キリストの上着を引き裂くのは誰か?聖ピオ十世司祭会の総長へのインタビュー
キリストの上着を引き裂くのは誰か?
「断絶は聖ピオ十世会に起因するものではなく、公式の教義が聖伝および教会の不変の教導権から著しく逸脱していることに起因するものです。」
- FSSPX.News:総長様、2026年2月2日に発表された今後の司教聖別に関する声明は、一連の特に激しい反響を呼びました。これについてどうお考えですか?
ドン・ダヴィデ・パリアラーニ:それは理解できることです。なぜなら、私たちは教会の生活において極めてデリケートな問題に触れているからです。さらに、この決定の理由は客観的に見て重大なものです。その根底にある「霊魂の救い」という問題は、何よりも重要な事柄だからです。したがって、この発表によって引き起こされた議論がこれほど大きなものとなったのは当然のことです。結局のところ、誰も無関心ではいられなかったのです。これは客観的に見て肯定的なことであり、また、天主の御摂理として、非常に差し迫った必要性に応えるものだと私は考えています。
実際、近年、広義における保守派や聖伝主義者の世界は、時として単なる評論家の集まりへと縮小してしまったかのような印象を与えています。そこでは、分析や期待、そして(しばしば正当な)不満が表明されるものの、それらを現実的かつ首尾一貫した立場へと移そうとはほとんどしません。こうした評論家の中には、10年前に四人の枢機卿(うち二人はすでに他界しています)が『アモリス・レティチア』に関して提起した「ドゥビア(疑問点)」に対する聖座からの回答、あるいはトリエント・ミサに関する新たな教皇の自発教書の公布を、今なお待ち続けている者もいます。
こうした状況において、司教聖別を執り行うという決定は、人々に強く訴えかけてくるのです。これは単なる宣言ではありません。それは、人々に深く考えさせ、現在の問題の真の深刻さを認識させ、そして実際的な意味において、立場を明確にするよう迫る、重大な行為なのです。今日、これほど緊急を要する事柄はありません。聖ピオ十世司祭会は、自分求めたわけでもないのに、救いをもたらす衝撃の道具となっています。その衝撃の真の作者は、究極的には摂理のみです。摂理の導きにより、聖ピオ十世会は、教会の利益と再生のために、今日ほど必要とされているものへの貢献を許されています。
- FSSPX.News:なぜ、このような衝撃が今日特に必要だとお考えになるのですか?
信仰に関わる極めて深刻な問題について、人々がひたむきに粘り強く、しばしば思ったようには話が進まず苛立たしいと思うほど議論を交わすうちに、議論や対話の主題そのものが、長い目で見ると、他者の考えや異なる感性を体系的に尊重することで、議論の余地があるものと見なされるようになってしまいます。こうして次第に、あらゆるものが相対化されていきます。
実際、現代人が自然に傾きがちな教義的な多元主義という弊害は、最も健全な霊魂さえも汚染してしまっています。人は徐々に無関心主義へと流され、ゆっくりと、しかし容赦なく進行する感覚の麻痺によって現実の感覚を失い、居心地の良い場所にとどまり、何よりも危険にさらしたくない均衡や特権に執着するようになります。その結果、熱意や犠牲の精神は薄れていきます。一言で言えば、危機に慣れ、あたかもそれが通常の状況であるかのように生きてしまうという危険があります。これらすべては、本人が気づかないうちに、徐々に進行していきます。霊魂の責任を負う者たちは、こうしたメカニズムを深く分析し、それが不可逆的なものとなる前に食い止めようとする義務があります。
さて、今日、問題となっているのは、単なる意見でも、感性でも、優先的な選択でも、あるいはテキスト解釈における特定のニュアンスでもなく、信仰と道徳です。カトリック信者が自分の霊魂を救い、天国に至るために知らなければならず、公言し、実践しなければならない信仰と道徳です。言い換えれば、永遠と天国を失う危険に直面して、雑談や論考、対話は現実の前に退かなければならないのです。
- FSSPX.News:あなたが語るこの現実とは、聖ピオ十世会の活動によって照らし出されるものなのでしょうか?
