【参考資料】教会法的分析:2026年の聖ピオ十世会に関する教理省教令

ソース: FSSPX Japan

参考資料として、シャフツベリーの教会参事会員(ある主要大司教区の司法代理)がRorate Caeli に寄稿した教会法的分析を紹介する。この寄稿の責任は著者にのみ属し、Rorate Cæliの公式な立場を表すものではなく、聖ピオ十世会の公式的な立場を表すものでもない。

問題は、2026年7月2日に教理省が発表した教令および解説覚書(Explanatory Note)が、多くの人々が述べていること、つまり、6人の司教、700人以上の司祭、そして不特定多数の信徒の破門を実際に成立させたかどうかである。簡単に答えれば、この文書を教会法典に照らして読むならば、破門は成立していない。

この教令自体は、6人の個人の名前を挙げている。4人の新しい司教、主聖別司教(デ・ガラレタ司教)、および共同聖別司教(フェレー司教)である。最初の5人に対する告発は、教皇の委任なしに司教聖別を行った司教、および聖別を受けた司教に「伴事的制裁」(latae sententiae:いわゆる"自動的破門")の破門を科す教会法第1387条に基づいている。

ここで注目すべきなのは、フェレー司教が、第1387条ではなく一般的な離教の規定である第1364条第1項に基づいて告発されている点である。これは法的には、重大な相違である。教会法典は、認可されていない司教聖別を自動的に離教とは扱わない。フェルナンデス枢機卿が、この行為を離教的な特徴を持つものだとするために「エクレジア・デイ・アドフリクタ」(1988年)を援用したことは、論理の飛躍(「不従順の行為」から「教皇の首位権の全面的な拒絶」への飛躍)に依存している。しかし、この司教たちは教皇への忠誠を再確認しているため、これは本質的な飛躍ではない【異質で間違った飛躍である】。第751条の条文もこの飛躍を支持していない。何故なら、第751条は、離教を「服従の拒絶」、すなわち権威に対する全面的かつ意図的な拒絶と定義しており、単一の不従順の行為とは異なるからである。不従順と離教は別の罪である。権威を認めつつ「これを行うことはできない」と言うことは、「あなたには私に対する権威がない」と言うことと同義ではないからだ。

また、「刑罰を被ること」と「刑罰を宣言すること」は区別しなければならない。伴事的制裁(latae sententiae)の刑罰は、内面域(internal forum)において自動的なものであり、責任を帰することのできる性質のすべての条件が満たされていると仮定すれば、犯罪がなされた瞬間に付加される。しかし、これは「宣言された」罰と同じではない。第1720条は、いかなる罰が宣言される前であっても、被告が以下の手続きを受けなければならないと要求している。1)容疑と証拠が通知されること、2)弁明の機会が与えられること、3)法的および実際の理由を記した教令によって裁かれること。さらに第1341条は、刑事手続きを開始する前に、すべての司牧的救済措置(矯正、戒告、対話)が尽くされることを要求している。

聖ピオ十世会の司祭たちに対して、これらの手続きは一切行われなかった。教令全体の執筆および提示のされ方には、悪意の空気が漂っているように思われる。個別に名前が挙げられた司祭はおらず、告発も通知されず、弁明の機会も与えられなかった。この手続きの欠如がもたらす実際的な帰結は決定的である。第1335条第2項は、伴事的制裁の処罰が宣言されていない場合、信徒は任意の正当な理由のために秘跡や秘跡的な行為を求めることができ、役務者はそれらを提供することを妨げられないと定めている。有効な秘跡や正統な教理、そして厳かな礼拝への切望(これらはヨハネ・パウロ二世も「エクレジア・デイ」第5項で「正当な願望」と認めたものである)は、明らかに正当な理由を構成する。

解説覚書(Explanatory Note)にも問題がある。教令に付随する解説覚書は、法ではなく、教令でもなく、刑罰的戒令でもなく、司法判決でもない。それは教理的なコメントである。第7条は、法は公布されなければならないと定めている。第8条第1項に基づき、普遍法は「使徒座公報」(Acta Apostolicae Sedis)を通じて公布され、効力が発生するまでに標準的な「法律不実施期間」(vacatio legis、通常は3カ月)が設けられる。今回の注記はPDF文書で公開されたものであり、これらの要件を何一つ満たしていない。

第18条は、刑罰を科す、あるいは権利を制限するいかなる法的手段に対しても、厳格な解釈を求めている。ここでの厳格な解釈とは、その手段が「書かれている通りの文面を意味し、それ以上でも以下でもない」ということであり、曖昧な点は被告に有利に解決されなければならない。覚書によって教令の刑罰を勝手に拡張することはできず、警告を宣言に転換することもできない。

第29条および第30条は、覚書の効力の及ぶ範囲をさらに遮断している。共同体を縛る一般的な教令には立法権が必要であるが、行政の省である教理省は、明示的な教皇の権限の授与がない限り、その権限を持たない。覚書にはそのような権限の授与の引用はない。教理省が1996年の教皇庁法制評議会(Pontifical Council for Legislative Texts)の見解を「自らのものとする」と主張したところで、これらの欠陥がなくなるわけではない。その1996年の文書は、第16条第1項に基づく権威ある解釈として提出されたことは一度もなく、「使徒座公報」に公布もされておらず、法的拘束力のない教理的見解にとどまっている。見解を引用して採用したからといって、それが法に変わるわけではない。

