第二バチカン公会議と教会の聖伝の「断絶のポイント」について――概要
パオロ・パスクァルッチ氏の第二バチカン公会議の分析:聖伝との断絶を示す26のポイント
現在の教会の危機を理解しようと試みるとき、そのきっかけとなったイベントを振り返らなければならないのは必然的なことになっています。この点に関して、次の問題ほど議論されているテーマはおそらくないでしょう。
それは、第二バチカン公会議が、不適切な実施と解釈によって、つまり、定義が曖昧で、しばしば無謀な、いわゆる「第二バチカン公会議の精神」によって、不当に損なわれたのか、それとも、公会議自体に問題があり、それゆえに公会議が、私たちが置かれている教会の現在の状況を形成するものだったのか、という問題です。
しかし、論争の余地がないのは、この公会議が何らかの形で、現代のカトリシズムが典礼や秘跡、教理といった永続する教会の長く続いている聖伝から脱線する上で、極めて重要な役割を果たしたということです。
本日は、カトリック哲学者であり、イタリア・ペルージャ大学法学部の名誉哲学教授であるパオロ・パスクァルッチ(Paolo Pasqualucci)氏の分析をご紹介します。パスクァルッチ氏は、著書「Unam Sanctam - A Study on Doctrinal Deviations in the Catholic Church of the 21st Century」(ウナム・サンクタム―21世紀のカトリック教会の教理的逸脱に関する研究)の序文を以下のように編集して、第二バチカン公会議文書のテキスト自体にある、教会の聖伝との断絶を示す26の明確なポイントを特定しています。
私たちがこれを読者の皆さんにご紹介するのは、第二バチカン公会議に関する最終的な結論としてではなく、必要とされる話し合いの導入部としてです。この会話は、どのようにして、また、なぜ、現在の状況に至ったのか、そして、戻る道を見つけるためには何を修正する必要があるのか、をいま評価せざるを得なくなっている多くのカトリック信者にとって、最終的には一つの考察となるものです。
パオロ・パスクァルッチ著「第二バチカン公会議と教会の聖伝の『断絶のポイント』」―概要
パオロ・パスクァルッチ著「ウナム・サンクタム―21世紀のカトリック教会の教理的逸脱に関する研究」、2013年、437ページ、10-18ページ。
[P. Pasqualucci, “UNAM SANCTAM. Studio sulle deviazioni dottrinali nella Chiesa Cattolica del XXI secolo”]
もっと多く挙げることができるのを承知の上で、私が取り上げたのは、26の「断絶のポイント」です。最初の12のポイントは、モンシニョール・ブルネロ・ゲラルディーニの著作「Concilio Ecumenico Vaticano II. Un discorso da fare」(2009年)と「Quod et tradidi vobis - La tradizione vita e giovinezza della Chiesa」(2010年)からの引用です。
それらはまた、ロマーノ・アメリオの基本的なテキスト「IOTA UNUM. Studio delle variazioni della Chiesa cattolica nel secolo XX(イオタ・ウヌム 二十世紀のカトリック教会の多様性の研究)」(1985年)にもあり、マルセル・ルフェーブル大司教の著作「J'acuse le Concile!」(私は公会議を告発する!)(1976年)も忘れてはならないのは明らかです。
【日本語訳注】公会議の公文書の引用箇所は、なるべく日本語公式訳「第2バチカン公会議 公文書全集」から取った。
1.現代世界における教会に関する司牧憲章「現代世界憲章」(ガウディウム・エト・スペス Gaudium et Spes)に属する実際の意味は、教会の聖伝に適合していないように見える。その全体に、いわゆる「新しい啓蒙思想」の精神が浸透しているように思われる。
2.現代世界憲章22条2項は、天主の御子は托身(受肉)によって「ある意味で自分自身をすべての人間に一致させた」と断言しているが、これは、托身(受肉)を私たち一人一人にまで拡張し、そうすることで人間を神格化しているように思える異常な断言である。
3.同じキリストへの信仰が、カトリック教会から「分かれた」人々を含むすべてのキリスト信者に属することは、カトリックの信仰を離教者や異端者の信仰と不当にも同一視するものである。特に、エキュメニズムに関する教令「ウニターティス・レディンテグラティオ」(Unitatis Redintegratio)は、「分かれた諸教会と諸教団」を、その「欠陥」にもかかわらず、真にして固有の「救いの手段」とみなし、その効力が「教会にゆだねられた恩恵と真理の充満に由来する」(エキュメニズムに関する教令3条4項)としている。
