スタバト・マーテル

ソース: FSSPX Japan

2026年3月27日  童貞聖マリアの七つの御悲しみ

トマス 小野田圭志神父説教  日本の聖なる殉教者聖堂(大宮)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は、詠誦と福音書の間に長い歌がありました。これは「セクエンツィア(続誦:続き)」と呼ばれており、現在わずか5つしかなく、典礼の中では珍しいものです。たとえば、復活祭の「ヴィクティメ・パスカリ・ラウデス」、聖霊降臨のミサの「ヴェニ・サンクテ・スピリトゥス」、死者ミサの「ディエス・イレ」があり、よく知られています。

今日の続誦は「スタバト・マーテル」という言葉で始まり、十字架の道行きの祈りの際にも留ごとに歌われます。また、915日悲しみの聖母の祝日を称えるためにも歌われています。

そして、この続誦は、主イエズス・キリストの十字架の足元で苦しむマリア様の悲しみを称えることによって、私たち自身の聖徳の模範の一つともなっています。また、私たちが霊的に今どのような段階にいるのか、霊的進歩について知るために必要なことを教えてくれます。

私たちは、少しでも霊的に進歩できているでしょうか?

本当に、天主に近づいているのでしょうか?

そこで、今日は一緒にスタバト・マーテル(悲しみの聖母)について黙想しましょう。スタバト・マーテルは、次の三つの段階に分かれています。

  1. マリア様のことを知る
  2. マリア様の悲しみに同情し、私たちの心が動かされる
  3. マリア様と一緒に苦しみたいと願う

さあ、さっそく今から見ていきます。

【1:霊的な第一の段階】

スタバト・マーテルが私たちに教えてくれる霊的な第一の段階は、キリスト教生活の最初の段階でもあります。それは信仰の認識であり、信仰生活とは何か・何を信じるのかについて知るということです。ここからすべてが始まります。

まず、スタバト・マーテルの最初の節(スタンザ)は、贖いの神秘を私たちの前に描写します。私たちが何かを信仰するためには、それについて黙想しなければなりません。私たちの信仰生活における最初の段階です。

信仰とは、天主が啓示された真理、そして、天主が啓示されたがゆえに決して誤りのない真理の知識に根ざしています。たとえば、天主が永遠であること・三位一体であること・天主の第二位のペルソナが人間となられたことなどがありますけれども、それらについて知ることから始まります。

そこで、スタバト・マーテルは、第一の段階において私たちにこう聞かせます。

「悲しみに沈める聖母は涙にむせびて、御子(おんこ)の懸かり給える十字架のもとにたたずみ給えり。」

たった3つの短い詩節で語られる小さなイメージですが、これは実際にあった事実であり、私たちの信仰生活において主要な贖いの神秘を語っています。

私たちは、十字架にかけられた男性と、その御前に立っておられる一人の女性に目を向けさせられます。この男性は彼女の独り子であり、天主イエズス・キリストです。私たちは、彼女が祝福された御方であると知らされると同時に、苦しみと悲しみの中におられることも教えられます。その計り知れない御心痛の中で、苦痛に苛まれた天主の御子について黙想されるその女性は、聖母マリア様であり、聖なる童貞女にして、天主の御独り子の尊き御母なのです。この歌は、さらに続いていきます。

私たちが、霊的な真の信仰生活に入っているのかどうかを知るには、次のように自問しなければなりません。

私たちは、信仰の神秘を黙想する習慣を身につけることができているでしょうか?

これが、信仰生活の第一歩です。信仰とは単なる感情ではなく、真理についての知識を知り、それを信じることです。私たちが、霊的に本当に成長できているのかどうかを知りたいなら、自らに問いかけてみましょう。

私たちの信仰は、どこにあるのでしょうか?

私たちは、真理についてどのような知識を持っているでしょうか?

つまり、御托身や贖罪、その他すべての信仰の神秘について、私たちはどれほど理解できているでしょうか?

「スタバト・マーテル」が、これら信仰の神秘と事実とを私たちの目の前に見せ、黙想へといざなうように、私たちもまた、信仰の神秘を定期的に黙想する習慣を身に付けることができているでしょうか?

私たちは、自らの日常生活において、御托身や贖罪の像をどれほど自分の目の前に置き、心に留めることができているでしょうか?

