聖職権と裁治権 岐路に立つバチカン

ソース: FSSPX Japan

以下は、聖ピオ十世会のジャン=ミシェル・グレーズ神父による記事です。

「元司教省長官マルク・ウエレット枢機卿は、ローマ教皇庁内の権威ある地位に平信徒を任命することを検討していますが、これが再考すべき譲歩なのか、それとも教会論的な前進なのか疑問を抱いています」[1]。

7月1日にエコンで司教聖別を予定していると発表されたことによって生まれた状況において、この省察は確かに必要なものであり、また間違いなく厄介なものとなります。解決すべき困難な問題とは何でしょうか。ウエレット枢機卿に発言を委ねましょう。枢機卿に対して、完全な明晰さという功績があることを認めなければなりません。

「教皇フランシスコの大胆な決断の一つは、ローマ教皇庁の各省において、通常は叙階された役務者、つまり司教か枢機卿のために留保されている権威ある地位に、平信徒や修道女を任命したことでした。教皇はこの革新を、信者に教会の交わりと使命へより大いなる参加を求めるというシノドスの原則によって正当化しました。しかしながら、この取り組みは、権威ある地位を叙階された役務者に委ねるという先祖伝来の慣習に反するものです」。

実際、ここから困難な問題が始まります。この「先祖伝来の慣習」は、どこから来たものなのでしょうか。正確に言うと、それは「先祖伝来の」ものではあるものの単なる「慣習」つまり天主に由来する教会の基本構造と必ずしも結びつかない、一つの行動様式にすぎないのです。

なぜなら、裁治権は、それ自体において、聖職権の権能とは異なるものであり、聖職権とは本質的に区別されるものだからです。その区別は、形相的な定義において、すなわちその対象の違いを理由に行われ、同時にその起源において、すなわち特定の主体において存在させる原因を理由に行われます。

聖職権の権能、すなわち秘跡を執行する権能は、聖別の儀式を通して得られるものである[2]一方で、裁治権、すなわち統治する権能は「教会法上の使命 « missio canonica »」として知られる教皇の意志による行為によって得られるものです。古来の慣習によれば、原則として、同一人物が両方の権能を受けます。つまり、統治する権能は通常、叙階された役務者のものとされ、叙階された役務者には統治する権能(司教の場合は通常の権能、他の役務者の場合は委任された権能)が与えられます。

この論理に従えば、そうです、確かにそれ【ローマ教皇庁内の権威ある地位に平信徒を任命すること】は可能です。なぜなら、聖なる天主の教会内において、叙階されたのではない個人に、すなわち普通の聖職者、女性を含む通常の信徒に対して、統治する権利を委ねることは、天主に由来する教会の基本構造に完全に反するわけではないからです(それが適切かどうかは全く別の問題です)。

しかし、もちろん、このことは前述のように、この裁治権が司教聖別、ましてや司祭叙階に由来するものではないことを前提としています。そしてこのことは必然的にこの前提を次のように拡張させます。「もし司教聖別の儀式が聖職権と裁治権の両方の権能を授与すると仮定するならば、教会における権威ある地位を叙階された役務者以外の者に委ねることは、天主の法に反するため、絶対に不可能になる」。

このため、ウエレット枢機卿は、同僚のギルランダ枢機卿と同様、厄介な状態に陥り、故フランシスコ教皇含む公会議後の教会内の全面的なシノドスの方向づけに巻き込まれています。この苛烈な二律背反の苦悩は、さらに激しい苦悩になろうとしています。

なぜなら、総長パリャラーニ神父を通して司教聖別を行う意向を発表したばかりの聖ピオ十世会が、まさに前述の本質的かつ根本的な区別に依拠して、この行為を正当化・合法化しようとしているからです。

つまり、教会の基本構造という天主の権利に完全に従って、聖別の儀式によって司教職の権能を与えると同時に裁治権の授与の主張――この主張は濫用的で離教的なものになってしまう――をいかなるやり方でもしないことは常に可能なのです。何故なら、裁治権の授与は、教皇の、そして教皇のみの意志に基づく行為にほかならないからです。

聖ピオ十世会が従う論理は、教会の聖伝全体の論理であり、現在では軽蔑的に「公会議前」とレッテルを貼られているものです。この論理は、第二バチカン公会議の新しい教会論に正式に反するものであり、この新しい教会論は「教会憲章」21番において、裁治権は司教聖別という行為そのものによって授与され、教皇の介入はその行使を調整するものに過ぎないとされています。したがって、この公会議の新しい教会論と一貫性を維持し、それに従順であり続けたいのであれば「ローマ教皇庁の各省において、通常は叙階された役務者、つまり司教か枢機卿のために留保されている権威ある地位に、信徒や修道者を任命すること」は不可能になります。

教皇フランシスコの後継者たち、そして教皇と共に公会議の後継者たちは、避けることのできない矛盾に陥るのです。すなわち、「教会憲章」の根底にある論理が要求するように、シノドス主義を論理的結論まで追求するのですが、しかし、そうするためには聖ピオ十世会が聖別を正当化するために援用した「公会議前」の論理に頼らざるを得なくなるのか、それとも、第二バチカン公会議前のこの論理から距離を置いて、新たな教会論に忠実で従順であり続けるために、聖ピオ十世会内で計画されている聖別を離教的なものと断定する根拠を得るのか、です。しかし、これはまた、シノドス主義の受け入れという第二バチカン公会議の論理の最終的結論を完全に受け入れることを妨げることにもなるのです。