4.現代世界憲章24条3項は、「人間は神が[人間自体のために]望んだ地上における唯一の被造物である」と断言しているが、これは、人間を創造するように導いた目的が、天主の栄光をたたえること、および万物の究極の目的としての天主をたたえること以外のものが、あり得たかのようである。
5.教会に関する教義憲章「教会憲章」(ルーメン・ジェンティウム Lumen Gentium)の回りくどい第1条に含まれる教会の概念は、(聖伝とは異なるものとして)際立っており、「神との密接な交わりと全人類一致のしるし(sacramentum seu signum)であり道具」として提示されているが、教会の超自然的な目的、すなわち教会の存在を正当化する唯一のものである霊魂の救い、についての言及は一切ない。
6.教会憲章8条2項で与えられ、後に同憲章15条、エキュメニズムに関する教令3条、同教令15条1項で具体的に述べられた教会の定義は、キリストの教会がカトリック教会のうちに「存在するsubsistit」ことを断言し、さらに「この[目に見える]組織の外にも聖化と真理の要素が数多く見いだされるが、これらは本来キリストの教会に属するたまものであり、カトリック的一致へと促すものである」と断言している。これは全く新しい定義であり、キリストの教会の概念を拡張して、あらゆる異端者や離教者をも含んでいる。そのため【教会憲章の表現は】形相的な意味【=本当の意味】で異端の非難を受けるに値すると考えられる。なぜなら、これは、救いのためにある使徒継承のローマ・カトリック教会(唯一の真のキリストの教会)の一性という教義の否定を暗示しているからである。
7.天主の啓示に関する教義憲章「啓示憲章」(デイ・ヴェルブム Dei Verbum)の11条2項は、「聖書は、神がわれわれの救いのために聖なる書に記録されることを望んだ真理を固く、忠実に、誤りなく教えるものと言わなければならない」と断言している。従って、聖書の絶対的無謬性の教義の否定を暗示していると解釈することが可能である。何故なら、この「誤りなく」という表現は実際、「われわれの救いのために」(nostrae salutis causa)啓示された「真理」のみ、つまり宗教的かつ道徳的な掟のみについて言及していると解釈することが可能だからである。
8.同じ啓示憲章「デイ・ヴェルブム」は、聖伝と聖書の間の通常の区別をなくしているように思われる(啓示憲章9-10条)。
9.聖伝の概念は明確に定義されておらず、聖伝の聖書との関係も明らかにされておらず(啓示憲章9条)、「東方教会」との関係も明らかにされていない(東方カトリック諸教会に関する教令 Decree Orientalium Ecclesiarum 1条)。さらに、「この生きている聖伝」(the presence of this living tradition)「この聖伝の活力的な現存」(huius Traditionis vivificam testificantur praesentiam)(啓示憲章8条)という概念が出てくるが、これは漠然として曖昧である。なぜなら、モンシニョール・ゲラルディーニが強調するように、「これは、あらゆる種類の新奇なものを --- たとえそれが教会の生活の表現として最も矛盾したものであっても --- 教会に導入することにつながる」からである。
10.教会憲章22条における司教団体主義という新しい定義は、教会の聖伝と両立するようには思われず、ローマ教皇の首位権についての正しい理解を損なうものである。実際、教会全体への最高の裁治権の二つの主体(教皇単独と、教皇とともにある司教団)と、同じ裁治権の二つの異なる行使(教皇単独と、教皇の認可を得た司教団単独)という、かつてなかったことを確立している。
「使徒団を継承する司教団は、(中略)普遍教会のうえに最高かつ完全な権能を持つ主体でもある。ただし、この権能は、ローマ教皇が同意するときだけしか行使できない。」
Ordo autem Episcoporum, qui collegio Apostolorum in magisterio et regimine pastorali succedit, immo in quo corpus apostolicum continuo perseverat, una cum Capite suo Romano Pontifice, et numquam sine hoc Capite, subiectum quoque supremae ac plenae potestatis in universam Ecclesiam exsistit, quae quidem potestas nonnisi consentiente Romano Pontifice exerceri potest.