スタバト・マーテルには、主要な神秘のイメージを示す一連の流れがありますが、このようにイメージを目の前に提示し、信仰の神秘について黙想する方法は他にもあります。たとえば、ロザリオの祈りです。私たちは、めでたしの祈り(天使祝詞)を10回唱えるごとに、キリストの生涯と聖母マリアの生涯の神秘を、その神秘の実りとともに宣言し、それらを黙想し、見つめ、浸ることができます。また、十字架の道行きも良い方法です。このように、真理を知るためにその神秘を日々黙想し、味わうことによって、私たちの信仰生活を前進させるための第一歩を踏み出すことができます。

【2:霊的な第二の段階】

霊的な第二の段階は「スタバト・マーテル」の次のスタンザで語られています。それは、愛徳です。私たちは、真理について知るためにカテキズムを学び、時には暗唱さえしますが、単に知性と真理の黙想にとどまらず、私たちの心を燃え上がらせ、ある意味で私たちの希望を表現させようとする段階です。そこで、スタバト・マーテルは、神秘のさらなる奥へと私たちを導こうとします。

「マリア様の苦しむ御姿を見て、いったい誰が、何も感じずにただ見ていることができるだろうか。どうして泣かずにいられるだろうか?」

私たちは、罪の中に生きる罪人ですが、私たちの罪のために苦しまれるマリア様を見て、もはや、心の頑なな冷たい傍観者ではいられないと思うのです。マリア様と同じ感情を、その悲しみを共にさせて頂きたいと願います。そうして、神秘の中にもっと深く入りたいと望み、愛徳をもって感じたいと欲します。つまり、私たち自身が信仰の神秘に深く触れることで、自らの霊魂が動かされるという段階です。

この段階で、信仰生活を私たちの日常生活へどのように適応させることができるかを考えてみましょう。私たちは、ミサに与り、ロザリオなど祈りを捧げますが、その際、これらの神秘の中にどれほど深く入ろうとしているでしょうか?

絵画を鑑賞するときに似て、たとえ私たちの目には見えなくても、私たちが向き合おうとする神秘の中に、確かに存在している存在になって思い見る方法があります。スタバト・マーテルの一連の場面は、私たちにそれを示唆しています。そのようにして、私たちは至聖なる御方の心に入り込みます。マリア様は、愛する御子が最期の息を引き取るのを孤独の中で見守りました。マリア様のように苦しむこともなく、いったいどうやって、キリストの悲しみに暮れる御母と、苦しまれる御子について理解できるでしょうか?

聖三位一体は、私たちから遠く離れた、私たちの外にある神秘ではありません。イエズス様の御托身、御受難と御死去、そして、主の十字架の足元に立つマリア様の御姿も「すべては2000年前に起きた出来事で、もはや私たちに関係のない神秘」ではなく、本来、私たちに直接関係のあるものなのです。私たちの信仰生活は、主との霊的な一致の生活でなければなりません。

イエズス様とマリア様とに結びつくためには、触れられることを自分自身に許さなければなりません。もし、私たちの霊魂が罪によって冷たく閉ざされているなら、聖霊は私たちに触れることができず、その恵みを受け取ることもできません。しかし、私たちの心が開かれるなら、聖霊は私たちの霊魂に触れて揺り動かしてくださり、そして開き続かせて、神秘がその奥深くにまで浸透していくことを助けてくださるでしょう。

今日、皆さんは「マリア様の素晴らしい祝日だ!ミサに与りたい」と子供のような心で集い、喜んでミサ典書をめくり「天の御母をより深く知るための聖句を見つけたい」と思いながら、ミサに与っておられるかもしれません。

私たちは、いったいどれほどこの神秘の中に入り、触れているでしょうか?

悲しみの聖母の祝日を祝うことに、真の喜びを感じているでしょうか?

私たちは、マリア様の真の子供として、どれほどマリア様の御心に触れ、その神秘を感じ取れているでしょうか?

私たちは、十字架の足元にマリア様の御姿を見ているでしょうか? そして、その御姿をどれほど心に留めることができているでしょうか?

私たちは、本当にマリア様と同じ心を持つことができているでしょうか?

