十字架の継続である御聖体の神秘

ソース: FSSPX Japan

2025年6月22日(主日)  御聖体の荘厳祭

トマス 小野田圭志神父説教  日本の聖なる殉教者聖堂(大宮)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は、聖体の荘厳祭を祝っています。ですから、御聖体の神秘を黙想いたしましょう。

先週祝った三位一体、この三位一体の真の天主への信仰、父と子と聖霊への信仰は、私たちを一つの頂点に導きます。その頂点とは十字架です。これこそが御父に対して本当の最高の栄光を帰すことです。十字架こそ、この地上における最高の愛の表現で、天主の聖なる御旨の核心です。

キリスト教が人類に啓示した最大の神秘が十字架の神秘です。この十字架の神秘を永続させるのが、続けさせるのが御聖体であり、ミサ聖祭です。ですから、御聖体は天主のお恵み、聖寵の生命の泉ともいうべきものです。「イエズス・キリストの十字架」に最も深い天主の愛の秘密があります。

聖パウロはこうも言っています「私は、イエズス・キリスト、十字架につけられたイエズス・キリストのほかには、何も知るまいと決心した」(コリント前22)と。またこんなことも言っています「私は、主イエズス・キリストの十字架以外の何ものをも、誇りとはしない」(ガラチア614)と。

教会も御聖体が制定された聖木曜日に十字架についてこう賛美しています。

Nos autem gloriari oportet in cruce Domini nostri Iesu Christi: in quo est salus, vita, et resurrectio nostra: per quem salvati, et liberati sumus.「私たちは、私たちの主イエズス・キリストの十字架において誇るべきである。ここにこそ私たちの救いと生命と復活がある。これを通してこそ私たちは救われ解放された。」

十字架と御聖体は切り離すことができません。十字架を通して私たちは主を賛美します、主に栄光を帰します。天主に栄光を帰すというのは、どういうことでしょうか? それは、主の無限の素晴らしさと全能を認めて、それを宣言することです。理性を持たない被造物たち、動物や植物は、天主の智恵と美しさを自分で反映することによって、間接的に賛美します。つまり、天主から受けた、完成させられたデザインにしたがって存在することで、天主の美を賛美しています。

そのことを十字架の聖ヨハネはこう歌っています。

「あまたの美をまきちらしながら、あのかたは足ばやに森をぬけていかれました。

つぎつぎにかれらに目をそそがれました。

そのお目にふれただけでかれらは美しい装いをあたえられたのです。」

Mil gracias derramando pasó por estos Sotos con presura,

e, yéndolos mirando, con sola su figura

vestidos los dejó de su hermosura.

ところで、私たち人間のように知性を持っている被造物は、天主の無限の偉大さと御稜威を知ることができます。愛をこめて主の御前に自分が無であると理解することができます。ですから、私たちは知性と意志を使って直接に天主を賛美し、天主に栄光を帰すことができます。知性的な被造物私たちは、天主について深く知れば知るほど、より自分が無であると理解できます。そうするとより深く自分を無とすることができます。そうすることで、より大きな栄光を天主に帰すことができます。

ただ、私たち人間は自由意志を悪用して罪を犯してしまいました。したがって罪を犯してしまった後では、天主に栄光を帰すということは、特別なことをしなければなりません。つまり罪の償いという性格を持たなければ、天主に栄光を帰すことができなくなりました。ですから、罪を犯してしまった私たち人間が、自分を無とするということは、罪の償いのために苦しんだり、屈辱や死を受けるということを意味するように変化してしまいました。

では、罪を犯した私たち人類が聖なる天主に完璧な栄光を帰すこと、それはどうしたらよいのでしょうか? それは御子イエズス・キリストのいけにえによってのみ果たすことができます。それ以外はあり得ません。イエズス・キリストは、天主御父の無限の偉大さを最高に完璧に知ることができるからです。また計り知れない巨大な無限の愛を込めて、十字架でご自分をいけにえとして屠ることができるからです。しかも、イエズス・キリストがなさったことは、この最高の犠牲が一度だけ捧げられるだけではなく、このいけにえが世の終わりまでずっと続くように、永続するようにしてくださいました。これが、御聖体という驚くべき奇跡によって私たちに与えられました。

十字架というのは、愛する方のために愛する方を高めて自分を無とするまで与えつくすことです。十字架というのは愛する方に自分を全部引き渡すことです。愛の対象である御方天主が、私たちの富となって、喜びとなって、私たちの全てとなることです。

十字架というのは、全てを放棄する天主への愛の表現です。福音にはイエズス様のたとえがこう語られています「畑にかくされている宝を見い出す人は、もっているものを全部売って、その畑を買う」とか、あるいは「価の高い美しい真珠一個を見つけると、もちものを全部売りに行き、それを買ってしまう」商人がいる、まさにこれです。愛する方のために十字架という宝を見つけて、そのために命を捧げてこれを得る、愛する人にとって命を捧げるということは最高の喜びだということです。

ところで十字架というのは、私たちが選んだ、愛するやり方ではありません。天主御自身が、このやり方で愛することを選ばれた愛し方です。聖ヨハネはこう言っています「主が、私たちのために命をささげられたことによって、私たちは愛を知った。」(1ヨハネ316

十字架の上でイエズス・キリストが私たちのために死なれたということによって、天主が私たち人間のためにどれほど愛されているかということを示されました。ですから、十字架は主の私たちに対する最高の表現だとも言えます。イエズス様の愛の犠牲によって、私たちは聖化されました。聖となりました。聖パウロはこのことを意味してこう言っています「このみ旨によって、ただ一度で永久にささげられたイエズス・キリストのおん体のささげものによって、私たちは聖とされた。」と。(ヘブレオ1010

天主は芸術家のようです。画家は色々な色を組み合わせて、統一された美を表します。音楽家も色々な楽器の調べや和音で、統一された音の美を表現します。天主は、全自然の大自然の全ての要素を使って、また歴史の流れを全て使って、超自然のお恵みをも使って、それを最高に組み合わせて、一つの統一された愛の美を表そうとしました。この愛の美は十字架というテーマで描かれています、奏でられています。十字架にこそ、世界と歴史、時と永遠、一致と美しさの秘密の原理があります。全宇宙の創造の秘密を握っている鍵が十字架にあります。イエズス・キリストは、生涯、常に御父に栄光を帰すことを望まれましたが、十字架を渇望しておられました。イエズス・キリストは、十字架の犠牲をこの地上で一度捧げられたばかりではなく、世の終わりまで続けられます。それが御聖体です。御聖体は、イエズス様のいけにえの状態が今でも続いているということです。御聖体というのは、御子の愛のうちに沈黙に続く勝利、世の終わりまで永遠に続く死ぬことのない愛、これです。イエズス様の御父への愛の永遠に続く表現である御聖体、そしてミサ聖祭こそが私たちカトリック信者の信仰生活の中心となるのはこれで当然だと言えます。イエズス様はですから、今日の福音にもあるように、私たちが御聖体におられるキリストによって生きるようにと招いておられます。主の招きに応じて、私たちも敬虔に御聖体を拝領いたしましょう。主はこう言います「私を食べる人も、私によって生きる。」(ヨハネ657-58

最後にマリア様にお祈りましょう。私たちが主の十字架の神秘を深くあじわい、御聖体を愛することができますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。