です。2009年から2011年にかけて、ローマと聖ピオ十世会の教理上の議論に参加しました。

1.教皇フランシスコは、最近のインドネシア訪問の際、2024年9月13日(金)にシンガポールのカトリック短期大学で若者たちと会うことを望みました。これは、問題の若者たちが、全員がカトリック信者であるとはとても言えないため、カトリック信者であろうとなかろうと、キリスト教徒であろうとなかろうと、さまざまな教派に属していたという意味での宗教間会合です。

2.若者たちに「対話する」ように励ました教皇は、すべての宗教は天主に至るものだと明確に述べました。「すべての宗教は天主への道です。例えて言うなら、すべての宗教は天主を表現するさまざまな言語のようなものです。しかし、天主はすべての人のために存在し、したがって、私たちは皆、天主の子なのです」[1]。

3.この例えは興味深いものです。実際、アリストテレスと聖トマスが教えているのは、言語とはしるしであるということ、言語とは、心の外にある現実ではなく考えを、つまり私たちの心が、その奥深くで知っている現実を、その心自身に提示する知的概念を、直接的かつ即座に表現するものだということです。

また同時に言語とは、人間が適切な表現を通して思いを交換することにより、互いに意思疎通できるようにするために、自然が人間に与えた手段である[2]ということです。。したがって、宗教を言語に例えることは、天主に至る道を、概念に至る道、思考に至る道に例えることです。

宗教が言語であるならば、天主は一つの概念であり、さまざまな宗教は、その同じ概念を表現するさまざまな方法となります。教皇はこの点を強く主張しています。「『しかし私の天主はあなたの天主よりも重要だ』と言うかもしれません。それは本当でしょうか。唯一の天主が存在し、宗教は言語のようなもので、天主に至る道です。あるものはシーク教徒、あるものはイスラム教徒、あるものはヒンズー教徒、あるものはキリスト教徒です」。

4.この教皇のスピーチの根底にある前提は、さまざまな言語は、一つの同じ概念のさまざまな表現に過ぎない、ということです。そして、さまざまな宗教のさまざまな信者は皆、同じ天主についての同じ考えを持っており、唯一の違いはそれをどのように表現するかだけである、とすることです。

5.しかし、天主という概念は、現実に対応しているのでしょうか、そしてそれは唯一の真の天主という現実なのでしょうか。例えば、カトリック信者とユダヤ教徒が異なる方法で表現している天主という考えは、父と子と聖霊という本質を同じくする三つのペルソナを持つ唯一の天主である聖三位一体という、永遠で客観的な現実に対応しているのでしょうか。

カトリック信者とイスラム教徒が異なる方法で表現しているイエズス・キリストという考えは、ナザレトのイエズス、真の人間、童貞マリアの御子、そして真の天主、御父の永遠にして本質を同じくする御子という歴史的で客観的な現実に対応しているのでしょうか。私たちの考えを超えた現実は存在するのでしょうか。あるとすれば、それは何でしょうか。

それは心の外にある存在、つまり、私たちの心理的かつ主観的な反応とは無関係な存在、という現実なのでしょうか。それともそうではなく、それは私たちの生命反応という現実とか、宗教的感情とか、無限への欲求とか、感情とか、生活上経験する欲求などと同じ現実なのでしょうか。そして、天主という考えは、この経験の自覚そのものなのでしょうか。

そして、そのような概念は、それを表現する言語とともに、それが言及するこの現実を十分に正確に描写することができるのでしょうか。教皇フランシスコのこのスピーチが提起する多くの決定的な疑問が存在しており、確かに、一見したところより問題は多くあります。

6.他方で、教皇聖ピオ十世は、回勅「パッシェンディ」(Pascendi)の中で、回答と識別のためのいくつかの要素を、さらに非常に明確に示しています。カテキズムの不変かつ正当に確立された知識によれば、天主とはペルソナを持つ存在であって、私たちの思考とは独立しており、その超自然の啓示を通して、父と子と聖霊という本質を同じくするペルソナを持つ三位一体における唯一の存在であることを知らせました。

