第二戒「なんじ、天主の名をみだりに呼ぶなかれ」
2026年7月12日 聖霊降臨後第七主日
トマス 小野田圭志神父 説教 聖母の汚れなき御心聖堂(大阪)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
天主の十戒シリーズ第四回目です。今日は第二戒「なんじ、天主の御名をみだりに呼ぶなかれ」を一緒に黙想いたしましょう。
第一戒「われはなんじの主なり、われを唯一の天主として礼拝すべし」は、真の天主を、敬虔かつ信心深く、心と体をもって礼拝せよと命じています。唯一のまことの天主だけを礼拝せよという第一の掟には、必然的に第二の掟も含まれています。何故なら、天主を信じ、礼拝し、希望し、愛する人は、自然に、愛すべき天主の聖なる御名(みな)についても敬意を払いたいと思うからです。
ところで、私たち人間は口で過ちを犯しやすいので、憐れみ深い主は特別に第二戒を設けてくださり、当然なことを改めてはっきり宣言してくださいました。「なんじ、天主の御名をみだりに呼ぶなかれ。」
【1:第二戒が命じていること】
では、第二戒は私たちに何を命じ、何を禁じているのでしょうか?
この律法が命じていることは、主の御名を愛し敬うことです。畏敬の念をもってその御名にかけて誓うことです。たとえて言うと、皆さんの周りに、お友だちの中で、どこかの歌手のファンがいるかもしれません。そのファンが、自分の応援する人気歌手の名前を聞くとわーっと喜び、けなされると「なんだ」と言って怒るのを見るかもしれません。あるいは、私たちの祖国が、もしも不当に非難され、馬鹿にされるのを聞くと、私たちは非常に悲しみます。もしもそうであるならば、愛する天主の御名について、私たちはどれほどの愛の態度をとらなければならないことでしょうか!
今日の福音で主が教えておられるように、すべて良い木は良い実を結びます。天主を愛する人は、天主の御名を尊ぶ人です。心の中に満ち溢れるものが、口に自然と流れ出るからです。主の御名を尊ぼうとする人は、主の御国が来たらんように努める人です。天主の御旨が果たされることを願い、果たそうとする人です。
では、主の聖なる御名にふさわしい敬意を捧げるために、私たちはいったいどうすれば良いのでしょうか?
公教要理は五つのやり方を教えています。ぜひ今日は五つ覚えてください。
第一は「信仰を宣言すること」です。私たちが公の場所で、みんなの前で、ためらうことなく、唯一にして三位一体の真の天主を私たちの主であると告白し、イエズス・キリストを私たちの救い主として認め、公言するとき、私たちは天主を賛美していることになります。
第二は「聖書を学んで黙想すること」です。天主の聖なる御旨を伝える、主の聖なる御言葉を、信心と敬虔とをもって学び、深く黙想する。そして、それぞれの能力や機会に応じて、読んだり聞いたりすることによってその理解を深めようと努めるとき、私たちは天主を賛美していることになります。
第三は「賛美と感謝の生活をすること」です。行動をもって示すことです。私たちは、自分の務めと信心とから天主を賛美し、順境であろうと逆境であろうと、良いことが起ころうと辛いことが起ころうと、身に降りかかるすべてのことについて天主に特別な感謝を捧げるとき、主の御名を崇め、敬うことになります。どんなことがあろうと「主を賛美しよう」。そして「感謝をする」。これが第二戒を守っていることになります。
第四の方法は「懇願の祈り」です。私たちは、天主の助けを祈り求め、災いから救い出してくださるように、あるいはそれに耐える力と勇気を与えてくださるよう懇願し、祈り求めるときにも、天主の御名を敬うことになります。これこそ天主の御旨です。
【2:正しい誓い】
そして、第五は「正しい誓い」です。これについて少し説明させてください。特別でどうしても必要な場合、私たちが「これが正しい」と主張することの真実性を証明するために、天主を証人として立てる場合、天主の御名を敬うことになります。と言っても、誓いを立てることそれ自体は善いことですが、頻繁に行うことは決して称賛されるべきことではありません。何故かというと、誓いというのは、人間の弱さに対する一種の「治療薬」として、自らの主張を証明するための必要な手段として設けられたものだからです。何故かというと、この世の中には嘘や不誠実、背信や裏切りが蔓延してしまったので、人々は他者の言葉を容易に信じられなくなり、自らの主張の真実性を証明するために、天主を証人に呼び求めなければならなくなってしまったからです。でもこれは薬です。必要な時以外に薬を使うのは非常に危険なように、頻繁に誓いを立てるのは極めて有害です。ですから、重大で正当な理由がある場合を除いて、誓いを頻繁に立てるべきではありません。もしも簡単に誓いを立てると、有益どころか、かえって有害な結果を招いてしまいます。
