ラテン語でミサ聖祭を捧げることは、「一、聖、公、使徒継承」の四つの印を完全に反映する最高の賜物です

ソース: FSSPX Japan

2025年5月18日   御復活後第四主日

トマス 小野田圭志神父 説教  (大阪 聖母の汚れなき御心聖堂)

なぜ、ミサ聖祭はラテン語なのか?4つの理由

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日の聖ヤコボの書簡を通して、カトリック教会は、主の御昇天とまた聖霊降臨の準備をしようとしています。

「すべての最高の賜物と、すべての完全な贈り物は、変わることなく、変化の影さえもない光の父から降り、上からのものである。」

Omne datum optimum, et omne donum perfectum desursum est descendens a patre luminum.

私たちが受けた「最高の賜物・完全な贈り物」とは、つまりイエズス・キリストのことであり、またこれから受けようとする聖霊のことであり、そしてイエズス様のいけにえの再現であるミサ聖祭のことでもあります。

ところで、先週の主日、聖母の汚れなき御心聖堂で侍者をしている或る子供にこう尋ねられました。

「なんでミサはラテン語なの?」

そこで今日は、実はミサが最高の賜物であって、完全な贈り物であるが故にラテン語だということを理解することができるように、特に、ミサ聖祭がラテン語で捧げられているということについてお話ししたいと思っています。

【ミサ聖祭をラテン語で捧げる理由】

かいつまんで言うと、カトリック教会が、特にローマ典礼様式において、ラテン語でミサ聖祭を挙げる主な理由は四つあります。

1)ラテン語が聖なる言語だからです。

2)ラテン語は、意味が一定して変わらないからです。

3)ラテン語は全世界において同じで、普遍の言語だからです。

4)使徒継承の言語で、これを教会がずっと続けているからです。

言ってみると、ラテン語を使う理由は「一つであり、聖なるものであり、カトリックであり、全世界に広がり、そして使徒継承だから」と言うことができます。

【ラテン語は聖なる言語】

ラテン語は聖なる言語です。

そもそもミサ聖祭というのは、十字架のいけにえの再現です。

2000年前のカルワリオで行われた贖いの業が、祭壇の上で現前します。

十字架の上には、イエズス・キリストの「罪状(罪の札)」が掲げられ、掛けられていました。それには、ラテン語とギリシア語とヘブライ語で「ナザレトのイエズス、ユダヤ人たちの王」と書かれていました。

この三つの言語は、主が流された御血によって聖化されました。

そこで、この三つの言葉(ラテン語・ギリシア語・ヘブライ語)は、天主のために公式に使われる聖なる言語となりました。十字架の言葉だからです。

聖なる言葉とは、俗の言葉とは区別される、日常のフツーのことばではない特別な言葉ということです。

日本人も、そのことをよく知っています。

たとえば、特別な「晴れの日」に、一生に一度のような「晴れの舞台」で、特別な「晴れ着」を着る、という言い方をします。

ですから、そのような日本語の言い方を借りるとすれば、聖なる言葉とは、非日常のために使われる「ハレの言葉」と言うことができるかもしれません。

カトリック教会は、非常に初期から、特にローマ典礼において、このラテン語を公式の典礼用の言語として使ってきました。特に祈りのラテン語は非常に美しく、特別な言い回しや、非常に簡潔な文体で書かれています。

教会の公式の典礼であるミサ聖祭、聖務日課もすべてラテン語です。

といっても、皆さんが与っている、そして私たちが捧げているラテン語のミサの中には、ラテン語だけではなく、ギリシア語とヘブライ語も混ざっています。

たとえば「キリエ・エレイソン」というのはギリシア語ですし、「アメン」とか「アレルヤ」というのはヘブライ語です。

また、ラテン語のミサ聖祭だと言っても、最初から最後まで司祭が大きな声を出してお祈りをしているのではなく、「沈黙」もあります。

この沈黙は神秘の言語であって、「天主の神聖さ」を表しています。

東方教会では、特にこの神聖さや聖なるものを表すために「イコノスタシス」といって、イコン——聖なる絵・御影(ごえい)が掲げられている壁があって、それで区別されていますが、ローマ典礼では、沈黙によって神聖さを表そうとします。

先ほども言いましたように、ミサ聖祭とは、カルワリオの十字架の聖なるいけにえの再現で、再び私たちの目の前に現存することです。

ですから、私たちはマリア様や使徒聖ヨハネ、その他の婦人たちが、十字架のもとで、イエズス様と一緒に祈っていたようにミサ聖祭に与っています。

しかし、マリア様でさえも、主が十字架の上で密かに御父に祈っていた、その祈りのすべての内容を知り尽くすことはできなかったでしょう。

それと同じように、私たちもミサ聖祭で主の十字架のもとに佇んで、たとえラテン語のすべての意味を分かり尽くしていなかったとしても、それはミサに与るためになんの問題もありません。マリア様の真似をして、私たちを主のいけにえに合わせて捧げれば、それで良いからです。

