聖霊降臨後最後の主日―最期のこと(2024年、大宮と大阪)
最後の審判
聖霊降臨後最後の主日―最期のこと(2024年、大宮と大阪)
2024年11月24日 ブノワ・ワリエ神父
聖霊降臨後最後の主日―最期のこと
親愛なる兄弟の皆さま、
福音で、私たちの主が終末の時代について述べておられるのを聞きましたから、今日は「最期のこと」、つまり死、審判、煉獄、天国、地獄についてお話ししましょう。
私たち一人一人は、いつか死ぬためだけに生まれます。そして、私たちは死ぬと、審判を受け、地獄に行くか、おそらく煉獄を経由して天国に行くことになります。
教会は信者に対して、徳を起こさせ、罪を避けさせる手段として、これらの最後のことについて考えるように勧め、「どんな行いをするときにも、自分の最期を思えば、決して罪を犯さない」【シラの書】ことを思い起こさせます。
死
私たち一人一人がいずれ死ぬということ、つまり、私たちの霊魂が肉体から離れ、肉体は朽ち果てて塵となることは、現代世界のほとんどの人が全力を尽くして無視していることです。人々は表面的なこと、特にソーシャルメディア上では、フォトショップやフィルターを駆使して見栄えを良くすることに集中しています。そして、彼らによれば、死について語ることは不運をもたらすため、彼らは死について聞きたがりません。
これはカトリックのやり方ではありません。カトリック信者は、死について冷静に考えるだけでなく、それに焦点を当てます。私たちは、死について黙想するのです。聖アルフォンソ・デ・リグオリは、「死の準備」という題名の本を書きました。
聖ヨハネ・クリゾストモは、「墓に行って、塵、灰、虫を見て、ため息をつけ」と述べています。死がいつやって来るかは分かりません。どのようにして死がやって来るかも分かりません。死を恐れて無視しようとすることもできますし、死から逃れるためにできる限りのことをすることもできます。しかし、いずれにせよ、いずれは失敗します。そして医者もいずれは人を失望させます。死は、今からずっと後に、年老いて眠りについているときにやって来るかもしれませんし、今この瞬間にも苦しみを伴ってやって来るかもしれません。キリストのために殉教者として死ぬかもしれませんし、木が倒れてくることで、あるいは、蜂に気を取られた、または携帯のメールに気が散っている人が運転する車によって、見た目には「突然に」、「意味のない」死を迎えるかもしれません。
いつ、どのように死がやって来るにしても、死は必ずやって来ます。ですから、カトリック信者は、いつでも死ぬ準備ができているように、過度な恐怖を感じずに審判を受けることができるように、人生を生きようとします。
私審判
死は終わりではありません。永遠へと至る旅の一歩なのです。死のまさにその瞬間には、思い直す時間もなく、それぞれの霊魂は、キリストの前で私審判を受け、そこで、自分の思い、言葉、行い、怠りに基づいて評価されます。この審判によって、霊魂が天国へ直行するのか、地獄へ行くのか、煉獄へ行くのかが決まります。裁かれるとき、私たちは、なぜ私たちがそのように裁かれたのかを、完全に理解します。私たちの知性が照らされて、私たちに関する天主の知恵、正義、あわれみを、私たちが完全にわかるようになるのです。
煉獄
成聖の恩寵の状態で死んでもなお、小罪やこの世の罰の清めが必要な人々にとって、煉獄は、天国に入る前の一時的な状態としての役割があります。これらのあわれな霊魂は、無力であり、この清めの火の池から自ら自由になることができないため、私たちは、特にミサのとき、および11月の間、彼らのために祈ります。
天国
救われた人々の中には、死ぬと、直接天国に行く人もいます。そこでは、私たちが造られた目的、つまり、天主とともに幸せになることが、完全に成就します。ここ涙の谷では、人はしばしば実存的空虚を感じるため、多くの人が、不道徳な快楽、薬物、人から敬われること、「成功」、気晴らしなど、無益にも、この世のもので穴埋めしようとします。自然に驚嘆したり、あるいは真・善・美に感動したりするとき、私たちは天主を垣間見ます。しかし、私たちが垣間見るものは、汚れた湖の水の中に見るもののように、はかなくて濁ったものです。しかし天国では、「至福直観」によって、私たちは天主を水晶のような明晰さで見ます。もう痛みも悲しみもなくなり、私たちの幸せは永遠に続くのです。天国を垣間見た後、聖パウロはこう証言しました。「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心にまだ思い浮かばず、天主がご自分を愛する人々のために準備されたこと」(コリント前書2章9節)。
