聖伝のミサと新しいミサ

ソース: FSSPX Japan

聖伝のミサ

2025年5月25日  復活後第五主日

トマス 小野田圭志神父説教  

聖なる日本の殉教者聖堂(大宮)・聖母の汚れなき御心聖堂(大阪)

先日、大阪の聖母の汚れなき御心聖堂で、ある侍者の子供に「ミサをラテン語でしている理由」を説明したところ、その隣りにいた侍者の子が「じゃあなんで 日本語のバージョンのミサがあるの?」と尋ねてくれました。

なぜこのようなミサがあるのかというその動機については、色々な説明ができるかもしれません。しかし、今回私は特に、私たちが今捧げているラテン語のミサと日本語のミサの違いは、ただラテン語が日本語になっただけという言葉の違いだけではなく、ミサが全く変わってしまっているということを説明しようと思っています。

今日のこの説教では、聖伝のミサと新しいミサの違いは「天主に捧げる十字架のいけにえ」か、あるいは「人間の兄弟同士の食事の集い」かというほどの大きな違いがあるということをお話ししたいと思っています。

と言っても、このような話をすると、もしかしたら傷付かれたり、何か辛い思いをされる方もいらっしゃるかもしれませんが、私の考えではなく、事実だけを単純に申し上げたいと思います。

 

【ミサ聖祭の目的】

まず第一に、ミサの目的とはなんでしょうか?

なぜ、カトリック教会は毎日ミサを捧げているのでしょうか?

聖ピオ十世教皇様は、ご自分で作られた公教要理の中で、ミサ聖祭を捧げる理由を四つ説明しています。

 

① [礼拝]ふさわしい方法で天主を礼拝する

② [感謝]天主から受けたご恩に感謝する

③ [贖罪](罪の償い)

天主をなだめるために罪のつぐないをし、

煉獄の霊魂のために代願・代祷する(代わりに祈って上げること)

④ [請願]必要とする聖寵を乞い求める(懇願すること)

 

今日は特に、このミサに関わる四つの目的のうち「贖罪(罪の償い)」ということに注目して、考えてみましょう。

 

【贖罪のためのいけにえ】

ミサの最も重要な目的の一つが「罪の償い(贖罪)」です。

何故かというと、ミサ聖祭とは十字架のいけにえの再現だからです。

ミサ聖祭(贖罪のいけにえ)を捧げるためには、三つの要素が必要です。

 

[いけにえ]

罪の償いのために、いけにえが屠られなければなりません。

[司祭]

罪の償いをするため、いけにえを屠り、捧げる特別な人間が必要です。

[祭壇]

いけにえを捧げるため、特別に聖なる場所が必要です。

 

【いけにえ】

ところで聖伝のミサ聖祭では、イエズス・キリスト様御自身が、いけにえとして、パンとぶどう酒の外観のもと、本当に捧げられます。

聖変化をすると、全実体変化という大きな奇跡が起こって、たとえパンとぶどう酒の外観のもとであったとしても、イエズス・キリストの御体が本当に、実体的にそして現実的にまします。そしてそれを、天主御父に捧げます。

 

【司祭】

カトリックのミサでは、イエズス・キリスト御自身が、新約の永遠の大司祭としていけにえを捧げます。ただしイエズス様は、永遠の司祭職の叙階を受けたカトリック司祭を通して、これを道具としてお捧げになります。

叙階の秘蹟を受けたカトリックの司祭は、イエズス・キリストの単なる道具に過ぎません。何故なら、ミサ聖祭の第一の主たる奉献者はイエズス・キリストだからです。本物の、本当に主要な司祭はイエズス・キリストで、カトリック司祭は、キリストの名において、キリストのペルソナにおいて、この犠牲のいけにえを永遠の御父なる天主に捧げます。

 

【祭壇】

ミサ聖祭は、教会の祭壇の上で捧げられます。

通常、祭壇は石でできていなくてはなりません。しかし、もしも石の祭壇を作ることができない場合には、司教様によって特別に聖別された「祭壇石」というものが置かれ、その祭壇石の中には殉教者の聖遺物が組み込まれています。