それでも聖パウロは、偽りを罰する天主の裁きに自分を委ねてこう言っています。
「私は自分の霊魂について、天主を証人に立てるEgo autem testem Deum invoco in animam meam (コリント後1:23)」と。あるいはガラチア人への手紙の中では「天主の御前でちかって言うが私はいつわらない ecce coram Deo, quia non mentior.(1:20)」と言っています。【宣誓的誓い:現在または過去の事柄についてあることをおごそかに断言する】
また、聖ヨハネは黙示録の中で、天使たちも世々に生きるお方にかけて誓っていることを述べています(黙10:6参照)。
「私が見た海と地との上に立っていた天使は、天に右手をあげて、世々に生きるお方、天と天にあるもの、地と地にあるもの、海と海にあるものとを創られたお方を指して、こう誓った。『もうひきのばされることはない。第七の天使の声がひびき渡り、そのらっぱが鳴るとき、天主の奥義は、そのしもべである預言者たちがすでに示したとおり実現する』。」
あるいは、聖書によれば、天主ご自身も誓っておられます(ヘブレオ6:13参照)。「天主は、アブラハムに約束されたとき、ご自分よりも偉大なものを指してちかえなかったので、ご自分を指してちかって、『私はかならず、祝福をもってあなたを祝し、あなたをふやす』とおおせられた。」
ですから、誓いとは善いものですけれども、正しい誓いをしなければなりません。正しい誓いをするには、真実・判断・正義という三つの条件が必要です。まず、誓う事柄が真実でなければなりません。十分慎重に考えた上で誓わなければなりません。判断がなければなりません。また、正義(正しいこと)を誓わなければなりません。(もしも、不正なことや悪を約束した場合、誓いを立てることによって罪を犯し、約束したことを果たすことによって、さらに罪を重ねることになります。)
なぜ誓いはそんなに善いことであると言えるのでしょうか? 主を賛美することになるのでしょうか?
何故かというと、誓いとは信仰から来るものであるからです。私たちは、信仰によって次のことを信じています。
(1)天主がすべての真理の源であり、騙されることもなく騙すこともおできにならないお方であること。
(2)天主の御前にはすべてが明らかで、すべてをご存じであること(ヘブレオ4:13参照)。
(3)天主は感嘆すべき御摂理をもって、人間のすべての事柄について配慮し、世界を支配しておられること(マテオ6:26、10:28~31参照)。
このような信仰に満たされ、すべてを見通しておられる天主を真理の証人に立てて誓いを立てるのですから、天主を信用しないのは不敬虔で、罪深いことであると言わなければなりません。
【3:第二戒が禁じていること】
では、第二戒は何を禁じているのでしょうか? 第二戒が禁じていることは、天主の御名をみだりに呼ぶことですけれども、これはいったいどういうことでしょうか? いたずらに、無益に主の御名を使うとはどういうことでしょうか? 公教要理はいくつか例を挙げています。
【悪しき誓い】(悪い誓い)軽率な、熟慮のない、向こう見ずな誓いをすること、間違ったことを誓うこと、偽りを証言するために天主の御名を呼ぶこと、誓いを果たさないことは第二戒に反しています。また、偽りの神々や偶像の名を挙げて誓う者も、偽りの神々を、あたかも真の天主であるかのように呼び求めることですから、偽りの誓いを立てていることになり、第二戒に反することになります。
【聖書の乱用】聖書の本来の純粋な意味を歪め、不信心で異端的な解釈を施す者は、天主の言葉を不当に扱うことになります。本来、最大限の敬意をもって扱われるべき聖書の言葉や教えが、不敬な目的のために悪用される場合、第二戒に反しています。
【祈らない】苦しく辛い困難の時に天主の助けを求めないとき、天主に捧げるべき誉れを拒むことになり、第二戒に反します。
【冒涜】天主の至聖なる御名――すべての被造物が限りない賛美をもってたたえ、崇めるべき御名――や、天で天主と共におられる聖人たちの名を、あえて呪い、冒涜することは大きな罪です。天主の御名を腹立ちまぎれに言うことや、あざけることは恐ろしい罪です。かつて、私(小野田神父)が神学校にいたとき、フランス語で聖人の名を口にする際、「聖だれそれ」というように「聖」のタイトルを付けることが聖人を敬うことであり、付けないことは良くないと教わりました。
