聖ピオ十世会総長インタビュー「至高の法は霊魂の救い」

ソース: FSSPX Japan

Suprema lex, salus animarum 至高の法は霊魂の救い」

私たちの使徒職の正当性と、私たちに頼る人々への使命の正当性は、究極的にはこの至高の原理にかかっています。

1. SSPXニュース:総長様、聖ピオ十世会の司教聖別式を7月1日に執り行う意向を公表されましたが、なぜ本日2月2日に発表されたのですか?

ダヴィデ・パリャラーニ神父:聖母マリアの御浄めの祝日は、聖ピオ十世会にとって非常に重要な意味を持ちます。司祭職の候補者がスータンの着衣をする日です。今日私たちが祝う、主が神殿に奉献された神秘は、彼らに、聖職への養成と準備の鍵はマリアの手を通して自己奉献することにあることを思い起こさせます。これは極めて重要な聖母マリアの祝日です。なぜなら、シメオンは聖母に悲しみの剣を予告することで、天主の御子に寄り添う共贖者としての役割を聖母にはっきりと示したからです。聖母は、主の地上での生活の始まりからカルワリオでの犠牲の完成に至るまで、主と深く関わっていたことが分かります。同様に、聖母は将来の司祭の養成と生涯を通して彼に寄り添います。司祭の霊魂に私たちの主イエズス・キリストを形作り続けるのは、まさに聖母なのです。

2. この告知は、ここ数ヶ月、特に2024年10月にティシエ・ド・マルレ司教が逝去されて以来、しつこく噂されていました。なぜ今まで待ったのですか?

ダヴィデ・パリャラーニ神父:ルフェーブル大司教の時代と同様に、聖ピオ十世会は常に摂理に先んじることなく、摂理に従い、その導きに身を委ねるよう注意してきました。このような重要な決定は、軽々しく、性急に下すべきではありません。

特に、これは明らかに教会の最高権威に関わる問題であるため、まず聖座に働きかけ、そして相当の時間をかけて回答を得る必要がありました。そして、私たちは実際にそうしました。教皇の権威を具体的に認めて表明することなしに、このような決定を下すことはできませんでした。

3. 説教の中で、教皇に手紙を書いたと述べられていますが、それについて詳しく教えていただけますか?

ダヴィデ・パリャラーニ神父:昨年の夏、私は教皇に謁見を要請する手紙を書きました。返事がなかったため、数か月後にもう一度手紙を書きました。簡潔で忠孝な態度で、私たちの要望を一切隠さずに伝えました。教義上の相違点だけでなく、私たちは教会のしもべでありますから、教会法上の地位は認められていないものの、カトリック教会にたゆまず奉仕をしたいという真摯な願いも述べました。
この二通目の手紙に対し、数日前、ローマからフェルナンデス枢機卿からの返事を受け取りました。残念ながら、それは私たちの提案を完全に無視し、私たちの要望に応えるものは何一つありませんでした。
この提案とは、聖ピオ十世会が置かれている極めて特殊な状況を踏まえ、私たちに霊的助けを求める人々の善のために、私たちの例外的な状況を一時的に継続させることを聖座にお願いするというものです。私たちは教皇に対し、聖伝を守るために全力を尽くすこと、また私たちの信者たちを教会の真の子らとすることを約束しました。この提案は現実的かつ合理的であり、それ自体が教皇の承認を得られるものと考えます。

4. しかし、もしまだこの承認を得ていないのであれば、なぜそれでも司教聖別を進めなければならないと感じているのでしょうか。

ダヴィデ・パリャラーニ神父:これは極端な措置であり、現実的でかつ同様に極端な必要性に比例しています。もちろん、霊魂たちの善のための必要性が存在するだけでは、それに応えるいかなる取り組みも直ちに正当化されるわけではありません。しかし、私たちの場合、長い期間の待機、観察、そして祈りを経て、霊魂たち、聖ピオ十世会、そして教会が置かれている深刻な必要性という客観的な状況が、このような決断を要求していると言えるように思われます。
フランシスコ教皇が私たちに残した遺産により、1988年の司教聖別をすでに正当化した根本的な理由は今もなお完全に存在し、多くの点で新たな緊急性をもって現れています。第二バチカン公会議は、これまで以上に教会指導者を導く羅針盤であり、彼らが近い将来に別の方針を取る可能性は低いでしょう。新しい教皇の統治のために既に示されている主要な方向性、特に前回の枢機卿会議を通して示された方向性は、まさにこのことを裏付けています。すなわち、フランシスコの歩みを教会全体にとって不可逆な道として堅持するという明確な決意が示されたのです。

