聖霊降臨後第七主日の説教―第二戒・表現の自由(大宮と札幌)
聖三位一体
聖霊降臨後第七主日の説教―第二戒・表現の自由(大宮と札幌)
2026年7月12日 イヴォン・フィルベン神父
聖霊降臨後第七主日の説教―第二戒・表現の自由(大宮と札幌)
親愛なる信者の皆さま、初めに、非常に不愉快なことを思い起こします。2年前にフランスでオリンピックがありましたが、その開会式で、主の晩餐をパロディにした卑劣な演出が行われたことを覚えておられるでしょう。その詳細については、ここでは触れたくありません。当時の教会当局者たちの反応はかなり控えめなものでした。彼らにとっては、先日の聖ピオ十世会の司教聖別の際の教会法違反のほうが、あの冒涜そのものよりも問題であったかのように思えます。実際には当時、ほとんどの司教がこの演出を批判し、カトリック信者を侮辱するものだと述べました。はい、確かにその通りです。しかし、人間を侮辱することよりも、さらに重大なことがあります。それは、天主御自身に対してなされる侮辱です。もっと具体的に言えば、それは十戒の第二戒「なんじ天主の名をみだりに呼ぶなかれ」の肯定的な表現である「なんじ天主の名を敬い、たたえるべし」に対する違反だったのです。実際、この掟は私たちが天主について語る時に使う言葉だけを指しているのではなく、天主に対する私たちの義務である、もっと全般的な敬意のことを指しているのです。非常に重要でありながら、現代社会においては非常に軽視されているこの掟について、この説教で説明したいと思います。
一)天主は敬われることを望んでおられる
現代社会は、表現の自由について盛んに語ります。現代社会によれば、私たちには、他人を傷つけない限り何でも言える権利があるのです。しかし、これらの社会は非常に重要なことを見落としています。それは、天主御自身が侮辱されたくないと望んでおられることです。天主は、御名がたたえられ、守られることを望んでおられるのです。
これは、旧約聖書の中に繰り返し現れるテーマです。天主は、聖なる御名が侮辱されたくないと望んでおられます。しかし、私たちはこれを、主イエズス・キリストの教えの中にも、つまり主が私たちに教えてくださった祈りである「主の祈り」にも見ることができます。この祈りでは、最初にこう願うよう求められています。「願わくは御名の尊まれんことを」。天主の御名を「尊ぶ」とは、その御名に対する敬意と賛美を表すという意味です。これが、この祈りの最初の願いです。
時折、次のような主張を耳にすることがあります。それは、天主に対する私たちの義務である敬意を軽視しようして、「天主はそれを超えた存在であり、私たちのようなあわれな人間の言うことによって侮辱されることはない」というものです。この反論は部分的には正しいため、私たちはこれに対応しなければなりません。天主の栄光はそれ自体において、人間の冒涜によって減じるものではあり得ません。天主は、聖三位一体の内で、御自身で永遠に栄光に満ちておられ、無神論者やフリーメーソン員の誹謗中傷であっても、天主の栄光のほんの一部分さえも奪うことはできません。
しかし、私たちは天主のもう一つの栄光、つまり天主の外的な栄光についても語ります。これは、被造物に知られるという天主の栄光のことです。「Gloria Patri et Filio et Spiritui Sancto」…と唱える時、私たちはこの外的な栄光を実現しているのです。この祈りを唱える時、私たちが表現しているのは、天主に栄光を捧げていること、また天主の栄光を認めていることです。天主の内的な栄光は変わりませんが、人間や天使によって認められる度合いに応じて、天主の外的な栄光は増大していきます。この理由で、天主は世界を創造されたのです。それは、天主の栄光が知られ、たたえられるためであり、また、被造物が天主の栄光へのこの感謝の行いに自らの幸福を見いだすためです。ちょうど作家が本を書くのが、読まれ、評価されるためであるように、天主は御自身の栄光が認められるために世界を創造されたのです。私たちの人生の目的は、天主の栄光を歌ってたたえることなのです。
二)冒涜の重大さ
そうすると、天主の御名を軽んじることは、単に多くの罪の中の一つにとどまらないこと、また、個人や国家、団体への単なる敬意の欠如と同列に扱うことはできないことが、お分かりいただけるでしょう。天主の御名をみだりに呼ぶことは、天主が宇宙を創造された目的そのものに反することに等しいため、はるかに深刻なことなのです。
また、天主を冒涜することは、他人が天主の栄光に注意を向けるのを妨げることでもあります。文学、音楽、映画、娯楽など、あらゆるところで天主が嘲笑されるとき、天主の御名の偉大さは忘れ去られ、誰も天主を礼拝しようとは考えなくなり、天主は冗談の一つになってしまうのです。このため、教会の敵どもは、おもに「表現の自由」の名によって、この種の冒涜を推し進めています。例えば、フランスでは、いわゆる「啓蒙主義」の著述家たちは、人々の心から宗教の影響を根絶するために、その著作で宗教を嘲笑したのです。
こうした理由から、旧約聖書の律法や、かつてカトリック国であった国々の法律では、冒涜は死刑で罰せられていました。これは厳しいと思えるかもしれませんが、この掟の背後にある重大さを理解すれば、完全に正当なことなのです。
三)実践的な考察
では、この掟に従うために、私たちは何をすべきでしょうか。
もちろん、この掟への直接的な違反とみなされ得るものはすべて拒絶しなければなりません。汚い言葉、不適切な歌、不適切な画像、不適切な書物――これらはすべて、私たちや私たちの家族の生活から追放しなければなりません。ここでついでに、日本の漫画について述べておきますが、その中には、カトリックの宗教的なテーマを使用しながら、それを歪曲しているものがあります。これは必ずしも直接的な冒涜とは言えないまでも、非常に不敬なものです。これらの書物は、私たちの身の回りから排除すべきものです。
公の場で冒涜が行われた場合には、聖ピオ十世会の長上たちからも勧められているように、私たちも償いの儀式に参加しなければなりません。
しかし、ここにはさらに微妙な危険が存在しています。あからさまな冒涜にまでは至らなくても、天主が本来あるべき形で礼拝されず、それが時には冒涜へとつながってしまう状況が存在するのです。残念なことですが、これが新しい典礼のケースです。新しいミサがそれ自体で冒涜であるとは言えませんが、新しいミサは当然天主に捧げられるべき正当な礼拝を完全には行っていない、また、ある場合には冒涜へとつながっている、と認めざるを得ません。例えば、手による聖体拝領は、必然的に御聖体が盗まれたり、床に落ちたりすることにつながります。したがって、それは冒涜へとつながる慣行なのです。天主の御名をたたえるためには、天主の御名を本来あるべき形でたたえる聖伝の典礼を固守することが重要です。私たちは聖伝の典礼を愛し、知り、守り、そして広めていかなければなりません。なぜなら、私たちの霊魂の救いだけでなく、天主の名誉が、それに懸かっているからです。
親愛なる信者の皆さま、私たちが主の祈りを、「願わくは御名の尊まれんことを」と唱え始めるときはいつも、天主の栄光のことを考えているでしょうか。天主の栄光を心に留めているでしょうか。天主の御名に対する敬意という点では、いわゆる「表現の自由」などというものは存在しないということを、私たちは周りの人々に知らせているでしょうか。