聖ペトロ会と聖ピオ十世会の違いとは何か(第二部)
聖ペトロ会と聖ピオ十世会の違いとは何か(第二部)
2025年11月21日
聖ピオ十世会ベルギー・オランダ管区
ミッシェル・ド・シヴリー神父(聖ピオ十世会ベネルクス管区長)
なぜミサをめぐる戦いを行うのか
この推論を、論理的に最後まで続けてみましょう。もしも聖ペトロ兄弟会が新しいミサの正当性を認めるのならば、それが真に「信仰の法」(lex credendi)の適切な表現であると断言しているからです。そうならば、なぜ新しいミサを行うことを拒否するのでしょうか。もしも新しい典礼が実りあるものならば、なぜその新しいミサを排除して新しいミサを行うことを拒否するのでしょうか。現実には、仮面は剥がれています。もしも聖伝のミサを捧げることを単なる自分固有な特別なカリスマに矮小化するならば、聖伝のための戦いはその存在理由をもはや失っています。
その反対に、聖ピオ十世会は常に、トリエント・ミサこそが教会の「信仰の法」、すなわち教会の不変の教導権の完璧な表現であると考えてきました。このミサこそが、霊魂と社会を聖化する、と。このミサこそが、私たちの信仰の広がりと、主イエズス・キリストの統治の拡大に貢献する、と。聖ピオ十世会は、自分に特別な特権を維持するために闘っているのではありません。聖ピオ十世会は、聖なる教会の共通善のために、トリエント公会議のミサがローマ・カトリック教会における「信仰の法」の唯一の表現となるように力を尽くしています。聖ピオ十世会は、新しいミサが「信仰の法」の正しい表現から「著しく逸脱している」ため、正当性がないと考えています。「新しいミサの式次第は、トリエント公会議が聖でありかつカトリックの信仰として認可した教義の表現を事実上明確に放棄していることは明らかである」(23)。したがって、新しいミサへの参加は、主日の義務としては決して考えられません。なぜなら、それは天主を敬うべき礼拝形式ではなく、私たちの信仰を危険にさらすものだからです。
では、第二バチカン公会議についてはどうなのか
聖ペトロ兄弟会は、第二バチカン公会議が提起した教理上の諸問題は、文書の解釈の問題、すなわち「明確化を求める」ことに収れんされると考えています。
一方、聖ピオ十世兄弟会は、第二バチカン公会議の教えは、教会の不変の教導権との断絶点を生じさせており、これらの点は、教会の本質に関する「教会憲章」、天主の啓示に関する「啓示憲章」、教会と現代世界の関係に関する『現代世界憲章』、そして信教の自由に関する『ディニターティス・フマネ』といった文書自体に見いだされると考えています。ルフェーブル大司教は神学生たちにこう語りました。「一連の文書が偽りの精神、近代主義的な精神で書かれている場合、それを完全に削除することは事実上不可能です。カトリックの精神を与えるためには、完全に書き直さなければならないでしょう」(エコンでの講話、1978年12月14日)。
司牧上の帰結
聖ペトロ兄弟会の司祭たちによる教区における司祭職の務め、神学生の司祭叙階、堅振の執行が可能かどうかは、第二バチカン公会議に起因する改革を遵守するか、あるいは沈黙を守るかにかかっています。しかし、聖トマスは「信仰が危機に瀕している必要に迫られた時には、他の信者を指導し、強めるため、あるいは不信者の攻撃を撃退するために、誰もが自らの信仰を明らかにすべきである」と教えています(24)。したがって、霊魂の司牧者が、信仰や道徳に反する重大な公の罪によって引き起こされたつまずきを知りながら、信者を予防し、啓蒙するために行動を起こさなければ、怠慢による過失となります。
公会議の誤謬とそれによって引き起こされるつまずきに関して、聖ペトロ兄弟会の会員が沈黙を守ることの代償は大きいものです。なぜなら、信者と司牧者の双方の救いがかかっているからです。
そして、この沈黙を破る者には、制裁が科せられます。こうして、2021年9月、ディジョン(フランス)のモンシニョール・ロラン・ミンラトは、聖ペトロ兄弟会を自らの教区から追放しました。その追放の理由は何でしょうか。第一に、信徒共同体が司教区内の他の信徒と十分に交流していないことです。教区の声明にはこう記されています。「聖ペトロ兄弟会は、共同体の養成を強要しますが、その共同体の一部は(最近のメッセージからもわかるように)司教区の教会に疑念を投げかけています。…司教区当局はカトリック共同体が分裂しないようにしなければなりません」(25)と。
しかし、主な叱責は、司祭たちが新しいミサに従って共同司式を拒否したことでした。「聖ペトロ兄弟会によって任命された司祭たちは、司祭的かつ秘跡的な交わりというこの行為を拒否します。このような態度は、彼らの聖職に対する私たちの考えとは異なるものであることを露呈しています」(25)。この追放後の聖ペトロ兄弟会の声明もまた、彼らの妥協に基づく教理的立場を明らかにしています。
「聖ペトロ兄弟会は、会の司祭たちが通常の典礼(新しい典礼)でミサを執り行うことを排除【禁止】したのではありませんが、この点に関しては会員の意向を尊重し、ミサの共同司式に関しては、『各個人が個別にミサを執り行う自由は尊重されなければならない』(教会法第902条)と認めている教会法に従うつもりです」(26)。
2023年12月14日、カンペール(フランス)のローラン・ドニャン司教は、聖ペトロ兄弟会との協定を撤回しました。その理由は何でしょうか。いつも同じです。
「(司祭たちが)現行のミサ典書と儀式に従ってミサを執り行うことを拒否することは、彼らを教会の周縁に追いやることになる」(27)。
最後に、聖ペトロ兄弟会は25年以上もの間モンテリマールとヴァランス(フランス)に設立されていましたが、デュラン司教は2025年9月1日以降、旧ミサ典書に従って儀式を執り行わないように指示しました。今回示された理由はやや曖昧ですが、根本的な意見の相違にその動機があることは理解できます。
