ミサ聖祭:キリストは御自分のいけにえを私たちのいけにえとされる

2025年5月11日 御復活後第三主日
トマス 小野田圭志神父 説教(大阪 聖母の汚れなき御心聖堂)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日の福音は、聖木曜日の主の言葉からとられています。
イエズスは御聖体と司祭職を制定され、最初のミサ聖祭を行われました。その後で、主は使徒たちに最後の遺言として苦しみについて話されます。まず御自分の十字架について、次に弟子たちが受ける苦しみを予告します。
「あなたたちは、この世で苦しむだろう。」
しかし、イエズス様は同時に「あなたたちは悲しむが、その悲しみは喜びにかわる」と約束されます。主は、私たちの悲しみを本当の喜びに変えることがおできになります。キリストと共に、キリストのために苦しむことには、超自然的な永遠の価値と意味があるからです。
イエズス様は、私たちにこの地上での楽園を約束したことは一度もありません。面白おかしい、楽な快適な生活を保障しませんでした。
主が約束されたのは「永遠の命」です。
罪によって、地上の楽園はすでに失われました。これはもう最後の復活まで戻りません。
主は、私たちの苦しみ・悲しみを、私たちの光栄・喜びに変える手段をお与えになりました。その最大で最高の手段が「ミサ聖祭」です。
ですから、今日はミサ聖祭という偉大な賜物を一緒に黙想しましょう。
特に「キリストは、御自分のいけにえを私たちのいけにえとされた」ということを黙想します。
【ミサ聖祭】
ミサ聖祭とはなんでしょうか?
キリストは、ミサ聖祭において御自分の十字架上の最高のいけにえを再現されます。十字架という祭壇で、救い主イエズス・キリストは、礼拝と賛美のいけにえ、また私たちの罪の贖いのためのいけにえとして御自身をお捧げになりました。カトリック教会の祭壇では、ミサ聖祭を通して、同じ十字架のいけにえが捧げられています。
なぜ、ミサ聖祭で十字架のいけにえが再現されるのでしょうか?
十字架のいけにえだけで、世の終わりまで充分ではないのでしょうか?
はい、確かにそうですが、イエズス様は御自分のいけにえを「私たちのいけにえ」とするために、ミサ聖祭で十字架のいけにえを再現されているのです。
【教会のいけにえ】
イエズス様は、十字架の上で第二のアダム(全人類の代表・頭)として、特に贖われた人類である教会の頭(代表)として、御自分をいけにえとして捧げられました。全人類のため、教会のために御自分をすべて捧げられました。
しかも主は、御自分をいけにえとして「教会のために」捧げるだけではなく、「教会とともに」捧げられました。
教会の代表は、特にマリア様でした。十字架の足下に佇むマリア様でした。
ですからキリストの教会(カトリック教会)は、キリストのいけにえをいつでもキリストと共に捧げることができます。
言い換えると、キリストは、十字架のいけにえを御自分の花嫁である教会にすべて委ね、遺されたのです。その全本質において、その核心において、その偉大さにおいて、その力において、あらゆる時代のためにいけにえを教会に遺されたのでした。
教会は、キリストのいけにえを秘蹟において譲り受けました。
【私たちのいけにえ】
イエズス・キリストは、御自分のいけにえを教会のいけにえとされただけでありません。実は、御自分のいけにえを私たち個々の信者のいけにえともされました。
イエズス様は、十字架上のいけにえを「私たちのために」捧げられ、さらに、私たちがミサ聖祭に与ることによって、皆さんが今こうやってミサに与っていることによって、キリストのいけにえを、私たちのものとして「キリストとともに」捧げることができるようにされました。
私たち自身は、無限に聖なる、完璧である御方天主に対して、天主にふさわしいものを捧げたい、捧げようと思っても、実際は何も持っていません。私たちが持っているものすべてをはたいて、金銀、財産、最も貴重だと思う物、さらに自分の命、血潮を捧げたとしても、それは私たちから見れば素晴らしい、英雄的なものすごいものだと思えるかもしれませんが、天主の偉大性や無限性を考えるならば、また天主の御目から御覧になれば、私たちがいくら捧げても捧げても、そのようなものは極めてちっぽけないけにえに過ぎません。
しかし、イエズス様は私たちの貧しさ、弱さを憐れんで助けてくださいます。そして、天主の偉大さに、至聖なるその御稜威にふさわしいいけにえを私たちが捧げることができるように、御自分のいけにえをすべて与えてくださいました。
【キリストのいけにえが私たちのいけにえになる三段階】
ではどうやって、キリストのいけにえが私たちのいけにえになるのでしょうか?