11.信教の自由に関する教令【宣言】「ディニターティス・フマネ」(Dignitatis Humanae)では、「信教の自由」という概念が肯定されているが、【信教の自由という】同じものの世俗的な概念 -- これは理神論や啓蒙主義を源流とする「寛容」の思想の実りである -- と自らを区別しているようには思われない。このような概念は、教会の教理に適合していないように思われる。またこれは宗教的無関心主義や不可知論の先駆けとなっている。
12.第二バチカン公会議の文書の「神学的注釈」(nota theologica)の問題(について)、モンシニョール・ゲラルディーニ(確実に彼だけではない)は、この公会議を教義的公会議とみなしていない。なぜなら、教義を定義することも、誤謬を断罪することもなからである。特に「教義的」と名づけられた二つの憲章においてさえも、そうしなかったのであり、また、この公会議は、自らが教義的ではなく、逆に司牧的であることを明示的に宣言しているからである(教会憲章の付属文書での注釈「公会議の慣習を考慮し、また本公会議の司牧的目的を考慮して、聖なる公会議は、信仰と道徳の問題におけるこれらのことについて、公然と宣言するもののみを教会に拘束すると定義する」を参照)。しかし実際には、「信仰と道徳の問題」に関するどの公会議文書にも、教義的な定義はない。
しかしながら、公会議の弁護者たちは、公会議が新しいタイプの「不可謬性」を醸し出しており、それは同じ司牧的性質の文書の中に何らかの形で暗示されている、と主張している。しかし、これは不可能なことである。なぜなら、特別教導権の宣告の教義的性格は、確実で、理解しやすく、伝統的なしるしに由来するものでなければならず、「暗示的」ではあり得ないからである。
13.典礼に関しては、聖なる典礼に関する憲章「サクロサンクトゥム・コンチリウム」(典礼憲章 Sacrosanctum Concilium)(同憲章47条、48条、106条)の中で、聖なるミサがどのように定義されているかによって、注目すべき当惑が生じている。そこでは「キリストが食される復活の祝宴(convivium paschale, in quo Christus sumitur)」という概念や、(私たちの罪のために天主の前であわれみ(propitiatio)を取り成しする)なだめの(propitiatory)いけにえの代わりに、「記念」(memoriale)を好んでいるように見える。
106条は、「過ぎ越しの神秘 Mysterium paschale」(聖なるミサの、新しく分かりにくい変わった呼び名)をこのように説明している。それは、週の最初の日であり、主日とよばれ、この日、「キリスト信者は、一つに集まらなければならない。そして天主のことばを聞き、聖体祭儀に参加して、主イエズスの受難と復活と栄光を記念し、『イエズス・キリストが、死者のうちから復活したことによって、生きる希望へと再生された』(ペトロ前書1章3節)天主に感謝をささげるのである。」
Hac enim die christifideles in unum convenire debent ut, verbum Dei audientes et Eucharistiam participantes, memores sint Passionis, Resurrectionis et gloriae Domini Iesu, et gratias agant Deo qui eos "regeneravit in spem vivam per Resurrectionem Iesu Christi ex mortuis" (1Pt 1,3). (同憲章106条)
この言い方は、プロテスタントの言い方のように、聖なるミサを、本質的に復活の記念および復活の「賛美のいけにえ」として提示しているように見える。さらに、典礼憲章の聖なるミサの定義は、全実体変化の教義や、なだめのいけにえとしての聖なるミサの性質については一切触れていない。これは、1794年にピオ六世がジャンセニストの異端を暴いて、彼らの聖なるミサの定義が、まさに全実体変化について沈黙していることから、「悪質であり、全実体変化の教義に関するカトリックの真理の説明に不忠実であり、この異端者らに賛同するものである」と宣言して、荘厳に断罪した特定の誤謬に該当しないだろうか(デンツィンガー・シェーンメッツァー1529、2629参照)。
