イエズス・キリストが実現した旧約聖書のアブラハムとイサアクの犠牲のいけにえ

2025年5月14日(水曜日) 聖ヨゼフの随意ミサ
トマス 小野田圭志神父 説教 北海道(函館)
「アブラハムとイサアクのいけにえはミサ聖祭で成就する」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
今日は函館で、聖ピオ十世会でこうやってミサを捧げることができて、とても嬉しく思います。
函館の皆さんが、こうやって多く集まってくださって感謝しています。今日は、ミサに始めて与った方もいらっしゃいますので、何をやっているのかということを少しだけお話しします。
函館には、元町教会というとても美しい教会があります。
カトリック教会が、日本の開国の直後に建てた第三番目の教会です。
最初に横浜、その次に長崎、それから函館です。
この元町教会の祭壇を見ると、レタブロという、祭壇の後ろに彫刻や浮き彫りのレリーフがあって、そして色々なイメージが、姿が描かれています。
その祭壇の上には小さな箱があって、それにはベールが被されていますが、それは御聖櫃といって、その中には御聖体のイエズス・キリスト様が安置されています。
元町教会の祭壇の様子を見ると、皆さんから見て左の方には、アブラハムとイサアクという旧約聖書の話が描かれています。
今度いらしたらご覧になってください。
皆さんから向かって右側には、アブラハムが「いけにえを捧げてください」と言った時にそれを受けて、パンと葡萄酒を捧げたメルキセデクという、イスラエルの王であり大司祭メルキセデクが、パンと葡萄酒を捧げているという姿が描かれています。
今日は、なんで、この元町教会の、カトリック教会の御聖櫃が置かれているそのすぐそこに、そのような旧約聖書の話が描かれているかということを少しだけお話しするのを許してください。
何故かというと、私たちが信じているイエズス・キリスト様という方は、旧約の預言、旧約の出来事をすべて完成した、すべて成就させた、その預言の通りにすべて——
旧約の時代はあたかも影であって、シルエットであったのですけれども、それがすべて本物として、御一人で全部成就させた方だったからです。
旧約聖書の物語は、色々な物語があって、色々な方が色々なやり方でイエズス・キリストのことを影法師として表していました。
そしてそのすべての影法師が皆、イエズス・キリストにおいて実現されたのです。
これはもうなんというのでしょうか、偶然ではあり得ないという、もしかしたら0.00000000001%、たまたまそうだったのかもしれませんが、でも普通ではあり得ない、なんというのでしょうか、私が空の、五稜郭のタワーの上に乗って、小さな石ころをポンと投げたら、皆さんがたまたま100m歩いて目を瞑って取ったら、「あぁ、これが小野田神父が投げた、それが見つかった」というほどの確率のことが、イエズス・キリストという方ですべて成就しているのです。
多くあるのですけれども、そのうちのたった二つが、このアブラハムとイサアク、そしてメルキセデクの話なのです。
どんなことが起こったかというと、旧約時代に、アブラハムという立派な方がいました。
その方は、唯一の真の天主だけを信じて、他の偶像は礼拝しませんでした。
そして、今まで住んでいたところを離れて、主の命令に従って行動したのですけれども、あまりにも立派な心意気だったので、その心が嘉されて「お前の子孫は、天の星々よりも、もっと多くなるだろう」
ある時には、「お前はあまりにも私に忠実なので、お前の子孫は、海の砂よりももっと多くなるだろう」と言われたほどでした。
ところが、アブラハムは100歳で、妻は90歳で、とても子供を産むような年齢ではなかったのです。
それでも子孫ができると言われたので、それを純粋に信じていました。そして本当に子供が生まれたのです。
あまりにも喜ばしかったので「イサアク」と名前を付けました。
ヘブライ語でイサアクというのは「私の喜び、笑い」だという意味なのです。
このイサアクが大人になって12歳になった時に、今度は、その天主が、創造主がアブラハムに命令するのです。
『さぁ、イサアクを、お前の独り子のイサアクをいけにえとして屠れ』
屠れというのは、それをいけにえとして捧げるために屠殺することです。
すると、もちろんアブラハムは、「あなたのお約束はどうなったのですか? 私の妻はもうこれ以上子供を産むことはできませんし、ようやく生まれたこの独り子を殺してしまうのですか?」と、もちろん文句を言うこともできましたが、アブラハムは「はい、わかりました。仰せの如く致します」と言って、イサアクに祭壇を作るための木を担わせて、「さぁ、あの山に登っていけにえを捧げよう」と言うのです。
イサアクも「はい、お父さん」と言って、命令のその通りに従って、木を担いで山に登ります。