私たちの聖なる日本の殉教者聖堂(大宮)と聖母の汚れなき御心聖堂(大阪)の祭壇にも、祭壇石というものがあります。これが祭壇なのです。

しかし、何らかの事情で祭壇石を置くができない場合には、少なくとも「殉教者の聖遺物の入ったコルポラーレ」というものを祭壇石の代わりに置くことができます。これは教皇様の特別な許可によって代えることができます。こうして、それが祭壇として使われるようになります。

たとえば、秋田へ巡礼へ行った時にも、祭壇石の代わりに聖遺物の入ったコルポラーレを置きますし、また聖堂ができる前、私たちはいつもそのような聖遺物を使っていました。

 

これを見ると、ミサの本質とは「司祭が捧げる純粋ないけにえ、血が流れない屠り」であるということがわかります。

たとえ司祭が一人でミサを捧げていて、信者がミサに与らなかったとしても、信徒が御聖体拝領をしなくても、完璧で完全なミサ聖祭になります。

ミサ聖祭は食事ではありません。いけにえを含む食事でもなければ、集会でもありません。

ですから、確かにカトリック教会は、毎週主日にミサに与るようにと、主日を聖化しなさいと義務を課してはいますが、毎週聖体拝領をしなさいとは、一度も要求したことがありません。

もしミサが本質的に食事であるならば、何も食べずに参加する者(御聖体拝領をしない者)は、ミサに参列したことにはならないはずです。

いえ、カトリックの教えによれば、ミサとは晩餐ではなく「カルワリオのいけにえ」ですから、私たちがミサに参加することや祈ること、つまり私たちがその場にいることによって与ったことになります。

 

【新しいミサ】

では、新しいミサを見てみましょう。

これは、1969年に典礼学者が新しく作ったミサの式次第で、原文はラテン語です。「Novus Ordo Missae (ノヴス・オルド・ミセ)」といい、日本語では「新しいミサ式次第」といいます。

今から私が申し上げることは、新しいミサができた時に、オッタヴィアーニ枢機卿様という検邪聖省(けんじゃせいしょう)の長官、つまり、ローマのバチカンで、教皇様の次に偉い枢機卿様が、新しいミサを見て研究され指摘したことで、その一部を、私が皆さんにわかりやすくお知らせいたします。

 

【新しいミサの定義】

オッタヴィアーニ枢機卿様の研究によると、新しいミサの「ローマ・ミサ典書の総則」の第2章第7番には、次のようにミサの定義がなされています。新しいミサは、この定義を設計図として作られました。

これは私の翻訳ではなくて、今、日本で使われているミサ典書にそう書いてあるその翻訳の通りを引用します。

 

「主の晩さん、またはミサは、聖なる集会の義、すなわち『主の記念』を祝うために、キリストを代理する司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である。したがって、『わたしの名において、23人が集まるところには、その中にわたしもいる』(マテオ18:20)というキリストの約束は、特に教会がそれぞれの地域で集まるときに実現される。」

 

オッタヴィアーニ枢機卿様はこれを見て「これは、プロテスタントの集会に適用できる」と判断しました。

何故かというと、第一に、新しいミサは「主の晩餐」として作られ、司祭が捧げるいけにえではないからです。

第二に、新しいミサは「集会の儀、神の民の集会」だとされているからです。

でも、カトリックのミサの本質(核心)は、罪の償いのためのいけにえで、「記念」を祝うために集まった集会ではありません。既に申しましたように、ミサは、会衆がいなくても司祭一人でミサを完全に捧げることができます。

第三に、新しいミサで、司祭の役割は「集会の座長、司会者」です。

でも司祭というのは、永遠の大司祭キリストが、御自分のいけにえを再現するための道具で、単なる集会の座長ではありません。司祭とは、いけにえを捧げるキリストの代理者です。

第四に、新しいミサでは、キリストがどのように現存するかについてこう言っています。

それは、キリスト者の集会だから——つまりキリストの名において23人が集まっているから、キリストの霊的な現存が実現するとされています。

でも、カトリックのミサでイエズス・キリストは、御聖体において、本当に実体的に現実に御体と御血をもって現存され、単なる霊的な現存ではありません。

本物が、イエズス様御自身がまさにおられるのです。

 

