至聖なる三位一体の説教(大宮)

ソース: FSSPX Japan

聖三位一体

至聖なる三位一体の説教(大宮)

2025年6月15日 ロドルフォ・ヴィエイラ神父

至聖なる三位一体の説教

第一部
 今日は、最も偉大な信仰の神秘の一つである、至聖なる三位一体をお祝いしています。この祝日は、幼い頃からカテキズムで教えられてきた、キリスト教の中心となる真理の一つを、さらに深く掘り下げる助けとなります。
 天主を求める者にとって、最も基本的な真理は何でしょうか。聖パウロはこう答えています。「天主に近づく者は、天主が存在されること、天主を求める者に報いを賜うことを信じなければならぬ」(ヘブライ11章6節)。
 言い換えれば、天主が存在されること、天主は、善に報い、悪を罰するという正義のお方であることを、私たちは信じなければなりません。これら二つのことは、人間の理性で理解することができます。時計を見れば誰かが作ったと分かるように、被造物を見れば創造主が存在されることが分かります。これについては、信仰は必要ありません。理性だけで十分だからです。
 しかし、理性だけでは、天主に関するすべてのことを知ることはできません。そのためには、超自然の啓示が必要です。啓示の主な神秘は何でしょうか。
 天主が啓示された主な神秘です。カトリックの主な神秘であり、カテキズムで教えられているのは、啓示は十字架のしるしに要約されているということです。もしまだ洗礼を受けていない人が死にかけていて、この人にカテキズムを教えている時間がないとします。この人は何を学ばなければならないのでしょうか。二つあります。
 最初の神秘は、本日が祝日である、至聖なる三位一体の神秘です。一つの天主に、聖父、聖子と聖霊の三つの位格があるということです。十字架のしるしをするたびに、私たちが、その言葉で、この神秘を思い起こすことは、とても重要です。
 第二の主な神秘は、贖いです。三位一体の第二の位格である天主の御子は人となられ、童貞マリアからお生まれになり、私たちのために十字架上で亡くなられました。このことも、十字架のしるしに象徴されています。しぐさを通して。
 言葉で、三位一体と、その第二の位格が、私たちのために十字架上で亡くなられたという贖いのわざを思い起こします。もし誰かが死にそうでカテキズムを詳しく教えている時間がないとすれば、この人は信仰を持たなければならず、また少なくとも、これら二つのことを学ばなければなりません。カトリック信仰の最も重要な点です。
 三位一体の神秘は、天主により、福音書ではっきりと啓示されています。それでも、多くの人々がそれを否定しています。例えば、聖書に従うと主張するプロテスタントの中にも、三位一体を否定する人々がいます。天主によって啓示されている聖三位一体の神秘は、他の宗教ではまったく認識されていません。その人たちは、このことをまったく知らないのです。

第二部
 この聖三位一体の神秘は何を意味するのでしょうか。
天主は唯一である、Credo in unum Deum―われ唯一の天主を信ず、ということです。
 しかし、天主の内には、三つの異なる位格があります。すなわち、誰からも発出することのない御父、御父から生まれた御子、そして御父と御子から発出する聖霊です。
 これら三つの位格は、別個のものですが、天主の本性は一つしかありません。三つの位格は等しく永遠、無限、全能なのです。しかし、天主は唯一の神性から成る唯一の天主なのです。
 私たちの理性は、このことを部分的にしか理解できず、自力では決してこのことに到達できません。天主ご自身のみが啓示できる真理なのです。例えば、ギリシャの哲学者アリストテレスは理性だけを用いて、天主は唯一であると結論づけましたが、もし彼が今日まで生きていたとしても、その理性を用いて、三位一体を発見することは決してできなかったでしょう。私たちが天主の内的生命について知るには、啓示が必要です。三位一体は、天主の親密な生活に関するものであり、天主ご自身が、それを私たちに知らせることを選ばれたのです。
 私たちがこのことを理解する助けとなる、例えがあります。不完全ではありますが。
 ろうそくの炎は一つですが、暖め、照らし、燃えます。同じ炎に、三つの効果があります。
 私たちの霊魂には、記憶、知性、意志があり、一つの霊魂に三つの能力があります。ロヨラの聖イグナチオは、霊魂の能力について、頻繁にこう例えています。

 この神秘を私たちに啓示したのは誰か。三位一体の第二の位格である天主の御子、イエズス・キリストである。天に昇られる前に、イエズスは、次のような命令をお与えになった。
 「行け、諸国の民に教え、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けよ」(マテオ28章19節)。

 教皇ピオ十一世は、その回勅の中で、諸国民全体が真の天主、すなわち唯一にして三位一体なる天主を拒んだために、異教の時代よりもひどい野蛮に陥っていると警告しました。教皇はこう書いています。
 「われらの天主は、位格的であり、超越的であり、全能であり、無限に完全であり、三位一体において唯一であり、天主の本質の一致において三位一体である」。

第三部
 結論です。
 なぜ私たちは、この神秘を、至聖なる三位一体の神秘を知らなければならないのでしょうか。
 その理由は単純です。天主をもっと深く愛するためです。自分が知らないものを愛する人はいません。自分が知らないものを愛することができる人はいません。
 御父が宇宙を創造されたのは、私たちが被造物の美しさを見ることで、創造主へと心を上げるためです。
 御子は、私たちを贖うために、私たちの肉体をお取りになり、苦しまれ、亡くなられ、至聖なる御聖体において私たちの糧となられました。
 聖霊は私たちの内に宿られ、私たちを照らし、聖化してくださいます。
 自分が知らないものを愛することができる人はいません。ですから、何が善いのかを知れば、私たちは愛することができます。そうなります。
 至聖なる三位一体を知ることによって、私たちは聖三位一体をより深く愛することができるようになるのです。
 ミサにあずかるとき、私たちは単に義務からではなく、愛からあずかります。なぜなら、天主はたたえられるにふさわしいお方だからです。私たちが、天主が私たちのためにしてくださり、啓示してくださったすべてのことを認めていながら、天主を賛美することを拒むなら、それは恩知らずであるばかりでなく、実に不正なことなのです。

 殉教者聖チェチリアの遺体が見つかったとき、その遺体は腐敗しておらず、彼女の遺体は、片手の1本の指と、もう一方の手の3本の指で、至聖なる三位一体への信仰を告白し、偽りの神々であるローマの神々に対して香を焚くことを拒否していました。したがって、彼女は至聖なる三位一体への愛ゆえに亡くなったのです。そして彼女の遺体は、その三つにして一つであることを示している形で見つかりました。
 今日、偉大な聖人である聖チェチリアに求めましょう。聖人たちが天国で享受している愛と同じ愛で、天主を愛することを。恐怖や義務からだけでなく、天主なしでは生きられないからこそです。
 必要であれば、すべてを捨てましょう。しかし、唯一にして三位一体の天主だけは、決して捨てないでください。