山に登りながら、イサアクは「お父さん、祭壇の木はありますけれども、いけにえはどうしますか?」
するとアブラハムは、「いや、イサアクや、我が子や、いけにえのことは心配しなくていい。主が、それは私たちに計らってくださるだろうから」
「はい、お父さん」と言って、祭壇の木を持って登るのですけれども、山頂に着くと、一緒に祭壇を作ります。
今日、皆さんと一緒にやったような祭壇を作ります。
それから今度はアブラハムは、顔を、非常に恐ろしい真剣な顔をして、イサアクの手を縛って、そしてイサアクを祭壇の上に乗せるのです。
イサアクは何も言いません。
それからアブラハムは、持ってきた剣を持ってきて、イサアクを屠ろうとして両手で構えて、フッと刀を下ろそうとする時に、すると天使が「待った、わかった」と言って、アブラハムの手を止めるのです。
すると、アブラハムはハッと見て、下ろそうとしたその手を止めます。『お前の心は分かった。だからイサアクを殺してはいけない。イサアクの代わりに、あそこにいる雄羊を屠れ』
すると、ちらっと見ると、雄羊が頭を藪の中に入れて動けなくているのです。
「わかりました」と言って、イサアクを解いて、そしてイサアクの代わりに雄羊を屠って、そしていけにえを捧げました。
もちろんアブラハムは、一番大切なのは、私たちの心が主にいつも従順であって、主に「はい、わかりました」と言う、それこそが一番のいけにえであると知っていました。
そしてもちろん、自分にとって大切なものであれば大切なものであるほど、それを捧げるのが大きないけにえとなるということを知っていました。
ですから、もしかしたら本当に、主が自分の大切なものを求めているのだと思っていたのだと思います。
それでも「すべては主の御旨の通り」と信頼して行なっていました。
それが、その信頼と愛と信仰が嘉されて、イサアクは助かって、そして別の動物がいけにえになりました。
実は、これとまったく同じことが、イエズス・キリストで起こったのです。
何故かというと、イエズス・キリストというのは、旧約の他の預言で言われた通り、天主の御子なのです。天主の御独り子なのです。
その方が、人間となられた御方なのです。
これについては、また後の機会にお話ししましょう。
でもちょうど、イエズス・キリストは十字架の木を担いで、なんの罪も無いにも関わらず死刑宣告を受けました。
何故かというと、これは、私たちの罪の代わりに、イエズス・キリスト様がすべて私たちの罰を背負って、そして私たちの代わりに罪を償おうと、私たちの代わりにすべての罰を受けようとされたからです。
そして、十字架を担いで、十字架のゴルゴタという丘の上に行って、そしてその上に、十字架が祭壇となって、その上に磔になって、御自分の御血をすべて流されて、命をお捧げになりました。
その時には、茨の冠を被せられていました。
ちょうど、雄羊が茨に頭を預けて動かれなかったように、茨を被っていました。
天主御父は、イエズス・キリストが屠られようとした時に「ストップ」とは言いませんでした。
そのまま屠られました。
これは、イエズス様が、人間として本当に亡くなることを御望みだったからです。
ちょうど、雄羊が本当に殺された、でもイサアクは助かったというのは、イエズス・キリスト様は真の天主であって、真の人間なので、人間としては死ぬことはできる、肉体と霊魂は分離するけれども、しかし天主とは死ぬこともない、ちょうどイサアクのように死ななかった、でも人間としては亡くなられた、そして葬られた、ちょうど旧約聖書のアブラハムとイサアクの話が、イエズス・キリストで実現したということを、元町教会の絵は私たちに教えています。
話が長くなってしまったので、残るメルキセデクの話は、また後の機会にお話しします。
でもぜひ知って頂きたいのは、今こうやって、ミサ聖祭というミサのいけにえに与っているというのは、これはちょうど、旧約の時代のすべての何千年の預言がすべて成就して、すべて完成させられた、最高の、私たち人間が捧げることができる最高の主に対する祈りであり、犠牲であり、捧げ物を私たちが捧げることができる、これ以上勝る祈り、これ以上勝る儀式というのは、私たち人類は持っていない、それを皆さんが今こうやって与っておられます。
ですから「今、神父様が今こうやっているなぁ、こうやっているなぁ」というのをゆっくりご覧になって「そうなのかぁ」とミサに与って、イエズス様にお祈りなさってください。
また、イエズス様の十字架の下には、マリア様がずっといらっしゃいました。
ですからマリア様にもお祈りして「マリア様が十字架の下にいらした、それと同じ心で、私もこのミサに与ることができるように、マリア様、私のために特別にお祈りしてください」と、お願いなさってください。
今、このミサは聖ヨゼフの随意ミサを捧げています。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。