認めるのは悲しいことですが、次のことは事実です。一般の小教区では、信者たちはもはや永遠の救いを確かなものにするために必要な手段を見いだせなくなっていること。これは特に、教会がこれまで常に行ってきたように、カトリックの真理と道徳の完全な説教、そして秘跡の執行に関わるものです。これが必要の状態の本質です。この危機的な状況において、私たちの司教たちは高齢化しており、使徒職の継続的な拡大に伴い、世界中の信徒の必要に答えるにはもはや十分ではありません。

「私たちは教皇に対し、聖伝を守るために全力を尽くすこと、また私たちの信者たちを教会の真の子らとすることを約束しました。」

5. フランシスコ教皇がとった方向性(を教皇レオ十四世が同じく取っているの)は、先月の枢機卿会議のどこで確認されると思いますか?

ダヴィデ・パリャラーニ神父:フェルナンデス枢機卿は、教皇レオ十四世の名前で、教会に対し、フランシスコ教皇の重要な回勅『福音の喜び』で示された根本的な直観に立ち返るよう呼びかけました。これを簡単に言うと、福音の宣教を、福音の本質的で原初的な表現、すなわち非常に簡潔で力強い表現――「ケリュグマ」(訳注:宣教という意味のギリシア語)――へと還元する、ということです。そして「体験」つまりキリストとの直接的な出会いを念頭に置き、どれほど貴重であろうと他のすべてのものを脇に置くのです。その他すべてとは、具体的には、聖伝のあらゆる要素の全体で、これは二次的かつ付随的なものとみなされます。この新たな福音宣教の手法こそが、フランシスコ教皇在位期間に特徴的な教理的空虚を生み出しました。教会のあらゆる層が、この空虚さを痛切に感じています。

もちろん、この観点によれば、新しく生じる問いに対して常に新しく適切な答えを提供するよう努める必要があります。しかし、この課題は、シノドスによる改革を通して達成されるべきであり、教会の聖伝によって示された古典的で今もなお有効な答えを再発見することによって達成されるべきではない、とされます。このようにして、このシノドスによる改革の「聖霊の息吹」によって、フランシスコは離婚・再婚したカトリック信者への聖体拝領の認可や同性カップルの祝福といった、教会全体に破滅的な決定を下すことができたのです。

要するに、「ケリュグマ」を通して、福音の宣教は聖伝の教義と道徳の全体から切り離され、聖伝による答えは、シノドス主義を通して、恣意的で、容易に不条理となる、教義的には正当化されない決定に置き換えられてしまっています。陳日君枢機卿自身も、この手法は操作的であり、それを聖霊に帰することは冒涜的であると考えています。残念ながら、私は彼の言うことが正しいのではないかと危惧しています。

6. 総長さまは教会への奉仕について語っていますが、実際には、特に司教聖別を行おうとして、聖ピオ十世会は教会に挑戦しているという印象を与えかねません。教皇さまにはどのように説明されますか?

ダヴィデ・パリャラーニ神父:私たちは何よりもまず、霊魂たちに奉仕することによって教会に奉仕します。これは他のいかなる考慮の点からも独立した客観的な事実です。教会は根本的に霊魂たちのために存在し、その目的は霊魂の聖化と救いです。あらゆる素晴らしい演説、様々な議論、議論されている、あるいは議論される可能性のある壮大なテーマは、霊魂の救いを目的としていなければ無意味です。このことを覚えておくことは重要です。なぜなら、今日、教会はあらゆることに、あるいは何でもないことに囚われてしまう危険があるからです。例えば、環境問題への関心、あるいは少数派、女性、移民の権利へのこだわりは、教会の本質的な使命を覆い隠してしまう危険性があります。聖ピオ十世会が聖伝を、それに伴うあらゆるものと共に保存しようと努めるのは、ひとえにこれらの宝が霊魂の救いに不可欠であり、霊魂の善と、霊魂の聖化のために叙階された司祭職の善のみを目的とするからです。