ミサ聖祭とは、教会の公式の祈りです。

祈りとは、私たちの心と精神を天主に挙げて、天主に祈願することです。礼拝し、感謝し、賛美し、罪の償いを捧げ、懇願することです。

ですからミサ聖祭というのは、教会が私たちに語りかけるというよりは、むしろ教会が私たちの心を天主へと向けさせて、祈らせるという祈りです。

ですから私たちは、ミサで祈る言葉の意味をすべて知るというよりは、「ミサが何であるか」を知っている方がずっと大切です。

ミサは聖なるものであるから、聖なる言葉を使います。それが「ラテン語」です。

【ラテン語は意味が変わらない】

また、教会がラテン語を使うのは、もう一つの意味があります。

それは、ラテン語は意味が変わらない、一定しているからです。

言葉というのは、通常、時の流れに従って、あるいは社会的な大事件があると、短い間に、あっという間に、言葉の意味が微妙に変化し変質してしまいます。

たとえば、日本語で「おまえ」というのは、もともとは「御前」——おんまえ・みまえという意味で敬語でした。そのつもりで、今私が誰かに「おまえ」と言うと、尊敬したつもりだったのが「なんだ、なんという言い方をするのか!」と怒られてしまうかもしれません。言葉というのは、意味が変わるので厄介ですね。

「やっかい」というのも、もともとは「家(やか)」「居(い)」でした。

「家居(やかい)」は「家に居る人」「同居する人」という意味だったそうです。ですから「厄介者」とは、もともと「扶養家族」という意味だったそうです。でも、今では「厄介者だ」と言うと「問題人物だ」という意味になってしまいます。

ですから、信仰の変わらない真理・遺産を、こんなにグラグラと安定していない言葉で表現するというのは非常に危険なことです。教会がこう伝えようとした意味が、時間が経つに従って変わってしまうかもしれないからです。ラテン語は、時代の流れに従って自然に起こる言語学上の変化を受けません。ですから、教会はラテン語を使います。

ラテン語は、信仰の教義を太古から、ラテン語とギリシア語とを公用語として使って、信仰の内容を定義してきました。ですから、ラテン語を使い続けるのは、信仰を守るための最高の手段となっています。

いつも変わることがない永遠の真理を表現しようとする時、いかなる変質も欠けたところもなく、そのまま2000年間保存するために、私たちには変わらない言葉が必要です。

もしも絶え間なく意味が変わっていく、移ろいゆく変化する言葉で、しかも国によって、さらには地域によって、別々の様々な言葉で典礼を行おうとしたら、典礼は絶え間なく変わっていかなければならなくなり、そしてなんのことか分からなくなってしまうことでしょう。

ですから、ローマ・カトリック教会の教導職(マジステリウム)は、正統信仰を表現し、教えるためにも、そして礼拝するためにも、公用語としてラテン語を使い続けてきました。回勅も公式の通達も、公会議も教会法も公教要理も、もちろんミサ典礼も、すべてラテン語です。このラテン語で言われた意味こそが、正しい公式の教会の見解です。このことを別の言い方で “ Lex Orandi, Lex Credendi ”と言います。

「信仰の法、規定は祈る規定、祈る規定は信仰の規定」

「信仰の内容と祈る内容とは、全く同じでなければならない」ということです。だから、ラテン語で祈るのは非常にふさわしいのです。

【全世界において一つ】

まだ理由があります。

ラテン語は、世界で普遍の言葉として使われているからです。

かつて、人類は傲慢によって、天にまで届く塔を建てようとして、バベルの塔の建設を試みましたが、その結果は、一つであった言語が色々に分かれ、人類が言葉によって分断されてしまうことでした。

聖霊降臨の時には、このバベルの塔で起こったことの真逆が起こります。何故かというと、色々な言葉と色々な民族の人々が、同じ言葉を理解することができるようになったからです。言語が統一されたからです。

教会は、典礼でラテン語を使うことによって、この聖霊降臨を再現させようとしています。つまり、ラテン語によって、多くの民族と色々な言葉を話す人々を、普遍的な、つまりカトリックの交わりに私たちを導いているからです。

でも、もしもそれが各国語に分かれていってしまったとしたら(言葉の局地化や地域化)、ミサはこの普遍の次元を失ってしまいます。

ミサあるいは秘蹟のために、あるいはその他様々な儀式のために、この言葉を話す自分たちのための司祭が必要になるからです。

そうなると、必然的にその言葉を使う教会が必要になり、言語に従って特別の教会を建設しなければならなくなり、カトリック教会は言語によってバラバラになってしまいます。

これは、日本であってもそうです。日本で188名の殉教者を列福する時に、様々な言語を話す方々を招くので、一つの儀式にまとめようとするあまり、ミサの一部は日本語、その次は英語、それからベトナム語、そしてスペイン語、それから韓国語、次はタガログ語、また中国語、今度はインドネシア語、最後に日本語と色々な言葉になって、人々は何も分からなかったそうです。