ウエレット枢機卿は、「聖霊の働きへの新たな注意」を喚起することで、この窮地から脱出できると考えていますが、それでは誰も納得しないでしょう。「これらは些細な問題ではない」と、保守派とされるウェブサイト「インフォヴァチカーナ」(Infovaticana)は指摘し、見出しを(おそらく悪意を持って?)「ギルランダ、ウエレット両枢機卿、聖ピオ十世会のように考える」[3]としています。

「聖ピオ十世会は、教会憲章21番に関して、ギルランダ、ウエレット両枢機卿と同じ公会議前の立場を擁護している。もちろん、目的は異なる。枢機卿たちは教会にジェンダー平等を押し付けたいと考えている。聖ピオ十世会は、計画している司教聖別を正当化したいと考えている。しかし、両者が同意しているのは、次の点である。すなわち、裁治権は法的な手段を通して教皇によって移譲され、聖なる叙階の秘跡を必要としない(2026年2月18日付書簡の付録IIを参照)」。

聖ピオ十世会は、ウエレット枢機卿のような空想的なカリスマに基づいているのではなく、実際に神学者たちや教皇たちによって擁護された、公会議前の考え方に基づいています。叙階の秘跡は司祭叙階によって授与され、そのあと、司教は教皇から裁治権を受け、そのことが司教を教区司教へと変えるのです。以前はそのように考えられていました。同じウェブサイトは、この第二バチカン公会議前の規律を信用できないものとしようとしていますが、この規律は教理的伝統のある教導権に正当に根ざしているものです。ピオ十二世は1943年の回勅「ミスティチ・コルポリス」(Mystici Corporis)の中で、司教は「教皇から直接」裁治権を受けると思い起させてくれます。この点において、また「インフォヴァチカーナ」のウェブサイトの主張とは反対に、司教は決して「教皇の代理、いわば支部長へ」と変わるわけではありません。そう思うのは、教皇がキリストの代理にほかならないがゆえに、教皇の権能は本質的にキリスト自身のものだという事実を見落としています。

したがって、司教たちは、教皇の権能とキリストの権能――これは同一の権能である――の両方に等しくあずかるという形で、裁治権を得るのです。この意味で、司教たちもまた、異なる形ではあるものの「キリストの代理」ではないでしょうか。

しかし、ローマ司教を含むすべての司教が、聖別を通して裁治権を得るのであれば、司教たちがローマ司教とは異なる形で「キリストの代理」であり得るとは考えるのは困難です。司教たちは皆、同じ司教団の一員として教皇たちとなるのでしょうか。しかし、司教団を教会における至高の権力の真の主体とするようなところまで拡大するような考え方は、シノダリティや、平信徒を教会内の権威ある地位に昇進させることに対する深刻な障害物となります。これを正当化する唯一の方法は、聖ピオ十世会が擁護する教会論的立場を採用することになるでしょう。

前述のウェブサイトは、こう指摘しています。

「新たなバチカンの超教皇主義者たちは、聖ピオ十世会に倣い、叙階の秘跡を脇に置いて、教皇による任命こそが『聖なる権力』(potestas sacra)を行使する唯一の決定的要因であると主張している。教皇フランシスコが実践したのはこれだ。周知の通り、彼は「進歩的」とみなされていた。しかし、この点において、前述の枢機卿たちと同様に、彼が公会議前の反動主義者であったことが明らかになる。教皇フランシスコが同時に、参加型形式を連想させる『シノドス主義』を説いていたことを考えると、このすべてはさらに異様なものになる。シノドスは、すべての裁治権が教皇の『超権力』(superpotestas)に由来するという主張とは実質的に正反対である。このプロセスは、第二バチカン公会議以来やむことのない教会法への攻撃――『法の教会ではなくそれに代わる愛の教会』――を考慮すると、さらに一層異様なものになる。叙階の秘跡が教会を統治するのに必要ではないアクセサリーとなる時、それは教会の全面的司法化を意味する」。

私たちはこの主張を参考として記録しておきます。

私たちによれば次の結論は避けるのが困難なように思われます。

「レオ十四世は今、決定的な教義上の問題に関して、第二バチカン公会議が依然として有効であるか否かを決定しなければならない。そして、それに応じて行動しなければならない。もし彼が第二バチカン公会議から一歩後退すれば【つまり第二バチカン公会議の理論を否定してもシノドス主義を推し進めるために平信徒に裁治権を与えならば】――残念ながらそうするつもりのように思われるが――【第二バチカン公会議は】石の上に一つの石さえ残さないだろう。なぜなら、彼自身が第二バチカン公会議に従わないのであれば、――聖ピオ十世会やその他の多くに対抗して――第二バチカン公会議に従うよう、どのようにして説得力を持って要求できるだろうか」。

「分かれ争う国は滅びる」[4]。第二バチカン公会議の新しい教会論は、自らを破滅させる種子を内包しています。一方、聖ピオ十世会の方は、伝統的な教会論に忠実であることに、霊魂の救いに不可欠な教会の存続を確実にする手段を見いだしているのです。

1.https://www.vaticannews.va/fr/vatican/news/2026–02/cardinal-ouellet-laics-curie-romaine-eveques-synode.html

2.この儀式は、確実に助祭職と司祭職のための秘跡の儀式である。しかし、司教職のための秘跡でもあるかどうかという問題は、神学的に未解決のままである。

3. https://infovaticana.com/fr/2026/02/23/les-cardinaux-ghirlanda-et-ouellet-pensent-comme-la-fraternite-saint-pie‑x/

4.マテオ12章25節