「あなたは、メルキセデクの位による永遠の司祭」

2025年5月15日(木曜日)
トマス 小野田圭志神父 説教 北海道(函館)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
特に函館の皆様、今日は、この函館で二回目のミサができて、とても感謝しています。
実は昨日は、元町教会の主祭壇にあるレタブロ——祭壇に飾る色々な絵について黙想しました。
特に昨日お話ししたのは、御聖櫃の、元町教会の御聖櫃の祭壇の方に向かって右の方にある、福音側にある、アブラハムが自分の息子イサアクを捧げようとしていた、いけにえに屠ろうとしていたその絵について一緒に黙想しました。
この歴史的な事実が、アブラハムがやろうとしたことが、実はイエズス・キリストによって本当に実現されたということでした。
元町教会の向かって右側、つまり書簡側の方にある絵には何が描かれているかというと、サレムの王、大司祭メルキセデクが、アブラハムの願いによってパンと葡萄酒を捧げている、そしてアブラハムは、メルキセデクに十分の一税を納めたという、歴史的な史実からのことが書かれています。
なんで、なんでカトリックの祭壇に旧約聖書のアブラハムの話が載っているのでしょうか?
何故かというと、メルキセデクのやったことが、イエズス・キリストによって実現しているからです。
旧約聖書の色々な様々な出来事、あるいは預言、色々な人物が、色々なやり方で、実は、来たるべき救い主イエズス・キリストを前兆していました。その影となっていました。メルキセデクもその一人でした。
では、メルキセデクとはどういう方だったのでしょうか?
まず第一に、メルキセデクは、父も母も系図も無い方でした。
非常に崇敬と尊敬を集めていた大司祭でした。
「サレム」という言葉は、ヘブライ語で「平和」という意味ですから、サレムの町の王であり大司祭というのは、「平和の王であり大司祭」ということです。
なぜ系図が無いのでしょうか?
聖書の中で、メルキセデクだけは、本当に例外的に系図が載っていません。
お父さんが誰か、お母さんが誰か、聖書には書かれていません。
ユダヤ教の、ユダヤのラビの伝統によると、言い伝えによると、このメルキセデクというのは、ノアの洪水——ノエの三人の子供たちセム、カム、ヤフェトの「セム」のことだと言います。
時代的にも年齢的にも、セムは、アブラハムが生きていた時に、この時にまだ生きていたはずですし、そして系図が無いということは、もしかしたら、大洪水で全人類が全く滅亡してしまって、生き残った唯一の家族の長男ということで、おそらく大洪水前の人ですから、その大洪水以後は全く新しい人々という意味で、セムは非常に崇敬を受けていて、そのお父さんとお母さんのことをさえも、人々はあまりにも年代が離れているので、メルキセデクに、セムに訊くことができずにただ「あぁ、この方はメルキセデクだ」という名前が付いて、それが残っていたのかもしれません。
しかし、これはユダヤのラビの伝統で、私たちにはそういうような、聖書にはそのような記載がありません。
最も大切なのは、ダヴィド王が後に、たとえその当時にアアロンの司祭職という——アアロンの司祭職というのは、子供が司祭を受け継ぐという司祭職ですけれども、それがあったにも関わらず、ダヴィド王は、来たるべき救い主について預言をして、『あなたは、メルキセデクの位による永遠の司祭』と詩篇の中で預言しています。
『永遠の司祭』——つまり、そのままとどまって、子孫によって続けるのではない永遠の司祭、あなたはメルキセデクの位による者である、父も無ければ母も無ければ系図も無い、と預言をしています。
第二に、メルキセデクがやったことは、パンと葡萄酒を捧げたことでした。パンと葡萄酒を捧げることによって、いけにえを捧げました。
メルキセデクがまたやったことは、アブラハムから十分の一税を受け取ったということで、つまり、アブラハムよりも上に立つ者である、アブラハムはそれに属する者である、ということを示しています。
実は、イエズス・キリストについて聖パウロも話しています。
メルキセデクが、父も母も系図も無いということを引用して、実はイエズス・キリストも永遠の御父の御子であるので、天主の御言葉が人間となって、大司祭となった方なので、そのメルキセデクというのは単なる影に過ぎなくて、来たるべき本当の大司祭であり、王であり、大司祭——これはイエズス・キリストによって成就された。
イエズス・キリストは、確かに御自分の御体と御血を捧げますけれども、実はそれは、ミサ聖祭によってパンと葡萄酒を捧げる、これが御体と御血に聖変化することによって、イエズス・キリストの十字架のいけにえが再現される、もう一度目の前に現存するということを表しています。
また、メルキセデクは永遠の司祭——何故かというと、イエズス・キリストは、死に打ち勝って、御復活されて、天に上げられて、天に昇られて、そして御自分の受けた御傷を御父に示しながら、天主の子羊、屠られた、そして復活した小羊として、天主の、御父の御前に、私たちのために取り次ぐ大司祭として、御父にいつも祈っておられるからです。
ですから、カトリックの司祭というのは、これはイエズス・キリストの司祭職を、ただそれに与って、イエズス・キリストの名前によって、イエズス・キリストの道具として行なっているに過ぎません。
永遠の大司祭はイエズス・キリスト、その御方です。
そして、すべての旧約の預言は、たとえば、メルキセデクの、大司祭メルキセデクによって前兆されたこの預言は、カトリックのミサ、カトリックの司祭職によって、イエズス・キリストによって完璧に成就されたということを示すために、元町教会では、メルキセデクの絵が描かれています。
カトリックのこのミサの神秘は、もっと深いものがあって、旧約の色々な預言がすべて成就したものです。
このミサこれこそが、私たちにとって人類が待ち望んでいた最高のいけにえ、天主御父に嘉されることのできる唯一のいけにえ、太陽の昇るところから沈むところまで、全地で行われることが預言されていたいけにえ、ミサ聖祭です。
そして、このミサを函館でこうやって捧げることができて、元町教会で昔捧げられていたように、そして日本中で、また世界中で捧げ続けられてきたように、こうやって捧げることができて、とても嬉しく思っています。
このミサは必ず復活しますし、世界中でもう一度捧げられる日が必ず来ます。
しかし、それを待っているだけで、何もしないで指をくわえて(手をこまねいて)待っているわけにはいきません。
過去の教皇様たちが望んだ通り、そして公教会が、カトリック教会が望んでいる通り、私たちはミサを毎日捧げていきます。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。