「一般の小教区では、信者たちはもはや永遠の救いを確かなものにするために必要な手段を見いだせなくなっていること。…これが必要の状態の本質です。」


そうすることで、私たちが守っているものを教会そのものに奉仕するために提供します。私たちが教会に提供するのは、古くて埃っぽい品々を集めた博物館ではなく、豊かで実り豊かな聖伝、霊魂を聖化し、変容させ、召命を生み出し、真にカトリック的な家庭を育む聖伝です。言い換えれば、教皇御自身のため、教皇としての教皇のために、私たちはこの宝をその価値が再び理解される日まで、教皇自身がそれを全教会の善のために用いることを望むその日まで守ります。なぜなら、聖伝は教会に属するからです。

7. あなたは霊魂の善について語っていますが、聖ピオ十世会には霊魂に関する使命はありません。それどころか、聖ピオ十世会は50年以上前に教会法的に廃止されました。聖ピオ十世会の霊魂に対する使命は、どのような根拠で正当化されるのでしょうか?

ダヴィデ・パリャラーニ神父:それは単なる愛徳の問題です。私たちは、自分たちにない使命を課したくはありません。しかし同時に、ますます困惑し、方向を見失い、迷っている霊魂たちの霊的な苦悩に応えることを拒むことはできません。彼らは助けを求めて叫んでいます。そして長い間探し求めた後、彼らは全く当然のことながら、自分たちが見出した教会の聖伝の豊かさを完全に生き、深い喜びと光と慰めを受けています。私たちは、たとえ公式の使命を持っていなくても、これらの霊魂に対して真の責任を負っています。もし誰かが路上で危険にさらされている人を見かけたら、たとえ消防士でも警察官でもなくても、その人の能力に応じて助ける義務があります。
このように私たちに助けを求める霊魂たちの数は、長年にわたって着実に増加しており、ここ10年間でさらに大幅に増加しました。彼らの必要を無視し、見捨てることは、彼らを裏切ること、ひいては教会自身を裏切ることを意味します。なぜなら、繰り返しますが、教会は霊魂たちのために存在し、無益で空虚な言説をあおるために存在するのではないからです。

この愛は、他のすべてを律する義務です。それを規定しているのは教会法そのものです。教会法の精神において、この愛徳の法的表現において、霊魂たちの善は何よりも優先されます。それは真に法の中の法であり、他のすべての法はこれに従属し、これに対立するいかなる教会法もこれに優ることはありません。「Suprema lex, salus animarum 至高の法は霊魂の救いである」という格言は、教会法の伝統における古典的な格言であり、さらに1983年の教会法典の最終の条文によって明確に繰り返されています。現在の困難な状況において、私たちの使徒職の正当性と、私たちに頼る人々への使命の正当性は、究極的にはこの至高の原理にかかっています。私たちにとって、それはまさにこの愛徳の名においてなされる、補足の役割なのです。

8. 司教聖別を行うことを考えると、聖ピオ十世会に通う信者たちがジレンマに陥る可能性があることをご存知ですか。それは、完全な聖伝とそれが意味するすべての側面を選ぶか、それとも教会位階制との「完全な」交わりを取るか、という選択の問題です。

ダヴィデ・パリャラーニ神父:このジレンマは、現実には表面的なものにすぎません。カトリック信者は完全な聖伝と位階制との交わりの両方を保たなければならないことは明らかです。この二つの善はどちらも必要であり、どちらか一方を選ぶことはできません。

しかしあまりにも忘れられがちなのは、交わりとは本質的にカトリック信仰に基づき、さらにカトリック信仰が意味するすべてのもの、すなわち真の秘跡生活、またこの信仰を説き実践させる統治の行い、自分の権威を恣意的にではなく、真にその保護に委ねられた霊魂の霊的善のために用いること、にこの交わりが根ざしていることです。

これらの基盤、これらの条件――教会における交わりの存在そのものに必要な基礎――を保証するためにこそ、この交わりに反対しこれを歪めるいかなるものも、聖ピオ十世会は受け入れることができません。たとえそれが――逆説的に――教会において権威を行使する者から発せられたものであってもです。

9. 聖ピオ十世会が受け入れることのできないものの具体的な例を挙げていただけますか?