14.典礼に創造性の原則(varietas et aptatio)を導入するという前代未聞の新奇なものは、またもや典礼憲章37-40条にあるように、理論的には聖座の支配下にあるが、しばしば純粋に「理論的」なものである。この原則は、絶対的に避けるべき最も悲惨なものとして、何世紀にもわたって全教導権によって例外なく常に反対されてきており、多くの人はこの原則が現在の典礼の混沌の真の原因であると考えている。
15.創造性の原則は、司教協議会に対して与えられた典礼の問題に関する広範で全く新しい権限によって裏付けられており、これには新しい礼拝形式を試す権限も含まれている(典礼憲章22条2項、39条、40条)。これは教導権の不変の教えに反している。教導権は常に典礼の問題におけるすべての権限を教皇に -- 典礼に革新を導入しないための最大の保証として -- 留保してきたからである。
16.創造性の原則と調和するように、「典礼憲章」は典礼様式を世俗文化に適応させるという原則を導入した。すなわち、さまざまな民族の特徴と伝統、彼らの言語、音楽、芸術を、創造性と典礼の実験(典礼憲章37、38、39、40、90、119条)という手段により、さらにまた、より短くより明確にすることが望まれる典礼様式自体の簡素化(同憲章21、34、65-70、77、79、90条)によって、適応させるのである。ここでもまた、教導権の常なる教え -- それによればさまざまな民族の文化が、カトリックの典礼様式の要求に適合されるべきであり、実験にも、どのようなものであれ現代人の虚栄や高慢な考え方には何ももいささかも譲らない -- にも反している。
実際、聖なるミサの典礼様式は、今日、大陸ごとに、そうでなければ国ごとに、異なる典礼に断片化されており、司式司祭の裁量により、場所ごとに無限の数の変異型が存在している。変異型(および劣化型)は異教的な要素を典礼様式に取り込むことを排除せず、他方で、時折なされる聖座当局による修正の介入は、耳を傾けてはもらえないでいる。
17.カトリックの礼拝の断片化と野蛮化は、常に典礼様式統一の手段であった古代の普遍的な言語であるラテン語を放棄した結果でもある。この歴史的な変化は、パウロ六世によって認可された。さて、「典礼憲章」は次のように定めている。
「ラテン語の使用は、特別法を除き、ラテン典礼様式において遵守される。」 Linguae latinae usus, salvo particulari iure, in Ritibus latinis servetur.(典礼憲章36条1項)
しかし、公会議自身が決定した規範と事例に従って、「より広範囲にわたって国語を使用することも可能である」ことも同意している(同憲章36条2項)。
公会議が定めた一般的な性格の規範は、司教協議会に、礼拝への国語の導入に関する「完全な権限」を与えている(同憲章22条2項、40条、54条)。また、公会議が国語の部分的または全体的な使用の可能性を認めた事例は数多くある。同憲章63条「秘跡と準秘跡の授与、特殊儀式書」、同憲章65条「宣教地での洗礼の儀式」、同憲章76条「司祭の叙階」、同憲章77-78条「婚姻の儀式」、同憲章101条「聖務日課の祈り」、同憲章113条「聖なるミサの盛儀典礼」。ラテン語の使用がまだ規範であるはずだったが、国語に数多くの箇所を開放しなかっただろうか?
18.モンシニョール・ゲラルディーニが何度も書いているように、司祭職の劣化がある。これは司祭職を公会議が「神の民の職務」として理解していることによる【劣化である】。司祭を「天主の司祭」から「神の民の司祭」に降格(demotion)させ、司祭職の正当性は、あたかも【天主ではなく】神の民、すなわち信者に依存しているかのように考えられている。このような降格は、聖書の根拠のない解釈、すなわち、私たちの主は始めに「信者の中のある人々を役務者に制定した」"Idem vero Dominus, inter fideles ... quosdam instituit ministros" に基づいている。(公会議の司祭の役務と生活に関する教令 Presbyterorum Ordinis 2条2項)。