冒涜の罪とはあまりにも恐ろしく忌まわしいもので、恐ろしい罰を免れ得ません。冒涜とは、天主、聖母、聖人たち、あるいは聖なるものに対して、軽蔑や呪いの言葉を向けたり、そのような行為を行ったりする恐ろしい罪のことです。
呪詛(じゅそ)は、自分自身や隣人に対して災いを望んだり呪ったりすることです。
【遷善の決心】
では、最後に遷善の決心を立てましょう。
1846年9月19日、ラ・サレットの聖母が、子供たちを通して涙ながらに私たちへ訴えたことがあります。マリア様は、御子の手が人類を罰せざるを得ないほど重くなっているその理由を二つ指摘されました。マリア様が訴えた問題とは、地球を汚すことでもなければ、プラスチックのリサイクルをするという話でもありませんでした。マリア様の涙の原因の一つは、主日の無視(主日を守らないこと)でした。第二の理由が「冒瀆の罪」でした。マリア様はこうおっしゃったのです。
「もし、私の民が従おうとしないならば、私は御子の手がなすがままにせざるを得なくなります。その手は、もう私が支えることができないほど、ずっしりと重いのです。」
「私はあなた方に、六日間の労働の日を与え、七日目は私に取って置いたのに、誰も私にそれを承知したがりません。それが御子の腕をこんなにも重くしているのです。荷馬車を御する人々〔農夫たち〕は、御子の御名を途中に置かなければ話すことができません。つまり、主の御名をあまりにもみだりに使っています。これが御子の腕をこんなにも重くしている二つの事なのです。」
「もし収穫物が腐るなら、それはひとえにあなた方が原因です。私は去年、あなた方にジャガイモでそれを示しましたが、あなた方はそれを気にも留めませんでした。それどころか、ジャガイモが腐っているのがわかるとあなた方は口汚くののしりました。しかも御子の御名を用いてののしりました。ジャガイモは腐り続けるでしょう。御降誕祭には、もう何も残っていないでしょう。(…)大いなる飢饉がやって来ます。(…)飢えによって償いを果たすことになるでしょう。木の実は悪くなり、ブドウは腐るでしょう。」
では、現代ではいったいどうでしょうか? 私たちは、どのように天主の御名を賛美しているでしょうか? 私たちの周りをよく観察すると、天主であるイエズス・キリストへの礼拝よりも、人間の尊厳や地上の楽園の建設、自然環境の保全などが関心の中心となっているのではないでしょうか? 現代の「神学」と呼ばれるものが、天主のことよりは人間の尊厳を高めることだけに関心を求めて、人間を中心として世界を一つにまとめようとすればするほど、天国への希望がますます消えさり、天主の御名を畏れ敬う心がより一層無くなり、そしてこの地上には、以前にも増して戦争や飢饉が起こるようになってしまったのではないでしょうか?
唯一の天主に対する信仰・希望・愛が横に追いやられ、エキュメニズム運動や他宗教との対話と尊重が促進されています。残念ながら、ミサはプロテスタントのように新しくされ、御聖体は礼拝されていません。手による聖体拝領で冒涜されています。聖母の特権――マリア様が「共贖者」にして「すべての聖寵の仲介者」であることは否定されています。歴代の教皇様たちが教えた教えが、暗黙のうちに実践で否定されています。司祭の独身性については、疑問視され、廃止させようと動いています。しかし、このようなおかしな動きがいつまでも続くことはありえません。何故なら、地獄の門は教会に打ち勝つことがないと約束されたからです。
そして、ベネディクト十六世は、かつてこうおっしゃったことがあったのではないでしょうか?
「過去の人々にとって神聖だったものは、わたしたちにとっても神聖であり、偉大なものであり続けます。それが突然すべて禁じられることも、さらには有害なものと考えられることもありえません。」(ベネディクト十六世、司教への手紙、2007年)
つまり、カトリック教会が2000年間、神聖なものとして愛し続けてきた、唯一の天主とその御名、その典礼、ミサ聖祭、信心生活――わたしたちは皆、カトリック教会の信仰と祈りの中で成長してきた富を守りながら、それにふさわしい場所を与え、賛美し続けていかなければなりません。そのために必要な手段を講じましょう。最後にこの遷善の決心を立てて、主の御名を、教会がやり続けてきたやり方で、教会が教え続けてきたやり方で賛美し続けるという決心を立てましょう。そのために、マリア様の御取り次ぎを乞い願いましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。