御聖体の荘厳祭の説教
聖体行列
御聖体の荘厳祭の説教
2025年6月22日 大阪 イヴォン・フィルベン神父
親愛なる信者の皆さま、
もう一つの御聖体の祝日です! 復活節は終わりましたが、教会は私たちに対して、聖週間、特に聖木曜日に戻るよう求めています。書簡の中で、私たちは御聖体の制定の言葉を聞きます。「取って食べよ。これは、あなたたちのための私の体である。私の記念としてこう行え」(コリント前書11章24節)。御聖体は偉大な神秘ですから、教会は私たちに対して、御聖体に立ち戻って、その理解を深めるよう求めているのです。
この説教では、この「御聖体は現存である」という側面を、もっと深く探ってみたいと思います。
1)御体
今日、私たちはイエズス・キリストの御体、御聖体をたたえています。ご存じのように、祭壇の上で御体と御血は決して分離されることはなく、御血を聖変化させずに御体だけを聖変化させることはできません。もし司祭の行った御体の聖変化が無効で、御血の聖変化が有効だった場合、御体だけではなく、御体と御血の聖変化をやり直さなければなりません。
御体には、いと尊き御血と同様に、キリストのすべて、すなわち、キリストの御体、御血、御霊魂、御神性が含まれています。ホスチアをいただくことで、信者はキリストのすべてを受けます。しかし、御体と御血は、それぞれ独自の意味を持っており、そのため、それぞれに別の祝日が定められています。御体には、今日の御聖体の荘厳祭、すなわち御聖体の祝日、御血には、7月1日のいと尊き御血の祝日です。それぞれが、この神秘の異なる側面を表しています。つまり、御体は現存を表しており、御血はより明確にいけにえを表しているのです。
2)否定された現存
御体によって、私たちの主は私たちの中に住まわれますから、御聖体は御聖櫃に安置され、私たちはその御聖体に向かって礼拝の行為を行います。教会が今日の祝日で強調しているのは、この側面なのです。皆さまは、このことは明白になっていると思われますか。いいえ、この現存はプロテスタントによって否定されているだけでなく、教会内の近代主義によっても否定されているのです。
プロテスタントは聖書を理解せずに読んでおり、私たちの主が「これは私の体である」(同章24節)と言われるとき、主が本当に言っておられる意味、つまり、パンが主の御体になって、そのパンが存在する限り、主の御体が現存しているということを理解していません。プロテスタントはこのことを理解しておらず、キリストが現存するのは、行為の際にだけ、つまり、私たちがミサを捧げるときだけだと言っています。その時以外は、普通のパンに戻るというのです。現存するのではなく、すべては行為の際に存在するというのです。
残念ながら…。この誤謬は、公会議に続く典礼改革で、カトリック教会に浸透しました。ご存じのように、現代の日本のカトリック教会はどうかといえば、祭壇は内陣の中央にありますが、御聖櫃は内陣の隅の方か、離れた聖堂にあります。一方、第二バチカン公会議以前に建てられた教会を見ると、私たちの聖堂と同じように、御聖櫃は常に祭壇と一緒に、内陣の中央にあります。なぜこのような進化があったのでしょうか。なぜなら、典礼改革を行った人々は、プロテスタントと同じように、祭壇で捧げられるミサという聖体行為と、御聖櫃に安置されている「真の現存」とを分離したかったからなのです。彼らは、真の現存を完全に取り除いたわけでもなく、完全にプロテスタントになったわけでもありませんが、重要なのはミサが捧げられる祭壇であると言って、真の現存を脇に追いやったのです。こうして、彼らは、プロテスタントと危険なまでに接近してしまったのです。
一方、真のカトリック教会では、建物の中心は「真の現存」であり、この理由で、御聖櫃は中央に置かれているのです。
3)現存をたたえる
このようなプロテスタントの傾向とは対照的に、今日の祝日は、キリストの御体を、私たちの中におられる私たちの主の現存としてたたえるものです。ミサは単なる行為ではなく、交わりでもなく、現存を礼拝することなのです。これこそが、ミサのカトリック的な意味です。そしてこの理由で、私たちは御聖体のことを「祝福された秘跡」(Blessed Sacrament)と呼ぶのです。これ以上聖なる秘跡があるでしょうか。まったくありません。秘跡はすべて、等しくイエズス・キリストの恩寵を与えるものです。根本的な違いは、他の秘跡がすべて行為であるのに対し、この秘跡は現存であるということです。他の六つの秘跡では、例えば洗礼の水のように物質が用いられ、人に対して使用され、これが私たちの主イエズス・キリストの恩寵を与えます。「われ、…なんじを洗う」。洗礼が行われれば、この秘跡が授けられ、それで終わりです。ミサでは、パンとぶどう酒という物質が私たちの主イエズス・キリストそのものになります。ミサが終わると、すべてのホスチアが食べられるまで、私たちの主イエズス・キリストはとどまられます。それは単なる私たちの主の行為ではなく、主の現存なのです。主はそこにおられ、そこにとどまっておられるのです。
4)行列
今日の祝日は、御聖体についての唯一で真のカトリック的理解である「現存」を強調しようとしています。この現存を強調するために、ミサの終わりには、ホスチアをすべて御聖櫃に戻してしまうのではなく、ホスチアの一つを聖体顕示台に顕示します。このホスチアは祭壇に置かれたままで、すぐに御聖櫃に戻されるのではありません。その後、私たちは「祝福された秘跡」とともに行列を行い、この現存について「これこそ真の天主であり、天主はほかのどこにもおられない」と皆に伝えるために周辺の区画を一周します。
親愛なる信者の皆さま、ミサについての唯一で真の概念、すなわちカトリックの概念、つまり、御聖体が私たちの中に住まわれる、私たちの主の現存であることを、誇りに思いましょう。主がここにおられることを喜び、信仰をもって主とともに行列を行いましょう。