イエズスの聖心に人類を献げて126周年

ソース: FSSPX Japan

1899年6月11日(日)、バチカンのパウロ大聖堂において、教皇レオ十三世は、聖心のマリア修道女のヴィジョンと自らの回勅『Annum Sacrum 聖なる年』に促され、全人類をイエズスの聖心に奉献しました。これはキリストの無限の愛と人類の救いへの希望を象徴するものです。

1899年の奉献の背景

1675年6月21日、パレー=ル=モニアルにおける"偉大な御出現"の後、聖マルガリタ・マリア・アラコックと福者クロード・ド・ラ・コロンビエールは、イエズスの聖心に自らを奉献しました。間もなく、多くの人々、個人、そして様々な修道会の会員が、この二人の模範に倣いました。 1683年という早い時期に、聖マルガリタ・マリアはルイ十四世にフランスを聖心に奉献するよう求めましたが、願いはかないませんでした。しかし、1792年、ルイ十六世は獄中で有名な「聖心への奉献の誓い(Vœu de Louis XVI au Sacré-Cœur de Jésus)」を書き上げました。これは19世紀フランスにおいて、この信仰を新たに呼び起こすきっかけとなりました。

1796年、チロルの人々はイエズスの御心と一種の同盟を結び、当時ヨーロッパを席巻していたイデオロギーの潮流に抵抗するために、イエズスの保護下に身を置きました。ポーランドとハンガリーもすぐにこれに続きました。これらは、人類に対する救い主の愛の支配を普遍的に肯定することになるものの、まだ慎ましい始まりに過ぎませんでした。

1844年、フランスで祈りの使徒職が設立され、「Adveniat Regnum Tuum(御国の来たらんことを)」というモットーのもと、これは信者をイエズスの聖心に結びつけました。 1863年、その代表で著名な神学者であったアンリ・ラミエール神父は、『イエズスの心の使者(Le Messager du Cœur de Jésus)』雑誌の記事を通して、聖心が家族、小教区、教区、そして国家を支配する社会的王権であるという考えを推進し始めました。1868年、ベルギーの司教たちは自国を聖心に奉献しました。

1870年の第一バチカン公会議では、多くの司教たちが教皇ピオ九世に対し、教会を聖心に奉献するよう強く訴えました。彼らの訴えは教会に向けられたものであり、まだ全人類に向けたものではありませんでした。戦争による公会議の中断により、この取り組みは中断されました。しかしながら、1873年、アイルランドの司教団はアイルランドを奉献し、エクアドルはガブリエル・ガルシア・モレノ大統領の指導の下、「聖心の共和国」であると公式に宣言した最初の国となりました。

1874年、ラミエール神父の勧めにより、トゥールーズのデプレ司教は世界中の司教に対し、1870年の請願を更新するよう訴えました。1875年4月、ラミエール神父は525人の司教が署名した請願書を教皇ピオ九世に提出しました。教皇はこの提案を当初の形で実施することはなかったものの、1875年4月22日に典礼省が布告した通り、世界中の司教に実施を認可しました。正式な奉献式が承認され、聖心の"偉大な御出現"200周年にあたる1875年6月16日に予定されました。教皇自らローマで奉献式を行うことになりましたが、政治的困難が続いていたため、バチカン大聖堂の壮麗な聖堂内では行われませんでした。

ラミエール神父は、奉献文が教皇に由来し、信者の奉献と併せて捧げられることを意図していたため、奉献はもはや単なる個人的な行為ではなく、普遍教会の表現となったと指摘しました。この最初の奉献は、聖心の信心における典型的な「償い(amende honorable)」の性格を帯びていました。すなわち、償うべき罪を明示し、奉献の目的を述べ、聖日の聖化を強調していたのです。

1880年、パライ=ル=モニアルに「イエズス・キリストの社会統治の会」が設立されました。後に「聖体の祝日の会」の名称でイタリア、スペイン、ポルトガルに広がり、聖体における救世主に対して社会的な償いを捧げることを目的としました。1888年4月10日、教皇レオ十三世はこの会の活動を正式に承認しました。1889年6月28日、教皇は聖心の祝日を一級に昇格させました。

レオ十三世による直接の準備と実現(1899年)

ポルトの善き牧者修道会の長上であった、聖心修道女マリー【俗名 ドロステ・ツー・ヴィシェリング(Droste zu Vischering 1863-1899)】の役割は、人類の奉献を早める上で極めて重要な役割を果たしました。この人類の奉献は、レオ十三世が1900年の聖年に向けて当初計画していたものです。1897年と1898年に、この英雄的な寝たきりの修道女に聖心が伝えたことは、教皇の行為において決定的な要因ではありませんでしたが(教皇は典礼省長官のマッツェッラ枢機卿に明確に述べています)、より早期の実施に(特に重病後の感謝のしるしとして)影響を与えました。

1899年4月2日、典礼省の教令「ウルビ・エト・オルビ」により、聖心の連祷の公的な使用が認可されました。挙げられた理由の一つに、全世界を聖心に奉献するという教皇の意図がありました。この教令はまた、準備期間である三日間にこれらの連祷を唱えることを規定しました。

1899年5月25日、回勅『アンヌム・サクルム』は、奉献を6月11日の日曜日、つまりその年の聖心の祝日を日曜日に移して祝うことを正式に発表し、義務付けました。回勅は、三つの原則に基づき、奉献の正当性を説明しました。すなわち、(1)全てを譲り受ける相続者として人となった御言葉が生まれつき持っている権利、(2)人となった御言葉が贖(あがな)いの業を通して獲得された権利、そして(3)人類の自発的な奉献という性格です。

ではなぜ世界を聖心に奉献するのでしょうか。教皇レオ十三世はこう答えました。「聖心とは、イエズス・キリストの無限の愛の象徴であり、目に見える姿であり、主の愛それ自体が私たちの愛を求めるからです。」

聖心に自分を奉献するということは、イエズス・キリストに自らを与えて結ばれることです。なぜなら、聖心へのすべての信心は、究極的にはキリストご自身になされる信心だからです。

こうして、初めて、奉献の儀式は教会だけでなく、全人類にまで及びました。教皇は、個人、国家、そして教会にとって豊かな霊的実りがもたらされることを期待していました。かつてコンスタンティヌス帝に十字架が現れ、教会の勝利を告げたように、今、私たちの時代に新たな天主のしるしが与えられていると、教皇は記しています。それは、十字架の冠を戴き、炎の中で輝くイエズスの聖心です。レオ十三世は、「私たちのすべての希望は、この聖心に託されなければなりません。この聖心に、私たちは人類の救いを求め、期待しなければなりません」と宣言しました。