聖ペトロの生涯と聖霊の賜物
2025年6月29日 使徒聖ペトロとパウロの祝日の主日
トマス 小野田圭志神父説教 聖母の汚れなき御心聖堂(大阪)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
先週の主日、私たちは御聖体の荘厳祭を行い、十字架の神秘について、また十字架の神秘を永続させる御聖体の神秘について黙想しました。イエズスにとって、十字架が御父への愛の核心であったとしたら、それは私たちにとっても同じです。
今日、教会は、この神秘を実現させた聖なる使徒、聖ペトロとパウロの大祝日を祝っています。ですから、今日は聖ペトロの生涯を黙想いたしましょう。
【生まれ】
ヨナの子シモン——後にイエズス様によってペトロと名前を付けられますが、彼はガリラヤ湖畔の町ベトサイダで生まれました。兄弟に使徒アンドレアがいます。また、同郷に使徒フィリッポがいます。イエズス・キリストが公生活を始めるちょうどその時に、シモンはカファルナウムに移り住んで、自分の家と船とをもっていました。その時、お父さんも一緒にカファルナウムに住んでいました。
最初、アンドレアがヨハネと一緒にイエズス様に会いに行きます。イエズス様と会って非常に感動した兄弟のアンドレアは、そのことを兄弟のシモンに言います。「メシア(キリスト)におあいした!」と言って、シモンをイエズスのところにつれてきます。すると、イエズス様はシモンを見つめてこう言うのです。
「あなたはヨナの子シモンだがケファ(岩の意味、つまりペトロ)といわれるだろう」と。こうして既に最初の出会いから、イエズス様はシモンがどのようになるか、どのようにお選びになるかということをご存じでした。決定的にシモンがイエズス様の弟子として呼ばれた時、シモン・ペトロは寛大に、自分の職業あるいは船、網、家族を全て捨ててイエズス様についていきました。その時、既にシモン・ペトロには、この地上のものがいかに儚いかという知識を与えられていたかのようです。
【聖ペトロの信仰】
今日の福音でもあったように、イエズス様がご自分のことについて尋ねたことがあります。「ところで、あなたたちは、私をだれだと思うのか」
すると、シモン・ペトロは「あなたはキリスト、生ける天主のおん子です」と宣言します。イエズス様はこう返事されました。
「シモン・バルヨナ(ヨナの子シモン)、あなたは幸いな人だ。その啓示は、血肉(自然)からのものではなくて、天にまします私の父から出たのである。私はあなたにいう。あなたはペトロ(巌、ケファ)である。私はこの岩の上に(おまえの上に)、私の教会をたてよう。地獄の門もこれに勝てないだろう。私は天の国の鍵をあなたに与えよう。あなたが地上でつなぐものはみな天でもつながれ、あなたが地上でとくものはみな、天でもとかれるだろう。」
聖ペトロは既に、イエズス・キリストがどなたであるかということを、特別なお恵みによって見抜いていたと言えます。聖ペトロの信仰は、まさにイエズス様のこの約束を勝ち取りました。
その後、聖ペトロは残念ながらイエズス様を裏切ってしまいます。女中の声に怯えてしまいました。しかしそれでも、イエズス様の聖ペトロへの選びは変わりませんでした。ご復活の後に、イエズス様は三度否んだペトロに三度こう尋ねます。
「ヨナの子シモン、あなたはこの人たちより以上に私を愛しているか?
(あなたは、他の人たちより私を愛しているか?)」
ペトロが「主よ、そうです。あなたがご存じのとおり、私はあなたを愛しています!」と答えると、イエズス様は「私の小羊を牧せよ!」とおおせられます。
イエズス・キリストが、聖ペトロに約束し要求したのは、たったこれだけ——「愛しているか、愛していないか」でした。
イエズス様は、ふたたび「ヨナの子シモン、私を愛しているか?」と訊かれます。「主よ、そうです。あなたがご存じのとおり、私はあなたを愛しています!」とペトロがこたえると、イエズス様は「私の羊を牧せよ」とおおせられました。
イエズスは三たび「ヨナの子シモン、私を愛しているか?」と尋ねられます。
三度も尋ねられるとペトロは非常に悲しんで「主よ、あなたは全てをご存じです。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです!」と言いました。
イエズス様は彼に「私の羊を牧せよ」とおおせられました。子羊を牧せよとは、イエズス・キリストに従う信徒のことを指すとすると、羊を牧せよというのは、他の使徒たちのことを指すと解釈されます。
こうして、イエズス・キリストの司牧の全権を受けた聖ペトロは、聖霊降臨後に、使徒たちを代表して、イエズスについてユダヤ人たちにこう宣言します。
「救いは主以外の者によっては得られません。全世界に、私たちが救われるこれ以外の名は、人間にあたえられませんでした。」(使徒行録4:12)
その後、聖ペトロは聖霊に満たされて宣教しますが、今日特に聖ペトロの中で取り上げたいのは「剛毅の賜物」です。
【剛毅】
私たちがこの地上で行うべき、最も偉大で、しかし最も困難な仕事とはいったいなんでしょうか?