マリア様の御悲しみを見て、私たちも共に悲しむこと。

これが、第二段階における一部です。ここに、私たちの現在の心の状態と、霊的生活における現在の位置とが少し見えてきます。

【霊的な第三の段階】

霊的な第三段階は、私たちの霊的生活全体を包み込み、私たちを霊的生活の英雄にする段階です。霊魂がこの段階に到達すると、マリア様と同じ心を持ち、マリア様に同情するだけでは物足りなくなり、もっとマリア様をお慰めしたいと思うようになります。それは最後の第三部にありますが、その核心は次の一節にまとめられていると霊的著者は言います。

「ああ聖母よ、十字架にくぎ付けにせられ給える御子の傷を、わが心に深く印し給え。」

つまり、マリア様に「私たちの心に主の御傷を深く刻み込み、私たちもまた、イエズス様やマリア様と共に苦しませてください」とお願いしているのです。これが、霊的生活の第三段階です。私たちは、ただマリア様の御苦しみに同情し、共に悲しむだけではなく、今度はイエズス様やマリア様と十字架上で共にいたいと望みます。イエズス様の十字架が心に刻まれ、十字架を生きたいと願うようになります。苦しみを愛し、イエズス様と共に苦しみたいと欲するのです。それは、苦しみが心地よさをもたらすからといった理由ではありません。苦しみは私たちをイエズス・キリストに一致させ、私たちの霊魂を贖います。真の愛の生活だからこそ、そのすべての苦しみをイエズス様と共に味わいたいと願うのです。

霊魂の奥底から迸る熱い望みを、続誦は力強い言葉で私たちに聞かせます。

「わがためにかく傷つけられ、苦しみ給いたる御子の苦痛を、われに分かち給え。

命のあらん限り、御身と共に熱き涙を流し、はりつけられ給いしイエズスと苦しみを共にするを得しめ給え。

われ十字架のかたわらに御身と立ちて、相ともになげかんことを望む。

童貞のうちいともすぐれたる童貞、願わくは、われをしりぞけ給わずして、共に歎くを得しめ給え。

われにキリストの死を追わしめそのご苦難を共にせしめ、その御傷を深くしのばしめ給え。

御子の御傷をもってわれを傷つけ、その十字架と御血をもって、われを酔わしめ給え。」

階段のように考えてみてください。第一には真理を見て黙想する信仰、第二に愛に触れられること、第三に燃え上がる願いです。この詩を書いた著者は、マリア様とイエズス様への愛に燃えて、一緒に苦しみたいと、それだけしか思っていなかったかのようです。しかしながら、イエズス様は私たちをも同様に招いておられます。

「私の弟子になりたい者は誰でも自分を捨て、自分の十字架を負い、私に従え。」

ですから、私もまたイエズス様の招きに応えて、イエズス様と共に行きたいと思うのです。しかし、たとえこの言葉を聞いたことがあったとしても、私たちは「十字架を負いたくない」とよく思ってしまいます。もし苦しみを辛く思うなら、私たちは迷うことなくマリア様のもとに走り寄り、このように申し上げましょう。

「マリア様、私は自分の十字架でさえも満足に負うことができません。それは、重くて重くて、辛くて辛くて、思うように担うことができずに拒絶してしまいます。ですから、私の代わりに、御子の傷を私の心に刻んでください。」

「マリア様が私の心に主の傷を刻みつけてくださるならば、私はイエズス様と同じ苦しみを、簡単に、共に苦しむことができるようになります」と、信頼をもって祈るのです。御母であるマリア様が、私たち子供の心にそうしてくださるとき、それは甘く、痛みは癒され、軽くなることでしょう。

また、聖パウロは、イエズス様と一致するためこのように言いました。

「私が知りたいことはただ一つ、それはイエズス・キリスト、つまり十字架につけられたイエズス・キリストを知ることだけだ。」

ここで聖パウロが言っているのは、単なる知識ではなく、実際の行動に移される知識のことです。聖パウロは「私もイエズスと共に十字架に磔(はりつけ)にされたい」と願っていました。そして、聖ペトロも同じことを願いました。「私は主と同じように十字架に磔にされるには値しないけれども、十字架に逆さにつけられたい」と。また、聖アンドレアは十字架を見て「ああ、我が唯一の希望、祝福された十字架よ、私が今まで望んできたものだ」と挨拶しました。このように、主と共に十字架に磔にされることこそが、聖パウロや聖ペトロを始め、使徒たちの栄光でした。

私たちの人生において、いったいどれほどまでに主の十字架を愛し、切望しているでしょうか? これはとても難しいことですが、十字架を熱望するか否かによって、私たちの主に対する愛徳の程度や霊的生活の度合いが計られます。

まず、私たちは十字架の真の意味を理解できているでしょうか? 私たちはミサに与るとき、ただ単に「ああ、イエズス様の十字架が、犠牲が捧げられている」と冷たい目で傍観し、知識だけにとどまって終わってはいないでしょうか? ミサ聖祭に与ることは、非常に偉大で美しく、私たちの霊魂に直接触れることです。ミサ聖祭は、私たちをイエズス・キリストのお恵みに参与させ、私たちを必ず天国へと至らせます。その私たちの霊魂の救いのために祭壇で捧げられるイエズス様の聖なる犠牲に感動しているでしょうか? 祭壇で行われるいけにえに、私たち自身を合わせてお捧げできているでしょうか?