それは三つの段階があって、ミサの三つの部分に相当しています。
ミサに与ることによって、どのようにキリストのいけにえが私たちのいけにえになるか説明します。
第一段階は「奉献(オッフェルトリウム)」です。
私たちはまず、司祭と共に祭壇の上にパンと葡萄酒(犠牲)を供えます。実は、パンと葡萄酒の形態において私たち自身を、しかも私たちが有形的にも無形的にも持っているすべてを挙げて捧げます。
また、カリスの中に水を一滴入れることによって、私たちの犠牲もいけにえも、キリストのいけにえに参与させようとします。
司祭はパンを捧げる時にこう言います。
「私たちはいとも高貴なるあなたに、あなた(御身)の贈り物の中から最も清いいけにえ、尊いいけにえ、汚れのないいけにえ、すなわち永遠の生命のパンと絶えることのない救いの杯とをささげます。」
第二段階は「聖変化」です。
聖変化によって、パンと葡萄酒はイエズス・キリストの本当の御体(御肉)と御血に、活けるキリストに変わります。
聖変化によって、復活されたイエズス・キリストが、肉体をもって、まさに私たちの目の前に現存するようになります。
キリストは、御体、御血、御霊魂、御神性をもって、まさに祭壇上に来られます。十字架上のいけにえが、そこに現われます。
キリストは、十字架上の貴いいけにえを再現し給うのです。
キリストは、御自分が十字架の上で捧げ給うたいけにえを私たちの中で再現され、そして、十字架で捧げられたように、御自分を天にまします御父に捧げ給うのです。
第三段階は、聖変化の中にも既に含まれていますが、「聖変化の後の祈り」によって行われます。
私たちはこの聖なるいけにえ、すなわちキリストの御肉と御血、キリストの十字架上のいけにえ、キリストの貴い御人性を天主御父に捧げ、キリストの十字架上のいけにえの奉献に与かります。本質的にはすでに聖変化においてキリストが、聖変化後の祈りにおいては、司祭と一般信者とがキリスト御自身を天主御父に捧げます。キリストのいけにえが私たちのいけにえになり、それを私たちが各々救い主と共に捧げます。
これは、私たちが天主に捧げ得る最大の完全ないけにえです。
天主の子羊を、私たちの完全ないけにえとして御父に捧げることです。
キリストの十字架上のいけにえが、私たちすべての信者のいけにえとなり、賛美のいけにえとなり、贖いのいけにえとなります。
聖変化によって、キリスト御自身を御父にいけにえとして捧げることができるということは、私たちにとってミサ聖祭の最も大事な点です。
まず、このいけにえは全教会の祈り、いけにえとなり、そして次に私たちそれぞれのいけにえとなるからです。
聖変化直後の祈りの中に、この点がはっきりと言い表されています。
UNDE et memores で始まる祈りの中には、私たちが、キリスト御自身をいけにえとして天主御父にささげることを言い表しています。
「主よ、御独り子、我らの主キリストの、聖なる御受難、死者からの御復活、栄光ある御昇天を記念して、"御身のしもべなる我ら、又、御身の聖なる民は"、いと高きみいずに対して、御身の賜った贈り物の中から、この清く、聖なる、汚れなきいけにえ、永遠の御生命の聖なるパン、永遠の救いのカリスを捧げ奉る。」
御身のしもべなる我ら、御身の聖なる民はこれを捧げる、と言います。
【キリストの神秘体全部の完全ないけにえ】
こうやって、全教会すなわち「キリストの神秘体全部の完全ないけにえ」となります。
ミサ聖祭において、主の全肢体はその頭のいけにえを共に祝い、それによって天の御父と至聖なる三位一体に最高の奉仕をなします。
このいけにえを捧げるのは、この地上のいわゆる戦闘の教会ですが、実は煉獄における苦しみの教会(清めの教会)も、そして天国の凱旋の教会も、これに与っています。
それのみならず、教会の代表者である司祭、そして信者のすべてが、ミサ聖祭においてキリスト御自身を最高のいけにえとして御父に捧げます。このような祈りもあります。
「主よ、主の全教会としもべらの捧げ奉るこのいけにえを、受け容れ給え。」
【私たちのいけにえ】
最後に、ミサ聖祭は「信者一人一人の完全ないけにえ」です。
信者は誰でも、ミサに与ることによって十字架のキリストをそれぞれ受けることができ、そして御体(御肉)と御血をいけにえとして御父に捧げることができるからです。
イエズス・キリストはミサ聖祭において、御自分のいけにえを「私たちのいけにえ」として、この世における私たちの最高のいけにえとして与えてくださいました。
考えてもみてください。私たちがもしも莫大な借金を抱えていたとして、ある人は何も働かずに、ほんのちょっとのことで先祖からの遺産を得て、そして借金に苦労する必要はなかったとしたら、いったいどうやって、そのように借金を返していくことができるだろうかと。
はい、まさに私たちも、イエズス・キリストが罪の負債をすべて返済することができるような莫大な遺産を遺してくださいました。
金の延べ棒がなるような十字架の木を私たちにくださいました。
私たちはそれに接ぎ木されるだけで、私たちの貧しい枝から、莫大な富と恵みを身に着けることができるような遺産を遺してくださいました。
そして、その私たちが接ぎ木する、その手段が「ミサ聖祭」ともいえます。
永遠の大司祭であるキリストは、私たちに対する莫大な愛によって、私たちが天主に対して相応しいいけにえを捧げることができるように、私たちに御自分のいけにえを与えてくださいます。これがミサ聖祭です。これが、ミサ聖祭が毎日行われる理由です。
ミサ聖祭とは、「キリストの十字架上のいけにえの現実化、すなわち再現」です。キリストは、御自分のいけにえを私たちのいけにえとするために、ミサ聖祭を私たちに与えました。
ミサ聖祭は、私たちがこの世で持っている最も貴重な宝であり、私たちが天主に捧げ得る最高の聖祭なのです。
イエズスは、御自分のいけにえを私たちのいけにえとするだけではなく、さらには、御自分のいけにえの効果をも私たちのものとし、私たちが私たちの霊魂のために、必要な恵みを最も豊かに汲みとることのできる泉としてくださいました。これについては別の機会にお話しします。
【遷善の決心】
では、遷善の決心を立てましょう。
ミサ聖祭は、私たちの日々の生活のすべてを、イエズス・キリストの十字架のいけにえと共に捧げることによって、天主に最も嘉される快いいけにえとなることを、そして捧げることを可能にしてくれる手段です。
私たちに永遠の最高の報いを準備させてくれる最高の贈り物、最上の宝物です。それが、今皆さんが与っている聖伝のミサ聖祭です。
遷善の決心として、このミサ聖祭を愛する御恵みをマリア様に請い求めましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。