それは私たちの霊魂の聖化です。私たちが永遠の救いに到達することです。
私たちは、天主の助けとともに自分の力で、この途方もない仕事を、生涯のあらゆる危険を避けながら行わなければなりません。
ところで、使徒の頭である聖ペトロが、さらに成し遂げなければならなかった仕事は、迫害の真っただ中にある全教会の統治でした。救霊のため、私たちに天主の無限の力が必要であるとしたら、教会の統治のためには、どれほどの力や助けが必要でしょうか?
しかし、聖パウロはこう言っています。
「わたしを強くしてくださる方によって、わたしはすべてのことができる」(フィリッピ 4:13)と。
つまり聖パウロや、そしておそらく聖ペトロも言おうとしたことは、私は天主にすがり、頼り、信頼しているので、天主が私を助けてくださり、私には必要なことが何でもできる。救霊の業もそして教会の統治の業も私にはできる。私が全てをなし得るのは、私が天主に依存しているからであり、天主の力を有しているからであり、天主の剛毅を身にまとっているからだ、ということです。
天主の力があれば、私たちはあらゆる困難に打ち勝つことができます。天主の全能の御手の中で、どのような障害でも善き目的のための手段となり、善とすることができるという確信です。この同じ強さによって、私たちはあらゆる危険に打ち勝つことができます。ですから、聖霊の特に剛毅の賜物によって、あらゆる危険や困難、葛藤や苦難の中にあっても、それらは私たちの霊魂に平安をもたらす確信、安心となります。聖人たちは地上の悪と地獄の力との戦いの中で、このように平和と幸福を保ちました。
【殉教】
最後に、聖ペトロはどのように殉教していったのでしょうか?
聖ペトロが後にローマに来て宣教し、ローマで殉教したことは歴史的な事実です。しかしながら、ローマでの正確な滞在期間はどうだったのか、正確な居住の場所、あるいは聖ペトロの宣教活動は具体的にどのようだったのか、どのような話をしたのか、詳しく知る資料は残されていません。しかし、多くの残された証言と記録によると、聖ペトロがローマの司教として働き、ローマの教会を創立し、組織して、ローマで殉教したということは確実に言える事実です。
聖ヨハネの福音の最後の章では、聖ヨハネの福音を読んだ読者が、聖ペトロがどのように死んだかについて既に知っていることを想定して書いているかのようです。
「これは、彼(ペトロ)がどんな死に方をして、天主に光栄を帰するかを示すためにおおせられたことである」(ヨハネ21:18-19)と書いています。
また、聖ペトロは書簡を書いていて、ローマのあだ名であった「バビロン」(黙示録17:5や18:10にもでてくる)という言葉を使って「バビロンにある教会と、私の子マルコから、よろしくといっている」(ペトロ前5:13)と言っています。ところで、この「私の子マルコ」というのは聖マルコのことですけれども、これについては、たとえばヘリオポリスの司教パピアスや、アレクサンドリアの司教クレメンテは、聖マルコがローマで福音を書いたと、ローマにいたことを記録しています。
教父たちの証言は数多くあり、たとえば、ローマの聖クレメンテは西暦95年~97年にコリント人へ手紙を書いて、その中で聖ペトロとパウロの殉教について記録を残しています。あるいは、リヨンの司教聖イレネオは、西暦180年ごろに、「すべての人々に知られている、ローマで、二人の最も栄光ある使徒ペトロとパウロによって創立され組織された最大の最も古い教会」と書き残しています。
エウゼビオの年代記や聖エロニモによると、聖ペトロはローマ皇帝クラウディウスの治世(聖エロニモによると西暦42年)にローマに来て、ローマ皇帝ネロの迫害の時、西暦67年に殉教しました。
バチカンの丘にあったネロのサーカス(競技場)で、ペトロは十字架につけられました。十字架につけられようとする時に、聖ペトロは自分から望んで、もったいない、イエズス様と同じような十字架ではもったいないから、逆さにしてほしいと、逆さづけにし、頭を下にして十字架につけてほしいと願ったので、その通りにされ、足は切り取られました。そして、最も偉大な幸福、最も完全な幸福は、苦しみという天上の幸福であると、イエズス様のために苦しむことはどれほど大きく完全で、天国のような幸せであるかと聖ペトロが言うことができたのは、剛毅の精神という賜物の影響下でのことでした。