ダヴィデ・パリャラーニ神父:最初に思い浮かぶ例は、2019年に遡ります。フランシスコ教皇はアラビア半島を訪問した際、あるイマームと共に有名なアブダビ宣言に署名しました。教皇はイスラム教指導者と共に、宗教の多元性は天主の智恵によってそのように欲せられたものであると確認しました。

このような声明を受け入れることに基づく、あるいはそのような声明を含む交わりは、明らかにカトリックではありません。なぜなら、それは第一戒に反する罪であり、使徒信経の第一条を否定することになるからです。私はこのような声明は単なる誤り以上のものだと考えています。それは全く想像もできません。それはカトリックの交わりの基盤となるどころか、むしろその解体の原因となるでしょう。カトリック信者は、そのような発言を受け入れるくらいなら殉教を選ぶだろうと思います。

10. 世界中で、特にインターネット上で、聖ピオ十世会が長らく非難してきた誤りに対する認識が高まっています。司教聖別のような強力な公的行為で介入するよりも、天主の摂理に信頼を置きながらこの運動を発展させる方が適切ではないでしょうか。

ダヴィデ・パリャラーニ神父:この運動は確かに前向きであり、私たちはただ喜ぶしかありません。これは確かに、聖ピオ十世会が擁護するものには根拠があり健全であることを示していますし、この真理の普及はあらゆる利用可能な手段によって促進されるべきです。しかしながら、この運動にも限界があります。なぜなら、信仰の戦いは、ウェブやソーシャルメディア上の議論や立場によって限定され、消費されるものではないからです。

霊魂の聖化は確かに真摯な信仰告白にかかっていますが、それは真のキリスト信者としての生活につながるものでなければなりません。ところで、主日に霊魂たちはインターネットのプラットフォームでの内容を見る必要はありません。彼らには、告解を聞き、教え導いてくれる司祭、ミサを捧げてくれる司祭、真に聖化して天主へと導いてくれる司祭が必要です。霊魂は司祭を必要とします。しかし、司祭を持つためには司教が必要なのです。「インフルエンサー(インターネットで影響力を持つ人)」ではありません。言い換えれば、私たちは現実に立ち返らなければなりません。つまり、霊魂たちの現実、霊魂たちの具体的で客観的な必要に立ち返らなければならないのです。司教の聖別の目的は、聖伝に忠実な信者のために、堅振、叙階、そしてそこから生じるすべてのものを確実に執行すること以外にはありません。

11.自分では善意に満ちているにもかかわらず、聖ピオ十世会は、ある意味で自分を教会であると考えたり、かけがえのない役割を担っていると考えてしまう可能性はないでしょうか。

ダヴィデ・パリャラーニ神父:聖ピオ十世会は、教会に取って代わると主張したり、その使命を自分のものと主張したりすることは一切ありません。むしろ、その反対に、教会自身が常にどこででも普遍的に説き、信じ、成し遂げてきたことのみに基づいて、教会に奉仕するためだけに存在しているという深い自覚を持ち続けています。

聖ピオ十世会はまた、教会を救うのは自分たちではないことも深く認識しています。なぜなら、私たちの主だけがご自分の花嫁である教会を守り、救って下さる方であり、主だけが教会を常に見守ってくださっているからです。

聖ピオ十世会は、ただ単に、自分が選ばなかった状況において、教会に忠実に留まるための特権的な手段に過ぎません。二十世紀にわたり教義と秘跡によって子供たちを養ってきた母なる教会の使命を心に留め、聖ピオ十世会は忠孝の念をこめて完全な聖伝の保存と擁護に身を捧げ、この遺産に忠実であり続けるために比類のない自由という手段を使っています。

ルフェーブル大司教の言葉を借りれば、聖ピオ十世会とは単に「教義を伝え続けるカトリック教会の」一つの事業にすぎず、その役割は「郵便配達人」です。そして、聖ピオ十世会はすべてのカトリック司牧者たちがこの義務を果たすために聖ピオ十世会と一緒になるのを見ることを何よりも望んでいます。

12. 教皇の話に戻りましょう。教皇が、聖ピオ十世会が教皇の委任なしに司教を聖別することを受け入れ、あるいは少なくとも黙認できると考えるのは現実的でしょうか。

ダヴィデ・パリャラーニ神父:教皇は何よりもまず父親です。ですから、父親として、例外的な状況において、正しい意向、教会に仕えるという真摯な意志、そして何よりも真の良心の問題を見抜くことができます。これらの要素は客観的であり、聖ピオ十世会を知る人なら誰でも、必ずしもその立場を共有していなくても、これを認識できます。

13. 理論的には理解できます。しかし、実際、ローマは聖ピオ十世会のこのような決定を黙認できるとお考えでしょうか?