この現実とは、今日、かつてないほど、霊魂と国家に対する「王たるキリスト」の権威を再確認し、宣言し、公に告白することが必要であるということです。
私たちは、カトリック教会こそが、あらゆる人にとって、区別なく唯一の救いの箱舟であると説く勇気を持たなければなりません。私たちは、贖い、秘跡、罪の赦しを信じなければなりません。私たちは、教会が、誤りやこの世、サタン、そして地獄から霊魂を救うために設立されたことを、人類に思い起こさせなければなりません。
私たちは、常習的に罪の中に生き、さらにはその不自然な悪癖を自慢さえしている者たちに、真の回心も、悔い改めも、償いも、根本的な変革の要求もなく、天主が常に、いかなる状況においてもすべてを赦してくださるのだと信じ込ませることをやめなければなりません。私たちは、教皇がバチカン庭園でパチャママを称える儀式に参加することが、愚行であり、言語道断のスキャンダルであることを、率直に認めるべきです。そして何よりも、すべての宗教が異なる名の下に同じ天主を崇拝していると人々に信じ込ませ、霊魂と人類を欺くことを止めなければなりません。一言で言えば、私たちはこの世界を改宗させ、キリスト教化しようとし、そして何世紀にもわたって世の誤りを非難してきたことについて、世界に対して謝罪することを止めなければなりません。
この悲劇的な状況において、誰かが「もう十分だ!いい加減にしろ!」と言えなければなりません。言葉だけでなく、何よりも具体的な行動を通じて、です。
「私たちはこの世界を改宗させ、キリスト教化しようとし、そして何世紀にもわたって世の誤りを非難してきたことについて、世界に対して謝罪することを止めなければなりません。」
もし、現在の混乱の中で、天主の御摂理が聖ピオ十世会に、我らの主の永遠の権利を明確に宣べ伝える手段を与えてくださるならば、信仰と愛徳が私たちに課すこの義務を回避することは、私たちにとって極めて重大な罪となるでしょう。これこそが、聖ピオ十世会が存在する理由、そして聖ピオ十世会が今、司教聖別を進めている理由を理解するための前提となるものです。
こうした前提がなければ、聖ピオ十世会の決定、ひいてはその議論そのものが、意味をなさなくなるでしょう。問題の核心が信仰そのものであることを認識しなければ、聖ピオ十世会は必然的に、単なる規律上の問題、あるいは反逆や不従順の問題としてしか捉えられなくなります。これは、聖ピオ十世会が自分の自律を守るためだけに司教を聖別していると主張する人々が、残念ながら犯している過ちです。しかし、それは本質ではありません。間もなく行われる司教聖別は、私たち自身の霊魂と他の人々の霊魂を救うための手段を守り抜くことを目的とした、信仰への忠実な行為です。信仰を公言し、それを人々の霊魂に伝えるために不可欠な自由を守ることと、利己的な自律性を追求することとは、同じことではありません。
- FSSPX.News:7月1日の司教聖別に反対の声を上げた人々の中には、ゲルハルト・ルートヴィヒ・ミュラー枢機卿やロベール・サラ枢機卿のように、教皇フランシスコに対して非常に批判的な保守派の枢機卿たちがいます。彼らの立場をどのように説明しますか?