さらに、教令自体の文法および文面が、広範な適用をできなくしている。教令は、名前を挙げた6人の司教以外の司祭や信徒に対して、彼らが破門されたとは述べていない。そうではなく、離教に固執し続けるならば破門を招くことになると警告している。これは将来の行為に対する条件付きの警告であり、現在の非難の宣言ではない。しかし、覚書の方は説明もなく直説法現在へと移行し、聖ピオ十世会の役務者は離教状態にあり、非難の対象であると主張している。同日に同じ署名で発行されたこの二つの文書は、文法的にも法的にも矛盾している。

第18条に基づき、二つの刑罰文書が衝突する場合、より限定的で処罰の軽い読み方を優先し、適用しなければならない。したがって、教令の条件付きの言語が優位にあり、覚書の直説法による主張が警告を遡及的に評決へと変えることはできない。

また、手続き的あるいは法的に見て、このような方法での集団破門は不可能である。それは教会法の慣行(praxis)に反する。第1321条第1項は、いかなる刑罰であっても、重く責任を帰することのできる外面的な違反を前提とすることを要求している。それは、特定のケースにおいて悪意または過失をもって犯された違反である。第1323条から第1324条は、責任を帰することのできる性質を排除または軽減する状況(法や付随する刑罰に対する過失のない無知、重大な恐怖、必要性など)を列挙している。これらを考慮することは任意のものではない。厳格な解釈の原則(lex odiosa restringenda sunt:不利益な法律は制限的に解釈されるべき)のもとでは、免責できる事情は、それが存在しないことが積極的に証明されない限り、機能していると推定される。個々の司祭や信徒の誰にも、そのような証明は提示も申し入れもされていない。

第1720条のもとでの「個別の告発」「個別の弁明」「ケース特定の判断」という必要条件は、集団に向けて発せられた単一の文書では満たされ得ない。そうしようと試みることは、単に手続き上の欠陥にとどまらず、教会法の慣行および推定を逆転させるものである。免責できる事情が適用されないことを証明する責任は告発する側にあり、適用されることを証明する責任は被告の側にはない。

ここには二重基準も働いている。これにも教会法的な根拠が必要である。第1341条、第1720条、第1321条の厳格な手続きの必要条件が存在するのは、まさに適正手続き(due process)なしには誰も処罰されないようにするためである。これらの必要条件は、今回の場合、その条件の違反を痛烈に強調した。教理省が、1)個別の告発なしに集団的な断罪を行い、2)教理的文書をあたかも公布された法であるかのように適用し、3)義務的な免責条項を無視し、4)自らの教令と自らが矛盾するならば、自らが引き合いに出す法に忠実であるよう信頼性をもって主張することなどできるはずがない。

最近の数十年で、これと同等の刑罰的対応を全く受けていない他の立場に対する見解がどうであれ、扱いの不均衡は明白な事実として記録に残るものである。法典は、対象が誰であれ、同じ手続き上の厳格さを要求する。その厳格さが選択的に適用されるとき、法の権威は、刑罰に抵抗する者によってではなく、刑罰を不適切に課す者によって損なわれるのである。

最後に、聖ピオ十世会によって執り行われる秘跡の、秘跡としての有効性は影響を受けないという点に注目すべきである。聖ピオ十世会の告解と婚姻の有効性は、破門の問題とは全く関係がない。

告解の権能(faculties)は、教皇フランシスコの使徒的書簡「ミゼリコルディア・エト・ミゼラ」第12項(2016年)という教皇の行為によって付与された。婚姻の委任は、2017年の「エクレジア・デイ」の書簡によって確認された。今回の覚書は、どちらも名前を挙げて撤回していない。第21条に基づき、前の法の廃止が推定されることは決してない。一つの省が、具体的な教皇の承認なしに教皇の行為を制限することはできず、引用もされていない。仮に将来的に撤回されたとしても、第144条は「共通の錯誤」(common error)または「確実かつ蓋然的な疑い」(positive and probable doubt)がある場合に、教会が補って裁治権を与える。聖ピオ十世会の法的地位に関しては、何十年にもわたり教皇庁の権威ある情報源から矛盾する声明が出されてきたため、善意で行動する司祭や信徒にとって、「確実な疑い」と「共通の錯誤」の双方が容易に成立する。

結論

2026年7月2日の教令が成立させたことはただ一つ、1988年以来の教会の実践と一致する形で、6人の司教を名指しして伴事的制裁の破門を被ったとしたことである。この教令はどの司祭の破門も宣言しておらず、その非難を拡張しようとする覚書は法律上有効な文書ではない。3代の教皇在位中において、聖ピオ十世会の司祭たちは一貫して教会法上不規則な状態(canonically irregular)として扱われ、破門としては扱われてこなかった。拘束力のない解説覚書がその状況を変えることはない。

聖ピオ十世会のミサにあずかり、同会の秘跡を求める信徒たちは破門されていない。名前を挙げられた司教たちに対する処罰は、それがかりに有効であったとしても、司祭たちに対して宣言されてはいない。宣言されていない処罰は、第1335条第2項に基づき、信徒が正当な理由のために秘跡を求めることを妨げない。そして、教皇の行為によって以前に付与された告解および婚姻の権能は依然として有効である。7月2日の文書は、信徒にとっての実際的な教会法上の状況を何ら変えるものではない。

ピーター・クワシニエフスキー

【訳者注:教会法における刑罰法には、根本的な原則がある。それは、緊急事態から必要に迫られて行動した者は、いかなる刑罰も受けない(Canon 1324)。1983年教会法典は、緊急事態の判断に誤りがあった場合でも、刑罰は科されないと明記している。実際には緊急事態がないにもかかわらず、緊急事態があると誤って信じた者も、教会法で自動的な刑罰(判事的破門)を受けることはない。したがって、聖ピオ十世会の司教は、破門されていないと結論づけらえる。】