ダヴィデ・パリャラーニ神父:未来は、教皇の手、そしてもちろん摂理の手に委ねられています。しかしながら、聖座は、霊魂たちの善のために行動していると確信している時には、ある種の実用主義、驚くべき柔軟性さえ示すことができることを認めなければなりません。

中国政府との関係という、まさに現在の例を考えてみましょう。中国愛国協会という真の離教があるにもかかわらず、ローマに忠実な沈黙の教会への絶え間ない迫害があるにもかかわらず、中国政府によって協定が定期的に更新され、破られているにもかかわらず、2023年にフランシスコ教皇は中国当局による上海の司教の任命を遡及的に承認しました。

さらに近年では、教皇レオ十四世自身が、使徒座の空位中に同様の方法で任命された新郷の司教の任命を、遡及的に最終的に受諾しました。当時、ローマに忠誠を誓い、幾度も投獄されていた司教は依然として在任中でした。どちらの場合も、これらは明らかに親政府的な高位聖職者であり、中国カトリック教会を統制する目的で北京が一方的に押し付けたものです。重要なのは、これらが単なる補佐司教ではなく、それぞれの司教区(または地区)の司教区長で常駐の司教、つまり地元の司祭と信徒らを管轄する裁治権をもった司教であるということです。ローマでは、これらの司牧者らが選ばれ、一方的に押し付けられた目的はよく知られています。
 

「聖ピオ十世会は、霊魂の善と、霊魂の聖化のために叙階された司祭職の善のみを目的とする」

聖ピオ十世会のケースは全く異なります。私たちにとって、共産主義や反キリスト教の勢力を支持することではなく、王たるキリストの権利と教会の聖伝を、これらが深刻に損なわれている危機と混乱の時代に、いかに守るかが問題なのです。両者(中国愛国協会と聖ピオ十世会)の意図と目標は明らかに異なります。教皇もこのことをご存じです。さらに、聖ピオ十世会が司教たちにいかなる裁治権も与えるつもりもないこと、つまり、もしもそうしたとしたらそれはもはや並行教会の創設に等しいことを、教皇は十分にご存じです。

率直に言って、北京政府よりも聖ピオ十世会による霊魂へのより大きな危険を教皇が恐れるとは考えられません。

14. 聖伝のラテン語ミサに関して、霊魂の必要性は1988年当時と同じくらい深刻だとお考えですか?聖ピオ五世のローマ典礼が経験した紆余曲折、2007年のベネディクト十六世による自由化、そして2021年のフランシスコ教皇による制限を経て…新教皇はどのような方向へ向かうのでしょうか?

ダヴィデ・パリャラーニ神父:私の知る限り、レオ十四世はこの件に関して一定の慎重姿勢を維持しており、保守派の間で大きな期待が寄せられています。しかしごく最近、ロッシュ枢機卿による典礼に関する文書が公開されました。この文書は、当初は先月の枢機卿会議に参加した枢機卿向けに書かれたものでした。そして、その概要において、教皇が望む方向性と一致していることに疑いの余地はありません。非常に明快で、何よりも論理的で首尾一貫した文書です。しかし残念ながら、それは誤った前提に基づいています。

具体的には、この文書は(教皇フランシコの文書)『トラディチオニス・クストデス(聖伝の保護者)』と完全に一致しつつ、ベネディクト十六世の典礼構想を非難しています。ベネディクト十六世によれば、旧典礼と新典礼はほぼ同等の形式であり、いずれにせよ同じ信仰と教会論を表現し、したがって互いに豊かにし合うものでした。教会の一致を重視するベネディクト十六世は、両典礼の共存を強く推進し、2007年に『スンモールム・ポンティフィクム』を刊行しました。多くの人々にとって、これは天主の摂理による永遠のミサ(聖伝のミサ)の再発見でしたが、長期的には、新典礼に疑問を投げかける運動も引き起こしました。この運動は問題視され、2021年に『トラディチオニス・クストデス』がこれを阻止しようと試みました。