その反対に、福音書によれば、私たちの主は、一般的に「信者の中のある人々」から人を選んで教会の建設を始められたのではない。主は、ご自身が司祭として選び準備した人々、すなわち、使徒たちと協力して教会を建設されたのである。
19.職位的または位階的司祭職と「信者の共通司祭職」(教会憲章10条2項)との間の前例のない平等化。第二バチカン公会議によれば、これらの司祭職は「相互に秩序づけられている」(ad invicem ordinantur)と考えられ、したがって同じレベルに置かれている。
教会の独身性の受け入れがたい引き下げが生じている。これについては「それは司祭職の本質から要求されるものではない」Non exigitur quidem a sacerdotio suapte natura と断言し、聖パウロの思想を全く独自に解釈してこの主張を正当化している(司祭の役務と生活に関する教令16条1項)。
また、教会の聖伝に反する思想の浸透がある。すなわち、司祭職の「職務」のうち、第一に説教(「天主の福音をすべての人に告げる」、司祭の役務と生活に関する教令 4条1項)を挙げるべきだという、教会の聖伝に反する考えが浸透している。
しかし、トリエント公会議は、司祭職を特徴づけるものは、第一に「キリストの御体と御血を聖変化させ、捧げ、分配する権能」であり、第二に「罪を赦す、あるいは赦さない権能」である、と断言している。
20.司祭の職務の劣化は、"「神の民」としての教会"という新しい概念に照らして理解される。この概念は、"教会"についての新たな拡大された(そして偽りの)概念に関連している(上記 6段落参照)。「キリストの神秘体」の代わりに「神の民」(教会憲章8-13条)という定義は、一方で、部分と全体を取り替えている。すなわち、ペトロ前書2章10節に言及されている「神の民」を、教会全体と交換している。しかし、この【神の民という】箇所は、伝統的に受け入れられている解釈によれば、ただ単に異教から改宗した信者に聖ペトロの発した賛美が向けられたものである(「あなたたちは前には天主の民ではなかったが、今は天主の民である」)。
さらに、それは、教会自体が「民主的」かつ「共同体主義的」だというビジョンへと至らせている。これはカトリックの聖伝とは全く無縁で、むしろプロテスタントの考え方に近い概念である。
実際、この概念は「民」の概念を含み、したがって、普通ではない「共同体主義」の観点を含んでいる【訳注:"include in"の 前置詞"in"を省いて読んだ】。さらに、聖職位階は、聖職位階のメンバー【肢体:成員】も「神の民」の「肢体」(教会憲章13条)とみなされ、その称号によってのみ、「民」とともにキリストの神秘体に参加しているように見える。この「神の民」という新しい唯一無二の概念が「神秘体」という正統的な理解の上に被せられ、重ね合わせられており、今では信者は「神の民」に代表される集合体を通して参加することになっている。
21.互いに関係している三つの「断絶のポイント」がある。
①フェミニズムへの開放(現代世界憲章29、52、60条)と、
②公の性教育への開放(キリスト教的教育に関する宣言「グラヴィッシムム・エドゥカティオーニス」Gravissimum educationis、GE1)。公の性教育は、先任の教皇たち(ピオ十一世とピオ十二世)によって正当にも断罪されている。なぜなら、不道徳で堕落的なものだからである。性教育は親や教師の慎重かつ個人的な判断に委ねられるべきものだからである。
③「生活と愛の交わり」を結婚の第一の目的に高め、子どもの出産と教育という目的は、この「交わり」の「究極的な冠」(fastigium)であって、婚姻が存在する独占的な目的ではない(現代世界憲章48条)ものとして現れること。
22.キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言「ノストラ・エターテ」(Nostra Aetate)の中で、キリスト教以外の宗教に帰属する、複数の異常で誤解を招くような記述がある。この文書は、これらの宗教は「すべての人を照らす真理の光線を示すこともまれではない」(ノストラ・エターテ2条3項)と宣言さえしており、また、信じられないことに、カトリック信者に
「かれらのもとに見いだされる精神的【霊的】、道徳的富および社会的、文化的価値を認め、保存し、さらに促進する」(同第2条第3項)ように勧告している!
