御昇天後の主日の説教(大宮)

ソース: FSSPX Japan

主の御昇天

御昇天後の主日の説教(大宮)

2025年6月1日 ロドルフォ・ヴィエイラ神父

御昇天後の主日の説教―主の御昇天の利益

親愛なる信者の皆さま、

私たちは今、主の御昇天と、聖霊降臨の間にいます。

弟子たちが私たちの主イエズスを失うと思って悲しんでいたその時、イエズスは彼らに、ご自分が去ることが実際には彼らにとって良いことであり、ご自分が去ることは喜びの源となると語られました。

「だが、私はあなたたちに真実を言う。私が去るのは、あなたたちにとって良いことである。私が去らぬなら、あなたたちには弁護者は来ないからである。しかし、私が去れば、それを送る」(ヨハネ16章7節)

しかし、なぜイエズスが去られることが彼らにとって良いことなのでしょうか。法を定める者は、命令に従う者たちの近くにいて、命令を説明して彼らが命令を守るのを確実にすべきではないでしょうか。真理の教師は、自分がいなくなればすべてを失ったと感じる者たちと共にいるべきではないでしょうか。彼らがイエズスを目にすることができなければ、イエズスとその言葉を忘れてしまう危険があるのではないでしょうか。

しかし、天主の知恵はさらに先を見通します。イエズスが去ることを選ばれたのは、聖霊が私たちに送られるようにするため、また、あらゆるところにいるすべての人々が、イエズスの弟子となることができるようにするためでした。

イエズスがガリラヤで説教しておられた時、近くにいる者だけがイエズスの言葉を聞くことができました。群衆の一番後ろにいる者たちは、イエズスの言葉を、かすかなつぶやきでしか聞くことができませんでした。イエズスがカファルナウムの家に滞在しておられた時、入り口から人を押しのけて家に入り込み、イエズスの姿を垣間見ることができたのはわずかな者だけでした。病人たちがイエズスの服の房に触れるだけでも、大変な努力を要しました。盲人のバルティメオは、声がイエズスに届くようにするために、道端から大声で叫ばなければなりませんでした。イエズスがティベリア湖を渡られると、人々は湖を回り込んで、再びイエズスに会おうとしました。ローマも、スペインも、フランスも、イエズスがこの世におられたことを知りませんでした。イエズスと共にいることは、少数の者たちの特権でした―イエズスこそ、真に必要な唯一のお方であり、すべての霊魂の命そのものなのです。

このため、イエズスが去られることは良いことでした―それは、御昇天の後、復活された御体をオリーブ山の上の雲の中に隠すことで、イエズスが、より深くてより永続的な方法で私たちと共にとどまることができるようになるためでした。その方法とは、ご聖体における目に見えない現存によって、成聖の恩寵の状態にあるすべての霊魂に聖三位一体が住まわれることによって、そして、私たちに恩寵と真理を与える主の神秘体によってです。聖霊は教会の霊魂なのです。

司祭が赦しを与える時、罪人を赦して恩寵を回復させるのは、キリストご自身です。癒やされるために、私たちはもはや、イエズスが語っておられる家の屋根を壊す必要はありません。最も弱い者でも常にイエズスの足元にいることができ、私たちの誰一人としてイエズスの視線の外にいることはありません。

これこそが内的生活の始まりではないでしょうか。キリストが真に現存し、活動しておられ、キリストの群れの中にいる永遠の牧者であると信じて知ることではないでしょうか。キリストは神秘体の見えないかしらなのですから。そして、同じ賜物を受け、キリストの恩寵によって新たに形成された私たちが、キリストの神秘体の成員であると知ることこそが、キリスト教的愛徳の始まりではないでしょうか。

では、この実りによって、私たちは理解します。なぜ私たちが、諸聖人の連祷で、キリストの崇むべき御昇天の神秘によって恩寵を求めるのかを。私たちは理解します。なぜガリラヤで天使たちが使徒たちに、雲を見続けないように言ったのかを。キリストは、私たちから遠く離れたところにおられるのではありません。私たちの心を聖三位一体の住まいとするために、キリストが目に見える肉体を隠され、私たちに聖霊を、Dominum et vivificantem(主であり生命を与え給う御者)―主であり真の恩寵の命をもたらす御者を送ってくださることで、常にとどまることをお選びにならなかったならば、キリストから遠く離れている私たちは、平和を見いだすことはできなかったでしょう。

最後に、三位一体のエリザベト修道女の生涯を思い起こすことは意義深いことです。

三位一体のエリザベトは、幼少期から深い信仰心を持っていました。1880年、フランスのブルジュで生まれました。彼女は強くて勝気な性格でありながらも、強烈な内的生活を育みました。彼女は修道女の召命に従うため、結婚の申し込みをいくつか断りました。21歳の時、ディジョンのカルメル会修道院に入り、「三位一体のエリザベト」という修道名を取りました。

彼女の霊性は、キリスト信者の霊魂にましまし給う至聖なる三位一体の神秘を観想することが中心でした。エリザベトはしばしば、成聖の恩寵の状態にある霊魂に住み給う聖父と聖子と聖霊の神秘について語っていました。

彼女は次のような言葉で祈っていたものでした。

「ああ、わが天主よ、礼拝すべき三位一体よ、われを助け、完全に自分を忘れさせ給え。そは、わが霊魂がすでに永遠にいるかのごとく、静寂と平和のうちに、揺らぎなく御身のうちに生きんがためなり」。

彼女は26歳の若さで、苦しい病気で亡くなりましたが、その苦しみをキリストとの一致の精神で捧げました。彼女は内的生活の大家となりました。

こういう訳で、私たちは聖霊に対して、こう願うのです。私たちの心を住まいとしてくださいますように、神秘体の成員として生きることを、また、恩寵の神秘との一致のうちに、教会のすべての成員のために祈ることを教えてくださいますように。