「2025年9月1日以降、ヴァランスのサン・テミリアン小教区の再編の枠組みの中で、新しい教区司祭を迎え、教区の統一に向けて取り組むため、ヴァランスのノートルダム教会で、教区司祭と【聖ペトロ会司祭ではなくその代わりに】王たるキリスト会小教区協力司祭によってミサ・ヴェトゥス・オルド(ラテン語で古いミサの形式)が執り行われることになる」。
聖ペトロ兄弟会は、活動を継続するために沈黙を強いられています。残念ながら、シュナイダー司教のような、第二バチカン公会議の文書を公然と批判することをためらわない一部の高位聖職者たちの例に倣っていないのは残念です。
2019年2月4日、教皇フランシスコとカイロ・モスクの大イマームが「世界平和と共生のための人類の兄弟愛に関する文書」に署名した後、この高位聖職者シュナイダー司教は、6月1日にLifeSiteNewsに記事を掲載しました。その中で彼は、「宗教の多様性には積極的な天主の意志や自然権はない」と主張し、アブダビ宣言は第二バチカン公会議が推進する信教の自由の論理的帰結であることを示します。シュナイダー司教は実際、公会議の宣言「ディニターティス・フマネ」によってもたらされた断絶を強調しています。この宣言は「教会の不変の教導権によってこれまで教えられたことのない理論、すなわち、人間は自身の本性に基づき、『私的にも、公的にも、単独での、または他者と共同しても、その者に相応しい限度内で、宗教的事柄において自身の良心に従って行動することを妨げられない』(ut in religiosa neque imppediatur, quominus iuxta suam conscientiam agat privatim et publice, vel solus vel aliis consociatus, intra debitos limites, n. 2)権利を有する」と述べているからです。この主張によれば、人間は、自然本性そのものに基づき(したがって天主の積極的な意志に基づき)、偶像崇拝、さらには悪魔崇拝を、集団的であっても、選択し、実践し、広めることを妨げられない、とされます。なぜなら、「悪魔教会」のように悪魔を崇拝する宗教が存在するからです。実際、一部の国では、「悪魔教会」は他のすべての宗教と同じ法的地位で認められています(28)。
エクレジア・デイに端を発する聖伝の運動に対して高位聖職者(訳注:例えばシュナイダー司教)が好意的であると知っていても――例えば、先の6月8日(日)にはノートルダム・ド・クレティエンテが主催する聖霊降臨の巡礼の際に、高位聖職者がミサを執り行うことに同意しました――、こうした聖伝の運動は、高位聖職者に従おうとせず、第二バチカン公会議の誤謬に反対してカトリック信仰を公然と擁護しないとしても、それは驚くべきことではありません。
結論
聖ペトロ兄弟会は、1988年6月30日の司教聖別の正当性を認めようとしなかったことから生まれました。したがって、その唯一の目的は、聖ピオ十世兄弟会創立者の思慮深さに原則的に反対することにあります。とはいえ、この司祭たちは当初、創立者から司祭活動を確立するインスピレーションを得ていました。したがって、聖ペトロ兄弟会は、この拒否においてのみ存在を許され、重大な結果に直面する運命にあるのです。
確かに、聖ペトロ兄弟会の中には、信仰を擁護し、聖ピオ十世兄弟会の思慮深い立場の健全性を認めることをためらわない司祭たちがいます。しかし、彼らはそれを私的に、個人的に、慎重に行うものであり、決して公に、あるいは公式に行うものではありません。もし彼らが公にそうするならば、彼らの会は、公式の位階階級の司教によって秘跡の執行が取り消される危険を冒すことはないであろうことを、認めなければなりません。
聖ピオ十世兄弟会において、たしかにさらなる司教聖別が必要となるでしょう。これは間違いなく、聖ペトロ兄弟会にとっても、このよい戦いに加わる機会となり、異邦人への使徒のように「私はよい戦いを戦い、走るべき道のりを走る尽くし、信仰を守った」と言える機会となるのではないでしょうか。聖パウロは言葉をこう続けています。
「すでに私のために、正義の冠が備えられている。かの日に、正しい審判者である主は、それを私にくださるであろう。ただ私だけではなく、その現れを愛したすべての人々に」(ティモテオ後書4:7)。
注
23 Document disponible sur le site, https://laportelatine.org/formation/crise-eglise/nouvelle-messe/le-bref-examen-critique-du-nouvel-ordo-missae
日本語ではここで読める。https://fsspx.jp/ja/xinshiimisasishi-nopipandeyanjiu-46780
24 Somme theologique, IIa, IIae, question 2, art 2, ad 2
25 Interview dans Famille Chretienne, https://www.famillechretienne.fr/36684/article/fortes-tensions-entre-le-diocese-de-dijon-et-la-fraternite-saint-pierre
26 Communique de la FSSP du 18 juin 2021
27 Communique de la FSSP du 18 janvier 2024
28 https://fsspx.news/fr/news/vatican-ii-abou-dabi-un-debat-entre-mgr-schneider-et-mgr-vigano-24629