フランシスコに忠実なロッシュ枢機卿は、教会の一致を主張していますが、その理念と手段はベネディクト十六世のそれとは正反対です。改革を通じて各典礼から他の典礼への連続性は維持しつつも、両典礼の共存には断固として反対しています。彼はそれを分裂の源、一致への脅威と見なし、真の典礼的交わりに戻ることで克服しなければならないと述べています。「教会の一致の根本的善は、分裂を『凍結』することではなく、共有することしかできないものを分かち合うために皆が一つになることによって得られる」と。教会は聖伝の真の意味と完全に調和する「ただ一つの典礼だけ」を持つべきである、と。

これは正当かつ一貫した原則です。教会は唯一の信仰と唯一の教会論を有し、それらを適切に表現する唯一の典礼を持つことしかできないからです。…しかし、この原則は不適切に適用されています。なぜなら、ロッシュ枢機卿は、公会議後の新しい教会論に一致して、聖伝は進化するものであり、新しい典礼こそが現代における聖伝の唯一の生きた表現であると考えているからです。したがって、トリエント典礼の価値は時代遅れになるばかりで、その使用はせいぜい「譲歩」であり、「決して推進」ではない、とされます。

したがって、現在、二つの典礼の間に「分裂」があり、互いに相容れないことは、今やより明確になっています。しかし、誤解のないようにしてください。教会、キリスト教生活、カトリック司祭職の聖伝による概念を、不変かつ進化することなく適切に表現する唯一の典礼は、常に存在してきた典礼です。この点において、聖座の反対はかつてないほど覆すことのできないものとなっているようです。

15. しかしながら、ロッシュ枢機卿は、典礼改革の実施において依然としていくつかの問題があることを正直に認めています。このことは、この改革の限界を認識することにつながるとお考えですか?

ダヴィデ・パリャラーニ神父:60年が経過した現在でも、典礼改革の適用における真の困難が依然として認められていることは興味深いことです。この典礼改革の豊かさを見出すことができるはずだ、と叫ばれています。これは、この問題が取り上げられるたびに私たちが常に耳にしてきた言葉であり、ロッシュ枢機卿の文書もそれを避けていません。しかし、新しいミサの本質的な欠陥、ひいてはこの改革の全体的な失敗を真摯に問う代わりに、教会が空になり、召命が減少するという事実を認める代わりに、なぜトリエント典礼がこれほど多くの霊魂たちを惹きつけ続けているのかを問う代わりに…ロッシュ枢機卿は、信徒と神学生の緊急の事前教育以外に解決策はないと考えています。

彼は気づかぬうちに悪循環に陥っています。実際、霊魂を形成するのは典礼そのものです。ほぼ2000年の間、しばしば読み書きのできない霊魂は、事前の訓練を必要とせずに、典礼そのものによって教育され、聖化されてきました。ノヴス・オルド(新しいミサ)が霊魂を教育する能力を本質的に欠いていることを認識せず、さらに優れた訓練を要求するのは、私には救いようのない盲目の兆候のように思えます。これは衝撃的な逆説につながります。つまり、改革は信者の参加を促すことを目的としていたにもかかわらず、この味気ない典礼が信者を養うことができなかったため、信者はこぞって教会を去ったのです。そして、これは改革そのものとは何の関係もないはずだ、とされています!

16. 今日、多くの国々で、聖ピオ十世会以外の団体が依然として1962年ミサ典礼書の使用から恩恵を受けています。1988年には、そのような可能性はほとんど存在しませんでした。当面は、このミサ典書で十分な代替手段となり、新たな司教聖別は時期尚早となるのではないでしょうか。

ダヴィデ・パリャラーニ神父:私たちが自問すべき問いは、これらの可能性は教会と霊魂の必要とするものに合致しているだろうか、ということです。霊魂の必要を十分に満たしているでしょうか。