【アッシジの聖フランシスコとその同伴者は、ある旅の途中、聖人が完全な幸福とは何かを説明しました。「兄弟レオよ、完全な幸福とは、キリストのために苦しむことである。」これは、聴衆に感銘を与えようとする学者の言葉ではありません。】
こうやって殉教した聖ペトロの遺体は、信者たちによって競技場のすぐ隣にあった墓に葬られました。記録が残る限り、西暦258年から、アッピア街道のカタコンベ(地下墓地)では、毎年6月29日に聖ペトロとパウロの記念が祝われています。
ところで、ローマ皇帝コンスタンティヌスは、313年にミラノの勅令を出して、教会に対する迫害を禁止し、キリスト教に自由を与えました。そして、今まで教会のものを没収し、迫害してきたことを償うために、教会をいくつか建てました。そのうちの一つが、聖ペトロ大聖堂でした。ローマの法律によると、お墓を破壊してはいけなかったのです。それさえも無視して、聖ペトロの墓の上にちょうど祭壇が来るように、傾斜していたバチカンの丘を真っ平にして、しかもその墓地の上に、大きな聖ペトロ大聖堂を建築しました。
今バチカンにある聖ペトロ大聖堂は二代目の聖堂で、ミケランジェロが設計したものです。ミケランジェロが設計したドームの真下には、ベルニーニが設計したバルダキノ(天蓋)があり、その真下に教皇祭壇があります。その教皇祭壇の真下の地下に、聖ペトロの墓があります。
プロテスタントの人々が、ペトロはローマに来なかった、あるいはそこに行って殉教したのではなかった、それが墓ではないと言い出したので、教皇ピオ十二世は偉大な決定をします。それは、このミケランジェロの聖ペトロ大聖堂の地下を発掘調査(1939~1949)するということです。もしかしたら、このミケランジェロの大聖堂が崩れてしまうかもしれない危険がありました。しかもその発掘と同時に、ミサの行事を中断させてはいけませんでした。そしてこの大事業は十年かかって行われたのですけれども、ついに聖ペトロの墓を発見しました。
墓の上にたてられた記念碑には、イエズス、マリア、ペトロの名前、Pに似た鍵のしるし、キリスト教のシンボルの落書きが多くあり、160年ごろの落書きで、ギリシア語で“Petros eni”「ペトロはここに」という書き込みも発見されています。
1952年には、Margherita Guardacciという女性の考古学者の研究によって、聖ペトロの骨の聖遺物も発見されました。それは70歳ぐらいで死亡した、体格の良い、骨太な男性の骨で、墓の土と同じ土がついていました。また紫の布と金の糸もつけられていました。これはローマ皇帝だけに許された特別のしるしです。足の骨はありませんでした。そしてこの事実は、1968年にパウロ六世によって公式に発表されました。
【遷善の決心】
最後に遷善の決心をたてましょう。イエズス・キリスト、真の天主に選ばれるとはどれほど光栄なことでしょうか。二千年前、ベトサイダという田舎に生まれたカファルナウムの漁師が、世界の歴史を変え、何億何兆という多くの人々の尊敬を集めるようになるとは! 今でも、その墓に何千何万という人が巡礼に行きます。
またもう一つ言えるのは、イエズス・キリストのくださる聖霊の賜物によって、私たちは、聖ペトロの模範のように偉大な信仰の人に変わることができるということです。また、私たちの信仰は、客観的な真理、歴史的な事実にもとづいているということもわかります。
イエズス・キリストは、ご自分の教会を聖ペトロの上に建て、そしてその教会は今でも続いています。使徒信経で私たちが宣言する通り、一、聖、公、使徒継承のローマ・カトリック教会です。天主が聖ペトロの上に立てた、この本当の宗教を皆さんと私たちは信じています。
マリア様に祈りましょう。私たちが、聖霊の賜物、聖ペトロの上に立てられたカトリック教会に対する信仰をますます深め、聖霊の賜物がますます与えられますように。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。