聖霊降臨後第八主日の説教―第三戒・安息日を聖とするとは(大阪と名古屋)
聖グレゴリオのミサ
聖霊降臨後第八主日の説教―第三戒・安息日を聖とするとは(大阪と名古屋)
2026年7月19日 イヴォン・フィルベン神父
聖霊降臨後第八主日の説教―第三戒・安息日を聖とするとは(大阪と名古屋)
親愛なる信者の皆さま、
さて、最も美しい掟の一つである第三戒に移りましょう。まず、これが肯定形の掟であることに注目してください。ヘブライ語では、前の二つの掟が「するなかれ」で終わっていたのに対し、この掟はヘブライ語では、次のような言葉になっています。「なんじサバトを聖とすることをおぼゆべし」(出エジプト記 20章8節)。したがって、これはただ禁じられたことを行ってはならないだけでなく、行わなければならないことに関する肯定形の掟なのです。禁じられたことを避けるだけでなく、何かを天主のために行わなければなりません。つまり、天主に奉仕しなければならないのです。
一)安息日
まず、安息日と訳されている、聖書で使われている「サバト」(Sabbath)という言葉に立ち返ってみましょう。この言葉は、本来は「休息」ではなく「活動をやめること」を意味しています。天地創造の七日目に、天主は休息をとられたのではなく、その働きをやめられたのです。そして、私たちの人生の目的は、天主とともに働きをやめることです。人生の目的は、人間的な活動に追われることではありません。それも私たちの人生の重要な部分ではありますが、そうではなく、人生の目的は、天主の休息に入ることなのです。
この「やめること」の目的は何でしょうか。聖書の文章を追ってみましょう。「このため、天主は七日目を聖なるものとして祝福された」。聖書で使われている「聖なるものとする」という言葉は非常に力あるものです。「聖なるものとする」とは、天主のようになることを意味します。この意味は、天主は、ご自身のために取り分けておられた一日を私たちに与えられ、その日をご自身のようなものとしてくださるということです。この日は、私たちが天主のために取り分けておく日であり、天主とともに過ごす天国での生活を前もって味わうものなのです。
したがって、この日はただ体力を回復させて、一週間を効率的に働くための休息の日ではなく、天上の生活、すなわち天主の聖性における生活を前もって味わうものなのです。
この天主の掟は自然法の一部ですが、この掟によって指定される具体的な日が何曜日であるかは、旧約聖書と新約聖書で異なっています。天主がその問題の日を変更されたからです。旧約聖書では週の七日目である土曜日でしたが、新約聖書では週の最初の日である日曜日となっています。
二)義務
この掟を守るためには、何が必要でしょうか。これは肯定形の掟であることを忘れないようにしましょう。私たちは、ただ禁じられたことを避けるだけでなく、天主のために何かを行わなければならないのです。
1)礼拝
この日を聖とするために要求される第一のことは、礼拝です。極めて具体的に言えば、これは主日のミサに行って、適切にミサにあずかることを意味します。つまり、ただ肉体的にその場にいるだけでなく、霊魂のすべてがミサの本質に完全に一致することなのです。
主の日の目的は天主を礼拝することであるため、その礼拝に関連するすべての活動、つまり音楽を演奏したり、教会の掃除をしたりといったことは、この日には許されます。
教会が厳格に要求しているのはミサに出席することだけですが、天主に奉仕し天主を賛美することは、この厳格な義務を上回るものです。したがって、家族でロザリオを祈ったり、教会で行われる晩課に参加したり、子供たちにカテキズムを教えたり、霊的読書をしたりすることなどは素晴らしいことです。
2)他人への奉仕
しかし、私たちのカトリックの信仰において、天主への奉仕は他人への奉仕と決して切り離せないものであることを忘れないようにしましょう。主の日は、他人を顧みずに誰もが自分の好きなように過ごす、自己中心的な日であってはなりません。その反対に、共同体として過ごす日であるべきです。例えば、小教区で企画される共同の食事会に参加するというのは良い考えです。また、疎遠になっている家族とつながりを持つこと、つまり招待したり、電話をかけたりといったこと、あるいは高齢の一人暮らしの隣人たちの様子を確認するといったことにも適した日です。簡単に言うならば、この日には、利己主義や個人主義と戦いましょう。スマートフォンに没頭する日ではありません。むしろスマホを置いて、大切な人たちと時を過ごしましょう。
3)肉体労働を避ける
この天主への奉仕を確実なものにするため、教会は肉体労働を控えることを要求しています。これは、体力を激しく消耗して天主について考えることを妨げてしまうような仕事を指しています。モラリストたちは、妥当な理由なしに主日にこのような労働に2、3時間以上を費やすならば、重い罪を犯すことになると述べています。この規則は、過酷な農作業が多かった昔の時代の社会背景から生まれたものです。現代ではこのような状況は稀ですが、私たちはその規則の精神、すなわち、天主のことを考えることを妨げる労働を控えるという精神を維持しなければなりません。ファリザイ派のようにならないようにしましょう。主日をネットサーフィンで過ごす人は、この掟の精神を大切にしていません。その一方、リラックスするためにガーデニングをする人は、この掟を破ってはいないのです。
同様に、売ったり買ったりする商業活動は、主日には禁じられています。ただし、その日の家庭生活に必要な買い物は例外です。
主日に試験勉強をしていいですか、という問いに対しては、「はい」と答えられますが、それに一日中取り組むべきではなく、またやむを得ない理由がある場合だけです。土曜日までに済ませるように努力すべきです。
私たちは、自分の主日の活動を、この掟の精神に照らして評価するように求められています。「この活動は、私が天主のことを考えるのを妨げているだろうか」「この活動は、私を隣人から孤立させているだろうか、どうだろうか」。
三)例外規定
最後に、この掟の重要な側面である例外的なケースについて説明しなければなりません。主日に働かなければならない人や、子供たちの世話に追われている人などです。どのように考えるべきでしょうか。
第一の規則。愛徳は、この掟を厳格に守ることよりも優先します。人を助けるため、子供たちの世話をするためといった理由があれば、主日に労働をすることができます。また、医師などの公共の利益に奉仕する職業についても、同じ規則が適用されます。
第二の規則。必要は法を有せず。他に選択肢がない人々は、この掟を守ることが不可能であるため、罪を犯すことにはなりません。主日に働かなければ職を失い、家族の生計を立てるのが脅かされるような状況にある人は、掟を守ることが不可能です。もちろん、キリスト教徒の生活により適した仕事を見つけるよう努力すべきです。また、身体的な理由でミサに参列できない場合も、同じ規則が適用されます。
もしそれが愛徳の義務であったり、客観的に不可能な状況であったりする場合には、司祭に義務の免除を求める必要はありません。その状況には、ただこの掟が適用されないからです。しかし、不可能であるかどうかがそれほど明白でない場合には、主任司祭に免除を求めなければなりません。この免除を与える権限があるのは主任司祭だけであり、告解を聞くだけの司祭にはありません。
親愛なる信者の皆さま、この掟は非常に美しいものです。なぜなら、私たちを天主に奉仕するように招き、それによって永遠の命への準備をさせてくれるからです。自分が主日をどのように過ごしているか、よく調べてみましょう。