御復活後第四主日の説教―ミサ:天主の完全な賜物(2025年、大宮)

聖伝のラテン語ミサ
御復活後第四主日の説教―ミサ:天主の完全な賜物(2025年、大宮)
2025年5月18日 ブノワ・ワリエ神父
御復活後第四主日の説教「ミサ:天主の完全な賜物」
「すべての良い賜物と、すべての完全な賜物は、変わることなく変化の影さえもない光の父から、上から下る」(書簡)。
親愛なる兄弟の皆さま、
肺の呼吸から、霊魂を贖う恩寵に至るまで、あらゆる祝福は、時によって揺らぐことなく影によって汚されることのない「光の父」であるお方から流れ出るものです。
これらの賜物の中で、ミサの聖なるいけにえほど、光り輝くものはありません。
1. ミサ:天主の完全な賜物
聖ヤコボは、天主の賜物は完全なものであり、不変なものであり、命を与えるものであることを思い起こさせます。このことを、ミサ以上に証明するものがあるでしょうか。
御父は、限りないいつくしみのゆえに、「御自分の御子を惜しまずに」(ローマ8章32節)、私たちすべてのために御子を渡されました。このいけにえ、すなわち御子の十字架上の捧げ物は、歴史に限定されるものではありません。すべてのミサにおいて、時のベールが引き裂かれて開かれます。ゴルゴタで御血を流された同じキリストが、私たちの祭壇に降りて来られるのです。釘で刺し貫かれた同じ御手が、今、命のパンを裂くのです。
何という驚くべき賜物でしょうか。
2.聖伝のラテン語ミサ:崇敬の学び場
ミサを賜物として理解するためには、謙虚な心でミサの神秘の中に入っていかなければなりません。聖伝のラテン語ミサは、古代のリズムと荘厳さで、私たちに神聖さを教えてくれます。
―司祭:東を向き、「昇る正義の太陽」に対して、司祭は、執行者としてではなく、仲介者として、「キリストに成り代わって」(in persona Christ)立ちます。司祭の姿勢は、私たちを、司祭自身ではなく、司祭が再現するいけにえの主に向けさせます。
―言語:ラテン語は、古代の普遍的な言語であり、私たちを、かつて生きていたすべての聖人たちと一致させます。この教会の普遍言語は、特別な言語です。ラテン語が思い起こさせてくれるのは、ミサはまず天主への祈りであり、私たちが変更できるものではなく、畏敬の念をもって受け継ぐ遺産であるということです。この典礼は、聖霊によって何世紀にもわたって形成されたものであり、人間が発明したものではありません。この典礼は、天主の傑作であり、天が私たちのもとに降りて来るように、私たちの心を天に上げるように設計されているのです。
―感覚の言語:歌ミサでは、香が聖人の祈りのように立ち上ります(黙示録8章4節)。聖変化のとき鐘が鳴り、私たちを驚かせて畏敬の念を抱かせます。グレゴリオ聖歌は心を天に向かって上げ、その古代の旋律は天使の歌声を響かせます。私たちの体も、カテキズムと化します。両膝をつき、立ち、片膝をつきますが、それは空しい儀式のためではなく、全宇宙の礼拝にあずかるためなのです。
―沈黙:教会では、特にミサでは、静けさが支配します。内面への呼びかけがあり、心が詩篇作者の言葉を繰り返します。「静まれ、そして私が天主であると知れ」(詩篇46章10節)。
―ご聖体:聖体拝領では、天主の住まいである内陣を示す境界線の柵の前で両膝をつきます。私たちは、ふさわしくない物乞いのように近づき、王の中の王をお受けするために舌を出します。これは謙虚な姿勢であり、主の御稜威と、私たちがご聖体を必要としていることを認めるものなのです。
3.移り変わる世界にある安定
「すべての良い賜物と、すべての完全な賜物は、変わることなく変化の影さえもない光の父から、上から下る」。
私たちは混沌の時代に生きています。世界は漂流しており、教会は変化と近代化に熱心です。
しかし、聖伝のミサにおいて、私たちは錨を見いだします。ミサの祈りは、何世紀にもわたって変わることなく、嵐の海にある岩のように私たちを支えてくれます。
キリエ、グローリア、クレド、サンクトゥス、アニュス・デイといったミサ通常文は、何世紀にもわたって変わることがありません。この祈りは人間の言葉ではなく、天主の啓示に対して、教会が霊感を受けて応答したものなのです。私たちがそれを祈れば、聖アウグスティヌス、聖テレジア、聖フランシスコ・ザビエル、そして数え切れないほどの聖人たちとともに、時代を超えて合唱するのです。
聖伝のミサの持つ安定した周期的な繰り返しによって、私たちは、聖書と、聖人の徳に浸ることができます。毎年、天主の不変の教えが、朗読と説教を通して私たちに伝えられます。殉教者たち、童貞女たち、証聖者たちの祝日は、旧友のように戻って来て、天主のために、いかに生き、いかに死ぬべきかを教えてくれるのです。
ここには、目新しいものや自我の入る余地はありません。司祭のささやくような典文、香の煙、サンクトゥスの鐘の音、すべてがこう宣言しています。「これはあなたのためではなく、天主のためなのだ」と。
結論
親愛なる兄弟の皆さま、
天主の定義は、「私は在(いま)すものである」(出エジプト記3章14節)、同時に「天主は愛である」(ヨハネ第一書4章7節)です。天主は、永遠にして変わり得ない愛です。このため、聖ヤコボは、こう語るのです。「すべての良い賜物と、すべての完全な賜物は、変わることなく変化の影さえもない光の父から、上から下る」。
聖伝のミサにおいて、私たちは、時を超えたものに触れます。つまり、天使と聖人が、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな!」と叫ぶ、永遠の典礼を、前もって味わうのです。ミサの不変のリズムにおいて、私たちは不安を解消する解毒剤を見いだします。私たちが疑いに襲われるとき、ミサは、「私は常にあなたたちとともにいる」というキリストのお答えを伝えてくれます。
ミサという賜物を、決して当然のことだと思わないようにしましょう。
聖伝のミサという賜物は、昨日も、今日も、そして永遠に続くのです。
聖伝のミサを、御父の「完全な賜物」として大切にしましょう。聖伝のミサによりすがってください。そうすれば、私たちは、単に過去によりすがるだけではなく、永遠に到達するのですから。アーメン。