各国語で行われた典礼に与っているからと言って、そのような人々が、ラテン語の典礼に与っている人々よりもより良く、熱心に祈っている、心をより高く天主に挙げることができているとは、誰にも断言できません。

(もしかしたら、ラテン語だと多くの人々はその意味が理解できないかもしれないと思うかもしれませんが、翻訳した内容を読んで知ることができます。)

むしろ、歴代の教皇たちは「ラテン語の重要性」を訴え続けてきました。

たくさんの教皇様の名前を挙げることができますが、最近ではたとえば、ピオ十一世の書簡『Officiorum omnium 1922)』や、あるいは、第二バチカン公会議の真っ最中に出されたヨハネ二十三世の使徒憲章『 Veterum sapientia (1962)』、ベネディクト十六世の自発書簡 『Lingua Latina (2012)』などがあります。

そこで教皇様が一番強く訴えたのは、「カトリック教会が、どんな民族国家の言葉でもない言語、国を超えた(supranational)言語、普遍的な言語、そして意味の変わらない言語を使うことの必要性」です。

こうしてラテン語によって、ラテン語の一つの典礼によって世界が一つになり、世界中で全く同じミサが捧げられ、どのような国に行っても与ることができ、同じ聖歌を歌い、同じ聖歌で祈ることができるようになります。

【使徒継承の言語】

最後に、これは使徒継承の言葉であるからです。

迫害時代だったので、一世紀の初代教会の文献は失われてしまっていますが、教皇様たちの断言によって、あるいは言語学者たちの指摘によって、少なくともこれだけは言えます。

私たちが今捧げているラテン語のミサ聖祭には、典文あるいはカノンと言われている核心部分があります。

歴代の教皇様たちの断言によると、また言語学者の指摘によると、これは使徒聖ペトロの時代にまでさかのぼり(カノンの中に、殉教者など聖人の名前が後に付け加えられたことを除けば)今でも変わらずに同じ祈りを使っていて、誰もこれに手を付けることができないと言っています。全く同じ言葉で2000年間祈っているという事実です。

また、私たちがミサで歌っているグレゴリオ聖歌も、6世紀末の教皇大聖グレゴリオに由来しています。

典礼だけではなく、ラテン語は2000年間ヨーロッパ諸国の公用語でした。神学や哲学のみならず、法律、歴史、文学、経済、数学、幾何学、天文学、物理学、生物学、化学、建築、音楽、すべてはラテン語で書かれてきました。特に、ラテン語は使徒継承の言葉と呼ぶことができます。

【まとめ】

ですからこうして見ると、カトリック教会がラテン語でミサ聖祭を捧げることは、カトリック教会の「一、聖、公、使徒継承」という四つの印を完全に反映することができる「最高の賜物、すべての完全な贈り物」と言うことができるでしょう。

先週、以上のことを質問してくれた子供に答えました。すると、今度はその隣にいた侍者の子供がこう尋ねました。

「では、なんで日本語のバージョンがあるの? 日本語のミサがあるの?」

その時には、もう今のように答える時間がなくなってしまいました。

実は、私たちが守り、行なっているラテン語のミサ(聖伝のミサ)と、日本語のミサの違いは、ただラテン語が日本語になった、という違いだけではないのです。……えっ?

はい。もしも、聖伝のラテン語のミサが、ただ日本語になっただけだったとしたら、そんなに問題ではありませんでした。

ラテン語と日本語の違いというのは、聖伝のミサと新しいミサの違いについてのほんのちょっとした問題に過ぎず、それは大したことではありません。

私たち聖ピオ十世会がこのようにラテン語のミサのために働いているというのは、聖伝のミサが新しいミサになることによってミサが日本語になるという言語のことよりも、むしろミサが「天主に捧げる十字架のいけにえ」から「人間の兄弟同士の食事の集い(食事会)」に変わってしまうという問題があるからです。

これについては、また別の機会にお話しいたします。

【遷善の決心】

では、最後に遷善の決心をいたしましょう。

私たちは今、主の昇天と聖霊降臨を準備しています。

真理の霊である聖霊は、2000年間、カトリック教会を導いてきました。

そして、教会は多くの殉教者、聖なる男女を、数知れない多くの聖人聖女を、教会博士を生み出し、キリストに栄光を与え続けて来ました。

特に、聖霊が聖人を生み出すために使ったのは、この聖伝のミサ聖祭でした。私たちが与っているこのミサです。このミサを、ぜひ愛するようにしてください。

最後にマリアさまにお祈りいたしましょう。

マリア様の御取次を通して、私たちが主のこのミサ聖祭にとどまり続けることができますように。主の御昇天と聖霊降臨の準備を良くすることができますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。