この宣言(および教会憲章16条「唯一の慈悲深い神を、われわれとともに礼拝する(nobiscum Deum adorant unicum et misericordem)」は、ムハンマド(マホメット)が宣言した啓示を真正なものと認め、コーランの黙示録的な「キリスト論」と「マリア論」を容認しているようにさえ見える(ノストラ・エターテ3条1項)。
ユダヤ教徒に対しては、キリストがすでにキリスト信者とユダヤ教徒を和解させたと信じているように見えるが、ユダヤ教が改宗せずにキリストに敵対し、偽りの現世的なメシア到来の希望を持ち続けているという事実は無視されているだけである。この和解とされるものは、"置き換えの神学"を不確かなものにしている(キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言4条)。置き換えの神学は、私たちが知っているように、唯一の真の啓示された宗教としてキリスト教が、ユダヤ教の代わりに置き換わったという根本的で明白な置き換えを内容としている。
23.この宣言は、ヒンズー教を評価してこう言う。その信者は「汲み尽くすことができないほどの豊かな神話と、哲学上の鋭敏な努力をもって神の神秘を探求し、表現する。また、かれらは、あるいは種々の様式の修行生活、あるいは深い瞑想、あるいは愛と信頼をもって神のもとに逃避することによって、われわれの存在の苦悩からの解放を求めている。」(同2条1項)。
この描写は、まったく誤解を招くものである。なぜなら、カトリック信者に、ヒンズー教の神話や哲学を有効なものとして受け入れさせ、あたかもヒンズー教が効果的に「神の神秘を観想する」ことができるかのように、またヒンズー教の禁欲主義や神秘主義がキリスト教の禁欲主義と同様のものを達成できるかのように思わせるからである。
しかし、ヴェーダの時代(紀元前16~10世紀)以降のインドの霊性を特徴づけている神話と思索の混合は、一元論的であり同時に汎神論的な"神と世界"という概念において、その本性を表していることを私たちは知っている。実際、非人格的で宇宙的な力として神を考え、無からの(ex nihilo)創造という概念を無視し、その結果、感覚的な現実と超自然的な現実、物質的な現実と霊的な現実、全体と個別のものを区別しなかった。その結果、個々に存在するすべてのものは、不明瞭で宇宙的な一つのものに溶解し、そこから、すべてのものが生まれ、そこへ、すべてのものが永遠に戻ってくるのであるが、その一方で、個々に存在するすべてのものは、それ自体がまったく見かけだけのものでしかないことになる。この考え方は、公会議によれば「深遠」ではあるが、個々の霊魂という概念(これは対照的に、古代ギリシャ人にはすでに知られていた)や、私たちが自由意志と呼ぶものが欠如するのは避けられない。
全体像は、輪廻転生という全く受け入れられない概念で完成する。輪廻転生は、教義憲章の草案「信仰の遺産を純粋に守るべきこと」(De deposito fidei pure custodiendo)で明確に非難されている、全く受け入れられない概念である。この草案は、公会議の準備段階で起草され、3年間続いた印象的で極めて正確な準備作業のその他の草稿とともに、公会議の冒頭で革新主義者(Novatores)、すなわち進歩的な枢機卿たちや司教たちによって(教皇ヨハネ二十三世の同意を得て)反故にされ難破させられたものである。
実際、いわゆるヒンズー教の「修行」(ascesis)は、一種のエピクロス主義(快楽主義)のようなものであり、洗練された自己中心的な探求、つまりあらゆる欲望 -- それが良きものであれ -- に対する、また全ての責任に対する、上位の霊的な無関心(indifference)を探求することである。この無関心は、輪廻転生という誤った信仰が教えているように、すべての苦しみは前世の過ちを償うとすることで正当化されている。
24.ヒンズー教を部分的に純化した自律的な変異型である仏教について、宣言では次のように言う。
「その種々の宗派に従って、この流転の世が根本的に無常であることが認められ、人が忠実と信頼の心をもって、あるいは完全な解脱の状態に至る道、あるいは自力または他力によって最高の悟りに到達する道が教えられる。」(ノストラ・エターテ2条2項)
これは、アンリ・ド・リュバック(正統神学ではないことで有名なイエズス会司祭)が誤って伝えた仏教のイメージであり、疑うことのないカトリック信者に受け入れられるように再考し、装飾したものである。実際、仏教徒が、いわば、真の意味での「無の形而上学」を「流転の世が根本的に無常であること」に対抗するものとして持っていることを、そこでは語っていない。
