六旬節の主日の説教―聖書を読むこと(2025年、大宮と大阪)

ソース: FSSPX Japan

コプト語写本

六旬節の主日の説教―聖書を読むこと(2025年、大宮と大阪)

2025年2月23日 ブノワ・ワリエ神父

聖書を読むこと

「種は天主のみ言葉である」(ルカ8章11節)

親愛なる兄弟の皆さま、
聖パウロは、「聖書はみな、天主の霊感を受けたものである」(ティモテオ後書3章16節)と断言しています。
また、聖ペトロは、「預言は、かつて人間の意志から出たことはなく、聖霊の霊感を受けた聖なる人々が天主によって語ったものである」(ペトロ後書1章21節)と言っています。
教父たちも同じことを教えています。ローマの聖クレメンスは、聖書のことを「悪も偽りも含まれない聖霊による明確な宣言」と呼んでいます。殉教者ユスティヌスは、聖書の作者を「聖霊によって語る人々」と呼び、アレクサンドリアのクレメンスは、「主の口と聖霊が、聖書に含まれることをすべて語った」と述べています。
ですから、聖書は、非常に大切にすべき書物であり、それは、聖書が聖霊の特別な照らしと霊感によって書かれたものであるから、また、純粋で不可謬の天主のみ言葉以外の何物も含まれていないからです。
しかし、《この天主のみ言葉は》、イエズスが例えられた《蒔かれた種と運命を共にします》。多くの人が聖書を読みますが、その中に含まれるみ言葉は悪い土地に落ち、そのため、実を結ばないままなのです。

以下の問いを自問してみましょう。

1.聖書を読むことは許されているか
2.聖書を読むべきか
3.聖書をどのようにして読むべきか

第1部 聖書を読むことは許されているか

1.誰でも、平信徒であっても、聖書を読むことを禁じられるべき理由はありません。
使徒たちと福音史家たちは、新約聖書を少数の個人のために、あるいは学識者のためだけに書いたのではなく、会衆全体のため、またあらゆる身分にあるキリスト信者のために書いたのです。聖書には、口頭で説教されたこと以外は何も書かれていませんから、この書物を読むことが禁じられるべき理由はありません。
聖ヨハネ・クリゾストモスは、こう言います。「聖書を読むことに熱心に打ち込もう。なぜなら、全精力を傾け、聖なる望みをもって天主の真理を読む者は、確実に見捨てられることはあり得ないのである」。
聖アンブロジウスは、こう述べています。「聖書は豊かな牧草地であり、われらが、聖書を毎日読んで、読んだものを味わうのであれば、いわば、もう一度咀嚼するのであれば、われらに栄養と活力を与え、われらを強くする」。

2.しかし、聖書を読む際には、教会が定めた規則を守らなければなりません。
やがて、聖書を読むことがひどく濫用されるようになりました。そのため教会は、一定の規則を定めざるを得なくなりました。
中世のアルビジョワ派の人々は、自分たちの誤謬を、聖書によって正しいと証明しようとしました。その誤謬とは、善の天主と悪の天主という二つの天主が存在すること、教会の洗礼は何の役にも立たないこと、婚姻は罪深いこと、などです。
このため、1229年のトゥールーズ教会会議は、平信徒が自国語で聖書を読むことを禁じました。
オックスフォード教会会議は、破門の罰をもって、司教に認可されていなければ聖書の翻訳を流布させてはならないことを命じました。

3.現在では、翻訳が教会によって認可され、解説の注解が付されていれば、誰もが自国語で聖書を読むことを許されています。
聖書の正典(霊感を受けた書物の正確なリスト)を決定したのは教会であるため、教会には聖書の正しい解釈を与える権限もあるのです。

第2部 聖書を読む義務があるか

聖書を翻訳し、広く普及させてきたプロテスタントは、聖書を読むことが救いに不可欠だと主張しているように思えます。

1.聖書は、15世紀に印刷機が発明される以前には、広く手に入るものではありませんでした。
印刷機が発明される以前に生き、亡くなった人々(旧約聖書や新約聖書の人々)はどうだったのでしょうか。
中世には、聖書は修道士によって手書きされ、修道院の図書館に(鎖付きで!)大切に保管されていました。

2.聖書を読むことが必要であれば、聖書の中にその趣旨の明確な命令があるはずです。
しかし、そのような命令は旧約聖書にも新約聖書にもありません。キリストはユダヤ人たちに、聖書を読むのではなく、モーゼの座にすわる《教師たちの話を聞く》ように命じられました(マテオ23章2、3節)。
同じように、キリストは使徒たちに、《すべての国民に教え》、彼らにキリストが命じられたすべてのことを守るように教えるよう命じられました。
キリストは、ファリザイ人に「聖書を探れ」(ヨハネ5章39節)と言われましたが、それは、律法学士やファリザイ人を非難してのことでした。カトリックの司祭がそうであるように、聖書を読み、聖書を知ることは、彼らの特別な領域だったのです。
聖パウロがコロサイのキリスト信者たちに、自分がラオディキアのキリスト信者たちに宛てて書いた書簡を読むように命じたとき(コロサイ4章17節)、聖書のさまざまな文章が今日のように一冊の本にまとめられてはいなかったことを忘れてはなりません。そこで彼らは、私たち司祭が今、毎週の主日や祝日に、使徒たちの書簡や、福音史家たちの四つの福音書の断片や抜粋を読み、教父たちや教会の教えに従ってそれらを説明しているのとまったく同じことをしたのです。

3.ノブス・オルドはプロテスタントの「聖書のみ」(Sola Scriptura)の影響を受けています。
私はかつて、豚肉が聖書で禁じられていると思ったせいで豚肉を控えている新しい改宗者に出くわしたことがあります。このことは、廃止されているものや、旧約の律法にないものを教えてくれる教会が必要だということを示しています。
聖書の私的解釈には気をつけましょう。

第3部 聖書をどのようにして読むべきか

聖ヨハネ・クリゾストモスの、次の言葉があります。「聖書を読むことに熱心に打ち込もう」。

1.聖書は、深い敬虔の念をもって読まなければなりません。
聖書は一般的な書物ではなく、人間の心の力によって書かれたものでもありません。聖なるもの、天主からのものなのです。なぜなら、全体が天主の霊感を受けたものであり、したがって最も厳密な意味での天主のみ言葉であるからです。

2.子どものように謙遜で素朴に。
律法学士やファリザイ人は、イエズスが説教された天主のみ言葉を頻繁に聞きましたが、高慢によって盲目になったため、何の利益にもなりませんでした。
明らかな誤謬や矛盾などを見つけるためだけに聖書を読む人々もいます。
正しい解釈は教会が所有しています。「あなたたちには、天主の国の奥義を知る恵みが与えられている」(ルカ8章10節)。

3.救いを求める心で。
幼きイエズスの聖テレジアは、聖書をよく調べて、善き主のご性格を知ろうとしていました。
私たちにふさわしいものを読みましょう。一般的には福音書と詩篇です。

結論

親愛なる兄弟の皆さま、
「幸いな人、それは悪人の集まりに行かず、罪人の道に立ち止まらず、あざける者の席に座らぬ人、また、主の法を喜びとし、昼となく夜となく、それを思い巡らす人」(詩篇1篇1-3節)。
聖書を読むことは義務ではありませんが、教会の認可を受けたこのような新約聖書のポケット版を一冊持つことは、非常に有益でしょう。私たちの主がご托身になったのは、私たちに、天主の子としてどのように振る舞うべきかを示されるためでした。主は、私たちが完徳に達するための完全な模範です。主を親しく知るようにしましょう。アーメン。