霊的生活の第三段階は「イエズス様と共に、私自身をいけにえ(犠牲)としてお捧げできるかどうか」です。つまり、私たちが自分自身を十字架につけるのです。

私たちは「わが天主よ、私はあなたのように、あなたと共に犠牲となって霊魂たちを救いたい」と申し上げることができるでしょうか? 自分自身の霊魂の救いはもちろんですが、それだけではなく、他の霊魂たちの救いをも望むのです。私たちの人生は、常に非常に個人的で、個々の側面があります。しかし、もしこの段階にまで到達できるなら、私たちは、イエズス様がなさったように自分の利益には目もくれず、他の霊魂たちの利益に目を向けることができるようになります。

【4:遷善の決心】

では、最後に遷善の決心を立てましょう。

「スタバト・マーテル」を通して、私たちは美しい教訓を学ぶことができます。ぜひ、ミサのテキストをお読みになってください。天の御母、聖母マリア様の大祝日、悲しみの共同受難のマリア様の共贖者の祝日です。

私たちは、マリア様からあらゆるお恵みを頂くことができます。私たちは本当に足りない者、愚かで弱く、意気地の無い者ではありますけれども、マリア様が、母性愛に満ちた心で私たちを愛し、すべてを与えようとしてくださるので、私たちはマリア様からすべてを期待し、望むことができます。

そして、私たちがマリア様に願うべき最大のお恵みは、これです。「キリストの御傷を私たちの心に刻み込んでください」とお願いすることです。これは難しく、苦痛を伴うことですけれども、私たちがそうすることができるように、まずは、聖なる十字架のいけにえの神秘によって、私たちの心が愛によって燃え上がるようにマリア様に願うことから始めてみましょう。

聖ヨハネが「すべての国と、民族と民と、ことばとの、数えきれない、おびただしい大群衆があらわれるのを見た。かれらは白い服をつけ、手に棕櫚の枝をもち、玉座のみ前と小羊のみ前とに立ち、大声に叫んで、≪救いは、玉座に座られる私たちの天主と小羊とのものである≫といった」と天国の幻について黙示録の中で述べているように、私たちもいつの日か屠られた子羊を見るでしょう。その屠られた子羊とは、私たちを天国に到達できるようにしてくださる御方、私たちの主イエズス・キリストであり、私たちの天国の最も美しいヴィジョンの一つです。もし、私たちがミサで十字架上の主との交わりを持ち、聖体拝領を通して主をお受けし、主と苦しみを共にするなら、必ず天国への旅路を助けてくださいます。

十字架上で苦しむイエズス・キリストの御姿に、そして、祭壇上で自らを屠り、捧げ続けるその御姿に、犠牲とは何かを私たちは教えられます。ですから、私たちがただイエズス様をお受けして満足するのではなく、同時に私たちをもいけにえとしてイエズス様に捧げ、十字架につけられたイエズス様と自分自身を一つにする聖体拝領ができるように、心からお捧げする真に良い聖体拝領を授けてくださるように、マリア様に強くお願いしましょう。

聖体拝領において、マリア様に十字架を求めることは、今は難しいかもしれませんが、少なくとも、私たちに日々与えられる十字架を、送られる苦しみを受け入れることができるよう、御助けを願いましょう。

主と結びつくことによって、私たちが少しでもマリア様のように共同の贖いに参与し、私たちの苦しみを主の苦しみと結び合わせることができるようにお祈りいたしましょう。そうすることによって、私たちはイエズス様やマリア様と苦しみを分かち合うことができます。まさに、これこそがスタバト・マーテルの核心です。

マリア様の御助けによって、これらの苦しみの実りを、すなわち、自分の霊魂と多くの霊魂たちの贖いを享受することができますように。

私たちが天国に行き、最後の勝利を得るのは、もちろん天主の恵みによるものですが、愛すべきマリア様の御取り次ぎによってこそ、私たちは聖三位一体の天主にお会いすることができるのですから。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。