彼らの「無の形而上学」によると、世界と私たち自身の「自己」は、見かけ上の存在にすぎない(また、私たちキリスト信者にとってそうであるような、単に"非必然的で過ぎ行くものであると同時に真に現実の存在"だけではない)。仏教徒にとって、すべてのものは、同時に、「成るであり、成らないである」。人生はどこもかしこも悲しみに染みわたった連続的な変化であり、悲しみは、すべてが空しいものであることと納得して克服すべきであり、自分がすべきことはあらゆる欲望を取り除くように自分に納得させることである。これは、知的なイニシエーション、つまりグノーシス(知識)によってなされる。
タントラ仏教(密教)では、このようなグノーシスは、いわゆる「性的魔術」を使って解放するとされる宣言をすることで、倫理や良識の限界を超えている。仏教のイニシエーションは、すべてのものに完全に無関心である涅槃(「滅」または「消滅」)に至ることを目的としている。これは、絶対的な滅という究極の状態であり、そこではすべてが空しさそのものであり、絶対的な空虚の平和であり、私たちの「自己」が完全に消滅して宇宙全体に溶け込んでいる非存在(non-being)である。これこそが、第二バチカン公会議があえてカトリック信者に尊敬の念をもって注目するよう呼びかけた「完全な解放の状態」「最高の照らし」の正体である。
25.近代思想の主観主義に影響を受けた「真理」という概念に代表される重大な問題がある。それゆえに、そのような「真理」は、【客観的な】啓示された真理という考え自体と相容れないものである。
a.啓示憲章(Dei Verbum)では、
信仰の真理の「把握」についての文章の結論で「理解が成長する」として次のように述べている。
「要するに、教会は、自分に神のことばが成就するまで、時代の推移に伴って、絶えず、神的真理の充満を目ざして進むのである。」(啓示憲章8条2項)
ここでは、教会は20世紀を経てもなお「天主の真理の充満」(神的真理の充満)を持っていないことが暗示されているが、それは教会がまだそれを目指して「絶えず、前進する」とされているからである。真理とは「(探求された)対象と(探求している)知性との一致である」(アリストテレス―聖トマス・アクィナス)という考えが、典型的に近代的な考えに置き換えられている。つまり、それによれば真理とは主観的で、果てしない真理の探求【とされるの】である。
しかし、このような考えは、他のすべての考慮事項を別にすれば、天主によって啓示された真理という概念に適用することはできない。私たちの知性はこの啓示された真理を恩寵の不可欠な助けを借りて認識しており、この真理は、まさに不変の信仰の遺産を構成しているのである。さらに、そのような近代的な考えは、信仰の真理とは一致しない。信仰の真理によれば、啓示は、最後の使徒【聖ヨハネ】の死によって閉じられた・完了したからである。
b.このような、人間が問うている真理に取って代わる「"真理の探求"としての真理」という考えが、「対話」の原理の基礎である。
この原理が保持しているのは、「宗教に関する真理」は、今や、「教導あるいは教育、交流および対話による自由な探求によって、求めなければならない。このような方法によって、真理探究の面で互いに協力するため、自分が発見したとか、あるいは発見したと思うことを他の者に説明する(alii aliis exponent veritatem quam invenerunt)。」これは「神が英知と愛をもって、全世界と人間社会に秩序を立て、これを指導し、統治するために設けた神的な、永遠の、客観的、普遍的な法」に関わる。(信教の自由に関する宣言3条1-2項)
【「神が英知と愛をもって、全世界と人間社会に秩序を立て、これを指導し、統治するために設けた神的な、永遠の、客観的、普遍的な法が、人間社会の最高の規範であることを考える者にとって、上に述べたことは、いっそう明らかに現わされている。神は、人間が神の摂理のやさしい計画によって、不変の真理をよりよく認めることができるように、自分の法に人間をあずからせている。したがって、人間は皆、適当な手段によって、賢明に、自分の良心の正しい、そして真の判断を形成するために、宗教に関する真理を探究する義務と権利をもっている。真理は、人格の尊厳とその社会性とに固有の方法、すなわち、教導あるいは教育、交流および対話による自由な探求によって、求めなければならない。このような方法によって、真理探究の面で互いに協力するため、自分が発見したとか、あるいは発見したと思うことを他の者に説明する。そして、認識した真理に、個人的な承認をもって堅くそれに同意しなければならない。」】