聖伝のラテン語ミサが執り行われる場所ではどこでも、新しい典礼には見られない深い聖性を伴う、教会の真の典礼が輝きを放っていることは否定できません。しかし、これらのミサが行われる文脈を無視することはできません。関係者の善意にかかわらず、特にロッシュ枢機卿が確認した『トラディチオニス・クストデス』以来、枠組みは明確です。それは、パウロ六世の典礼のみが公式の「通常の」典礼であるという教会の枠組みです。したがって、聖伝の典礼の執行は例外的な体制の下で行われます。つまり、この典礼の信奉者は、無償の好意により、それを行うことを許可するという特例を受けます。しかし、これらは新しい教会論の論理の一部であり、したがって、新しい典礼が信者の信心の基準であり、教会生活の真の表現であり続けることを前提としています。

17. なぜこの例外的な枠組みを無視できないと言うのですか? あらゆる状況にもかかわらず、何か良いことが行われていないでしょうか? 具体的にどのような結果が残念なのでしょうか?

ダヴィデ・パリャラーニ神父:この状況から、少なくとも三つの有害な結果が生じています。最も差し迫ったものは、深刻な構造的脆弱性です。トリエント公会議の典礼を用いる特権を享受している司祭と信者たちは、将来への不安の中で生きています。特権は権利ではないからです。当局が彼らを容認している限り、彼らは邪魔されることなく宗教活動を続けることができます。しかし、当局が特定の要求をしたり、特定の条件を課したり、あるいは何らかの理由で突然許可を取り消したりすると、司祭と信者たちは、霊魂が当然期待する聖伝の支援を効果的に保証するための防衛手段を持たずに、葛藤状況に陥ってしまいます。しかし、教会の生活に関する二つの相容れない概念が、相容れない二つの典礼に体現され、一方が完全な正当性を与えられ、他方が単に容認されているだけであるとき、どのようにしてこのような良心のジレンマを永続的に回避するのでしょうか。

さらに、そしてこれは間違いなくより深刻なことですが、これらのグループがトリエントの典礼に固執する理由がもはや理解されておらず、教会の聖伝の公の権利、ひいては霊魂の善が深刻に損なわれています。もし、全時代のミサを捧げるのが、教会のどこででも現代のミサが執り行われることを受け入れてしまい、特定の好みや特定のカリスマに結びついた個別の特権としてだけしか聖伝のミサの執行を主張しないのならば、この全時代のミサが新しいミサに常に根本的に対立しあうこと、全教会にとって唯一の真の典礼であり、誰もそれを行うことを妨げられないということを、私たちはどのように理解できるでしょうか。パウロ六世のミサがミサに関するカトリック神学から大きく逸脱しているため認められないという事実、そして誰もそれを執り行うよう強制されるべきではないという事実を、私たちはどのようにして知ることができるのでしょうか。そして、どのようにして霊魂たちは、この毒された典礼から効果的に引き離され、カトリック典礼の純粋な源泉に浸ることができるのでしょうか。

「聖ピオ十世会は、ただ単に、自分が選ばなかった状況において、教会に忠実に留まるための特権的な手段に過ぎません。」


最後に、前述の二つの点から生じるより広範な帰結は、当局に都合の悪い行動をとることによって、脆弱な立場を危険にさらすことを避ける必要性です。このため、多くの司牧者は、信仰や道徳を腐敗させるスキャンダラスな教えに反対の声を上げる際に、沈黙を強いられます。こうして、この毒入りの食べ物によって脅かされている霊魂たちの善のために求められている告発、教会を破壊している誤りを指摘するために必要な告発は、麻痺してしまうのです。人々、ある誤りやその誤りの有害性をまだ見分けられるうちは、内々に啓蒙活動を行いますが、それはもはや臆病なささやき声に過ぎず、真理は必要な自由をもって自らを表現するのに苦しんでいます…。特に、暗黙のうちに受け入れられている原理に異議を唱える場合においてはなおさらです。ここでもまた霊魂は、もはや照らされておらず、教義という糧を奪われながらも、なお真理に渇望しているのです。時が経つにつれ、こうしたことが徐々に人々の心を変え、教会生活に影響を与える様々な改革が、すこしずつそして無意識のうちに、広く受け入れられるようになるでしょう。聖ピオ十世会は、このような霊魂に対しても、彼らを見捨てるのではなく照らす責任を感じています。