地獄
地獄は、死後の罰の場所です。地獄と地獄に送られた者の状態を、聖書は、次のように表現しています。
「深淵」(ルカ8章31節)、「苦しい場所」(ルカ16章28節)、「火の池」(黙示録19章20節)、「燃えさかるかまど」(マテオ13章42、50節)、「消えぬ火」(マテオ3章12節)、「永遠の火」(マテオ18章8節)、「やみの暗さ」(ペトロ後書2章17節)、「滅び」(フィリッピ3章19節)、「滅亡」(ティモテオ前書1章9節)、「永遠の滅び」(テサロニケ後書1章9節)、「腐敗」(ガラツィア6章8節)、「第二の死」(黙示録2章11節)。
地獄に行く人々は滅びます。彼らは永遠に切り取られ、切り離されます。私たちは、彼らのためには祈りません。彼らは、悪に固まり、悔い改めることができません。また、彼らは「喪失の痛み」に苦しみます。つまり、彼らは、顔と顔を合わせて天主を見ることが、決してできないのです。そして彼らは、自分が何を失ったかを常に知っているのです。彼らはまた、サタンのすみかの特徴として聖書で繰り返し語られている火による、「感覚の痛み」にも苦しみます。天国ではさまざまな霊魂がさまざまな報いを受けるように、地獄でも同じなのです。
比較的最近の聖人であるドン・ボスコは、地獄の幻視を何度も見て、それを自分の生徒たちに警告として語りました。そしてもちろん、私たち全員がよく知っているのは、ファチマの子どもたちが語った地獄の幻視です。
最後の審判
信経において、私たちは、キリストが「生ける人と死せる人を裁かんために再び来たり給う」と固く宣言します。このことは、世の終わりに起こります。「日は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の力は揺れ動く。そのとき、人の子のしるしが天に現れる。そのとき、地の民族はみな嘆き、人の子が偉大な力と栄光をもって、天の雲に乗り来るのを見るであろう」(今日の福音―マテオ24章29-30節)
これがいつ起こるのか、確かなことは誰にも分かりません。十人の乙女のたとえ話は、主人の帰ってくる時は知らないものの、常にその準備をしておくようにと私たちに教えています。
すべての死者は、霊魂と肉体が再び一つになって、墓からよみがえります。
「人の子は、その栄光のうちに、多くの天使を引き連れて栄光の座につく。そして、諸国の人々を前に集め、ちょうど牧者が羊と雄やぎを分けるようにそれぞれを分け、羊を右に、雄やぎを左に置く」(マテオ25章31-33節)。
よみがえった死者たちは、死んだ後にすでに私審判を受けていますが、キリストが再臨されるときには、キリストの正義とあわれみがすべての人に明らかにされるために、すべての人が一緒に審判を受けます。私たちは、それぞれ自分の道徳的状態を知り、また他人の道徳的状態も知るのです。私たちの罪、思い、秘密は、すべての人に知られるのです。
「そのとき、王は右にいる人々に向かい、『父に祝せられた者よ、来て、世の初めからあなたたちに備えられていた国を受けよ』と言う」。(マテオ25章34節)
結論
親愛なる兄弟の皆さま、
真面目なカトリック信者は、告解の秘跡と聖体の秘跡を定期的に受け、常に成聖の恩寵の状態で生きようとします。
そして、死の床では、もし私たちが準備なしに突然召されるのではなく、死の床にいる時間をいただけるならば、終油の秘跡を受けることで、私審判を受ける準備をします。
私たちは、自分の時が来たときには、「幸せな死」を迎えるために、特に聖ヨゼフに祈らなければなりません。
「良き死のための連祷」の言葉をもって祈りましょう。
「すべての人を死すべき運命とさせ給うも、すべての人から死の時を隠し給う天主よ、われが聖性と正義の実践のうちに日々を過ごし、御身の愛の抱擁のうちにこの世を去るにふさわしき者となるを許し給わんことを。天主として、聖霊との一致において、御身とともに世々に生きかつ治め給うわれらの主イエズス・キリストの功徳によりて。アーメン」。