「宗教に関する真理」は、その時、永続的な「対話」を通して「他の者」とともに探求する際に個人の良心によって「発見」され、見いだされた全てに存するとされる。「他の者」(alii)とは、他のカトリック信者のことだけではなく、一般的な他の者、つまり、自分の持つ信条が何であれ、すべての他の者を意味している。重要なことは、この探求は、天主によって人間の心に置かれた天主の永遠の法、つまり、理神論者のように自然道徳の「永遠の法」(lex aeterna)をその対象としていることである(すべての人を巻き込むということで、実際には、非キリスト信者によって完全に否定され、異端者によって大きく変形されている"啓示された真理"をその対象とすることはできない)。
この新しい教えは、常なる教えに公然と反している。常なる教えによれば、カトリック信者にとって、「宗教に関することがら」や「道徳」における真理は、天主によって啓示され、「信仰の遺産」にある教導権によって保持し続けられている真理である。
したがって、この真理は、私たちの知性と意志の同意を必要とし、それは恩寵の決定的な助けによって可能となる。この真理は、信じる者に知られて自分のものとされることを要求する。すなわち、自らの努力によって、「発見」されるものではない。
あるいは、さらに、異端者、離教者、非キリスト信者、異教徒と共同で --- すなわち、私たちの宗教に関する真理や私たちの基本的な道徳的原則を拒絶するすべての人々と共同で --- 探求(investigatio)することによって「発見」されるものでもない。ここにおいて、私たちは、信仰だけでなく、ごく初歩的な論理の限界を超えて、その外にいる。
c.非カトリック的な原理によれば、真理は、他の者との共同の「探求」の結果であるべきであり、関係する各個人の「良心に忠実に」追求されるべきであり、「多くの道徳的原理」の解決に関わる場合にもそうであるという。この非カトリック的な原理が、現代世界憲章16条2項で再確認されているが、これは、公会議が持っている新・近代主義的な「精神」(mens)を理解するための重要な条項の一つである。
26.この簡単な概略を締めくくるために、1962年10月11日のヨハネ二十三世の就任演説の中にある、教会の聖伝に適合していない三つの点を思い起こしたいと思う。これらの点が、公会議をそのとき採用した異常な方向に向かわせるのに寄与したことは確実である。それは以下の通りである。
1)教導権についての不完全な・切断された誤った概念。
「しかし、現在、キリストの浄配は、厳しさよりも憐れみという薬を使うことを好みます。このことが求めるのは、この浄配が現代の必要性に遭遇し、新たな断罪を行うのではなく、自分の教えの正当性を示すことです」。
「不完全な・切断された」というのは、教導権は誤謬を断罪したり、天主に由来する権威を用いて真理と誤謬の区別を揺るぎない方法で宣言したり押し付けたりすべきではないと考えることに至るからです。
「誤った」というのは、誤謬を断罪することは、私たちが皆知っているように、憐れみのわざそのものであるからです。その際、誤った者が自分自身のことを説明し、自分のやり方を考え直し、自分の霊魂を救うことができるように、誤った者に指摘したり、あるいは、断罪を発する権限、天主からの権利による(iure divino)権限を持つ権威者が、すべての誤謬を断罪することによって、誤謬の陰湿な言葉の綾から信者を守ったりするのです。
2)就任の訓話には、真正な教理は「現代思想の探求のやり方とその文学的言い回しを通して研究され、自分のものとされるべきです」と(ヨハネ二十三世自身が公に使用したラテン語版よりも大胆な翻訳版で)断言しているように、カトリックの教理と現代思想が深刻なほど混合されていること。
なぜなら、「一方では、信仰の遺産(depositum fidei)の古代の教理という実体があり、他方では、その外層(rivestimentoすなわち上塗り)の定式化した言い回しがあるからです。
ですから、必要なら忍耐をもって、この外層について、細心の注意を払い、司牧的性格を優先させて、教導権の形式およびと重大さにおいて、すべてを測らなければならないのです。」(現代世界憲章62条とエキュメニズムに関する教令6条で再提案された概念)
これは、教皇たちが常に否定してきた立場である。なぜなら、超自然的なものに聞く耳を持たず、内在性の原理に強く影響を受けた現代思想と、「古くからの教え」 -- この教えにおいて「実体」と「外層」とを分離することは不可能である -- との間に存在する、明白で避けられない矛盾があるからである。
3)人類の一致が教会の真の目的であるとする宣言、しかも、そのような一致が「地上の国」がこれまでにないほど「天上の国」のようになるための「必要な基盤」であるとまでみなしている。これは、千年王国的な色合いを持つ概念であり、教会の教理とは無縁である。このような不適切な目的を教会に帰属させているのを、教会憲章1条で見ることができる(上記5参照)。
パオロ・パスクァルッチ
カトリック哲学者