重要なのは、誰かを非難したり裁いたりすることではなく、私たちの目を開き、事実を認めることです。しかしながら、聖伝の典礼の使用が、少なくとも公会議の改革を暗黙に承認することを条件としている限りにおいて、それに固執する団体は教会とその信者たちの深い要求に十分に応えられないことを、私たちは認めざるを得ません。必要なのはその逆です。既に述べた考えを繰り返しますが、霊魂の救いと全教会への奉仕のためには、今日のカトリック信者に、無条件で提示される妥協のない真理と、それを完全に生きる手段を提供することが不可欠です。

18. とはいえ、ローマは今後、聖伝のラテン語ミサに関してより寛大になるとはお考えではないでしょうか。

ダヴィデ・パリャラーニ神父:1988年、同様の状況下で、聖ピオ十世会の信者たちを他に行かせるために、一部の団体に旧ミサ典礼書が配布された時のように、ローマが将来より寛容な姿勢をとる可能性は否定できません。もしこのようなことが再び起こるとすれば、それは極めて政治的なことであり、教義とは関係ないことでしょう。トリエントのミサ典書は、天主の御稜威(みいつ)を礼拝し、信仰を育むためにのみ用いられるべきものであり、司牧的な調整や宥和の手段として用いられるべきではありません。

とはいえ、善意の多少に関わらず、上記の枠組みの有害性は変わらず、したがって状況を大幅に変えることもないでしょう。さらに、事態は実際にはより複雑です。ローマでは、フランシスコ教皇とロッシュ枢機卿が、聖ピオ五世のミサ典書の使用拡大は、必然的に典礼改革と公会議に対する、憂慮すべき、そして何よりも制御不能な規模の疑問を呼ぶことになると明確に指摘しています。したがって、何が起こるかを予測することは困難ですが、教義上の配慮よりも政治的な配慮に囚われてしまう危険が現実的にあります。

19. 信徒と聖ピオ十世会の会員に特に伝えたいことは何ですか?

ダヴィデ・パリャラーニ神父:今こそ何よりも祈りの時であり、心と霊魂と知性を準備する時、これらの司教聖別が教会全体にもたらす聖寵を準備する時であることをお伝えしたいと思います。これは、黙想と平和とのうちに、そして聖ピオ十世会を決して見捨てなかった御摂理、今も見捨てることのない御摂理への信頼のうちに行わなければなりません。

20. あなたはまだ教皇にお会いになりたいとお考えですか?

ダヴィデ・パリャラーニ神父:はい、もちろんです!教皇様とお話できることは私にとって非常に重要だと思います。教皇様に手紙でお伝えできなかったこともたくさんありますが、喜んでお伝えしたいことがあります。残念ながら、フェルナンデス枢機卿からいただいた回答には、教皇様との謁見については言及されていませんでした。しかしながら、更なる制裁の可能性については触れられています。

21. 聖座が聖ピオ十世会を非難することを決定した場合、聖ピオ十世会はどう対応しますか?

ダヴィデ・パリャラーニ神父:まず第一に、このような状況下では、いかなる教会法上の罰則も、それがたとえあったとしても実質的な効果がないことを忘れてはなりません。

しかしながら、もし罰則が宣告されたとしても、聖ピオ十世会は過去の苦しみを受け入れてきたように、この新たな苦しみを、一切の苦々しさもなく受け入れ、教会自身の利益のために真摯に捧げるつもりです。聖ピオ十世会は教会のために活動しています。そして、もしそのような状況が生じたとしても、それは一時的なものに過ぎないと確信しています。なぜなら、教会は聖なるものであり、私たちの主は教会を見捨てられないからです。

したがって、聖ピオ十世会はカトリックの聖伝に忠実に従い、その能力の限りを尽くして活動を続け、霊魂たちの必要に応えることで謙遜に教会に奉仕し続けます。

そして、これまで通り、教皇のために忠孝な子として祈り続けながら、2009年にあったように、これらの不当な制裁から解放される日を待ち望みます。いつの日か、ローマ当局は、これらの司教聖別が、天主の栄光を高め、霊魂たちの救いのために、信仰の維持に摂理的に貢献したことを、感謝の念をもって認めてくれると確信しています。

2026年2月2日、聖母マリアの清めの祝日に
フラヴィニー=シュル=オズランで行われたインタビュー