ですから、検邪聖省長官だったオッタヴィアーニ枢機卿は、バッチ枢機卿様と連名で、パウロ六世教皇様にレポートを提出し、お手紙も書きました。

それによると、

「この新しいミサは、全体としても細部においても、カトリックのミサの神学から著しく逸脱している」

これは、教皇様に丁寧な言い方をしたのですけれども、 ずばり言うと 「これはカトリックではない、カトリックの神学ではない、カトリックの信仰を表していない」

それが、オッタヴィアーニ枢機卿様の判断でした。

 

では、新しいミサは、どのようにして設計図の通りに作られたのでしょうか?

二つのミサは、見た目には同じなのではないでしょうか?

しかしよく見てみると、確かにいけにえが食事会になっているということがわかります。たくさんありますが、少しだけ例を挙げてみます。

 

【いけにえと食事会:聖伝のミサと新しいミサの違いの例】

 

【オフェルトリウム】

たとえば聖伝のミサで、パンやぶどう酒を準備する祈りがありますが、これをオフェルトリウム(奉献)と言います。パンの奉献の祈りは、ミサが罪の贖罪のために捧げられるいけにえであることを明確に表現しています。パンの奉献の祈りの日本語訳を紹介します。

「聖なる父よ、全能の永遠の天主よ、汝の値しない僕である私が、生けるまことの天主である御身に捧げるこの汚れのないいけにえ(ホスチア)を、私自身の無数の罪、過失、怠慢のために、またここにいるすべての者のために、また生ける者、死せる者、すべての忠実なキリスト者のためにも、受け入れ給え。アーメン。」

と、ホスチアをパテナの上に置いて祈ります。

また、カリスについては「救いの杯(カリス)を捧げます」と祈ります。

でも、新しいミサではどうでしょうか?

新しいミサでは、このパンの奉献の祈りとカリスの祈りは廃止され、代わりにユダヤ教の食前の祈りが導入されました。この祈りは、皆さんも聞いたことがあるかもしれません。日本語訳を引用します。

「神よ、あなたは万物の造り主。ここに供えるパンはあなたからいただいたもの、大地の恵み、労働の実り、わたしたちのいのちの糧となるものです。」

ユダヤ教の食前の祈りです。なぜ変わってしまったのでしょうか?

それは、いけにえが食事の集会になるためでした。

 

【祭壇と食卓】

では、祭壇とはどうなったでしょうか?

聖伝のミサでは、祭壇として聖遺物が置かれた祭壇石はもちろんのこと、三枚の祭壇布(祭壇の布)が必要です。

また、司祭は天主の方に向かって祈らなければなりません。信徒と一緒に天主の方を向いています。このような向き方をAd orientem と言って、東の方を向く(向東:こうとう)と言います。何故かというと、イエズス様を正義の太陽として、イエズス様の方を向く、東の方を向くという伝統がカトリック教会にあるからです。

 

対して、新しいミサでは、食卓なので聖遺物は不要です。一枚のテーブルクロスだけを使っています。また、司祭は集会の座長なので、その設計図に従って会衆の方を向かなければなりません。会衆の方を向くという規定は無いのですけれども、しかし自然とそうなっています。人々の方を向いてミサを行うのは何故かというと、ミサを食事として提供するためです。食事を与えるために、なぜ背中を向けなければならないのでしょうか?

座長が会衆の方を向かずに、なぜ座長であることができるのでしょうか?

人間的な対面、座長としての役割を果たすために、主に向かうというよりは人々に向かわなければなりません。

人間が中心にいる世俗的な儀式の印象を与えています。祈りはより困難になります。何故なら、この人間的な対面が、主(ad Dominum)に向けられていないからです。

 

【言語】

では、言語はどうでしょうか?