そして、天主は、ナザレトのイエズス、つまり童貞マリアの肉による御子の個別の人間本性を、ご自分の御言葉のペルソナにおいて一致させたのです。多くのさまざまな宗教においては、天主に至る道を見いだすのは難しいように思えます。なぜなら、このような基本的真理は、現代のユダヤ教やイスラム教、さらに一般的には「キリスト教以外の」宗教によって否定されているからです。

7.天主とは単なる考えにすぎず、せいぜい実存的な経験や感情、宗教的な表現が適切に表現できないような経験や感情のことを言っているにすぎない、と仮定しない限りは、そうです。もしもそうだったならば、各信者は、自分の宗教の表現を超えて、いかなる言語によっても決して尽くされることのない未知の真理に固執しようという野心を養うことができるでしょう。

このような考え方では、すべての信者はすでに同じ信仰を共有しており、この世にあるすべての信仰は単なる変種にすぎなくなります。教皇フランシスコが励ますような宗教間対話は、あらゆる争いの分裂が永遠に廃れさせて、全人類のために単一の宗教が存在する日の夜明けを早めはずだとされます[3]。

8.では、私たちはそのような宗教相対主義や宗教自由主義(latitudinarianism)を求めるべきなのでしょうか。決してそうではありません。なぜなら、教皇ピオ九世が「シラブス」(Syllabus)で断罪した誤謬は、「すべての宗教は平等である[4]」と主張する人々の誤謬であるからです。教皇フランシスコは、「すべての宗教は天主への道です」と主張する際、それらが「平等に」すなわち同じ価値を持って天主へと至るとは、たしかに言っていません。

第二バチカン公会議の教えは、差別化された形で理解されるのであれば、この救いの価値を認めています[5]。つまり、第二バチカン公会議によれば、カトリックの宗教が人間と天主との関係の、あるいは、意識化された宗教的感情の、恵まれた表現であるとされて、差別化されています。そうすると、私たちは、これは「緩和された宗教自由主義」(mitigated latitudinarianism)のことだということができるのではないでしょうか。たしかに、この「緩和」(mitigation)の可能性の範囲を誇張しない限り、そう言えます。「新宗教自由主義」(neo-latitudinarianism)と言った方がよさそうですが、先に進みましょう。何故なら、de nominibus non est disputandum(名前については議論をすべきではない)からです。

9.これには先例がありました。忘れないようにしましょう。2019年2月4日(月)、教皇フランシスコは大イマーム、アフマド・アル=タイエブとともに、「人類の兄弟愛に関する、世界平和と共に生きるための共同文書」に署名しました。この文書はすでに、「多元主義と宗教の多様性は(…)、天主が人間を創造された知恵によって意志されたものである[6]」と主張しています。若者たちに対して行われる新宗教無関心主義的な司牧活動は、論理的にそこから導かれるものでなければなりません。

[1] Address of His Holiness to the Interreligious Meeting with Young People at the “Catholic Junior College” (Singapore) on Friday, 13 September 2024
[2] Saint Thomas Aquinas, Commentary on the Perihermeneias of Aristotle, book I, lesson 2, no. 2.
[3] Cf. the article “Exhortation synodale et postconciliaire” [“Synodal and Postconciliar Exhortation”] in the November 2019 issue of Courrier de Rome.
[4] The condemned propositions 16 and 18 of the Syllabus state precisely this equality of the different religions, from the point of view of salvific value. Proposition 16: “Man may, in the observance of any religion whatever, find the way of eternal salvation, and arrive at eternal salvation”; proposition 18: “Protestantism is nothing more than another form of the same true Christian religion, in which form it is given to please God equally as in the Catholic Church.”
[5] Constitution Lumen gentium, nos. 15 and 16; Decree Unitatis redintegratio, no. 3; Declaration Nostra aetate, no. 2.
[6] See the article “François et le dogme (II)”in the February 2019 issue of Courrier de Rome.