聖伝のミサでは、天主を礼拝し天主にいけにえを捧げるので、沈黙のうちに祈り、祈りの言葉は十字架の言葉であるラテン語を使います。

しかし、新しいミサは食事会であり、司祭は食事会の座長なので、司祭は会衆に語りかけるために各国語を使っています。

 

【ローマ典文と第一奉献文】

聖伝のミサでは、核心部分のローマ典文(ミサ典文)は、必ず守らなければならない規定(カノン)という性格、固定された義務的な規則という性格をもっていました。聖伝のミサでは、ローマ典文(ミサ典文)の時から沈黙に入り、司祭は小さな声で祈りを捧げます。そうすることによって秘密のうちに小さな声で聖変化を起こす、聖変化の祈り(全実体変化の祈り)もあります。

新しいミサでローマ典文は、新しく導入された別の3つの「奉献文」の中の一つに過ぎません。

また、新しいミサでは記念なので、すべて大声で朗読することになっています。

聖変化の部分が変更されています。聖変化を起こす行為というよりも、皆さんこういうことがありましたよと、皆で昔イエズス様がなさった最後の晩餐を思い起こして記念する「叙述」(物語)になっています。

 

【礼拝】

また、多くあった十字架のしるしも廃止されています。

聖伝のミサでは、礼拝のしるしとして、私たちは特にローマ典文の時に、サンクトゥスが終わると跪きます。

しかし新しいミサでは食事会ですので、立ったままです。食事会の時に人々は跪きません。立っているか座っているかどちらかです。跪くことは、日本では禁止されています。これは、非常に論理的な結果です。

 

【聖体拝領】

では、聖体拝領はどうでしょうか?

聖伝のミサでは、御聖体はイエズス様の本当の御体です。

ですから聖体拝領とは、私たちがそのいけにえに与ることであり、また私たちもいけにえとなって主の苦しみに参与し、主とともに苦しみを捧げるという意味です。「いけにえである主と一致して私もいけにえになります」ということなのです。

その主のいけにえを受けるために、私たちは跪いて口で受けます。論理的な結論です。

しかし、新しいミサでは、主の現存は霊的なものです。23人集まっているから主はおられる。また食事会なので、食事は立ったまま手で受けることになっています。

御聖体拝領とは、私たちがいけにえに与って、私たちもいけにえとして主の苦しみに与って、私たちもその苦しみを捧げるという一致の意味です。いけにえと一致するという意味です。ですから私たちは跪いて口で受けます。

新しいミサでは、主の現存は霊的なものなので、また食事会なので、ご飯を食べるのになんで跪いて食べるのでしょうか?立ったまま手で受けます。

これは皆、論理的な結果なのです。

新しいミサ

【いけにえを捧げる礼拝】

ミサ聖祭の一番の目的は「礼拝」です。天主に当然捧げるべきふさわしい方法で天主を礼拝するためです。

天主は、最善で最高の存在、完全で完璧な永遠の存在です。ですから、教会が最高の礼拝を捧げることは、ミサ聖祭にふさわしいことです。

天主が、最高で完全な永遠の存在であるということは、変化の影もないということです。何故なら、最高で完全なものが変わったら、もう最高でも完全でもなくなってしまうということですし、もし変わっても最高で完全だというなら、変わる前はそうではなかったことになるからです。

ですから、不変で永遠の完璧な天主に捧げられる典礼も、その天主にふさわしい典礼も同じく永続するものでなければなりません。

 

教皇インノチェンチオ一世(在位402年-417年)はエウグビノの司教にこう書いています。「使徒の頭であるペトロによってローマ教会に伝えられてきたもの(典文)、そして今においても守られているものが、全ての人々によって保守されなければならない、更に、そこの何ものをも加えても或いは導入されてもならない、そのように(付け加えたり)する権威は誰にもなく、或いはその他の場所からの例に倣うように見えるようなことも(できない)。」(a principe apostororum petro romanae ecclesiae traditum est ac nunc usque custoditur, ab omnibus debere servari; nec superduci nec introduci aliquid, quod auctoritatem non habeat, aut aliud accipere videatur exemplum...  PL 20:552

 

【遷善の決心】

イエズス・キリストの残してくださった信仰遺産、ミサ聖祭を守りましょう。

カトリック教会と教皇にたいする最大の奉仕は、カトリック信仰をまもること、聖伝のミサをまもることです。私たちにそれができるように、聖母に助けを求めて祈りましょう。