まず、教皇フランシスコを批判する保守派の人々が、聖ピオ十世会と同じくひとくくりにされ、共に悪者扱いされることへの一定の恐れを抱いている可能性があることを認めなければなりません。そのため、自分たちは彼らとは何の関係もないことを明確にしておきたいという必要性が生じているのかもしれません。
しかし、この側面を超えて、これらの枢機卿や司教たちは、より深く、典型的な現代的な苦悩に苛まれています。それは、信仰の要求と教会法の要求とを調和させることができないという苦悩です。信仰は、それを公言し、守り、伝えるために可能な限りのことを行うことを求めます。一方で、現在の状況を無視して法を文字通りに解釈するならば、教皇の承認なしに司教を聖別することは不可能に思えます。では、どうすればよいのでしょうか。これらの枢機卿たちは、他の者たちと同様、自分の善意を無に帰しかねない一種の恒常的な二律背反の中に生きています。彼らはデカルト的な手法でこれら二つの要求を並置し、その表向きの矛盾に押しつぶされ、あるいは圧倒されてしまうのです。
「教導権は信仰を教えるために存在し、それを発明するためではありません。法は信仰を守り、そこから必然的に流れ出るべきキリスト教生活のための必要条件を保証するために存在します。」
他方で、聖ピオ十世会は、これら二つの前提を単に並列させるのではなく、一方が他方に従属するという位階階級的な順序で位置づけるべきであると主張しています。教会において、信仰の純潔さと信仰宣言は他のあらゆる考慮の事項に優先します。なぜなら、教会の生活を構成する他のすべての要素は、信仰そのものに依存しているからです。教導権は信仰を教えるために存在し、それを発明するためではありません。法は信仰を守り、そこから必然的に流れ出るべきキリスト教生活のための必要条件を保証するために存在します。1 この優先性は、主ご自身がご托身されることによって、何よりもまず永遠の真理を世界に示されたという事実、そして法を与える者として、福音においてこの真理を知り、それに忠実であり続けるための手段を示されたという事実から生じています。第一の要素と第二の要素の間には、論理的な優先関係があります。
したがって、天主の御摂理は、教会を、並列し互いに独立した聖職の議会として設立したのではありません。そうではなく、天主の御摂理は優先順位の位階階級を確立したのです。それは信仰の遺産を守り、信徒らをその信仰において固めるという特定のかつ第一義的な目的とし、他のすべてはこの根本的かつ最優先の要件に従って組織するという優先順位です。とりわけ法は、この目的に奉仕するものであり、カトリック信者であり続けたいと願う者、すなわち信仰によって生きたいと願う者たちを妨げたり、非難したりすることを意図したものではありません。
- FSSPX.News:なぜ、この態度を典型的な現代的なものだとお考えなのですか?
現代人は、自分が生きる現実のさまざまな要素と、それを分析するための知識とを、調和のとれた形で統合することに苦労しています。やや専門的な用語を用いるなら、現代人は、自身を取り巻く現実の要素を「唯名論的(nominalist)」な方法で分類する傾向があります。2つまり、問題の根源に迫ろうとする努力を怠り、それぞれの要素に表面的なラベルを貼るだけですませてしまうのです。その結果、それらの複雑さや含意、相互依存関係を包括的に把握することができないのです。
したがって、私たちが検討しているこの事例において、法の適用は、法そのものが本来保護すべきであるはずの現実から完全に切り離されています。まさにこの法と現実の乖離から、宗教的領域においても世俗的領域においても、典型的な近代的イデオロギー的アプローチが生まれるのです。この姿勢は、互いに補完し合う二つの明確な結果をもたらします。
保守的な環境において見られるように、この二律背反に苦しみ、このジレンマに直面する人々にとっては、それは宿命論(fatalism)や落胆へとつながります。なぜなら、人は閉じ込められ、身動きが取れず、「真」と「善」が客観的に求める要求にふさわしく、それに沿った行動をとることができないと感じるからです。この実存的な矛盾の中に絶えず生きている人々は、ついにはその犠牲となり、宿命論を天主の御摂理への信頼と混同してしまうのです。
さらに、権力を持つ者においては、それが取り返しのつかない盲目や心の硬化を招く恐れがあります。これは、状況や具体的な要請、善意にかかわらず「法は法だ」というイデオロギー的アプローチがもたらす避けがたい結果です。
それゆえ、主はこの態度を最も厳しい言葉で非難されました。「イエズスは、「私は、区別をするためにこの世に来た。見えない人が見え、見える人がめくらになるように」とおおせられた。イエズスといっしょにいたあるファリザイ人たちが、それを聞いていて、「私たちもめくらですか?」といった。イエズスは、「もしあなたたちがめくらだったら、罪はなかったろう。しかし"私たちは見える"といっているからには、あなたたちの罪はのこっている」とおおせられた。」(ヨハネ9:39–41)
- FSSPX.News:福音の教えは、何らかの形で現在の状況を照らし出すことができるとお考えですか?
主はモーゼの律法への従順の完璧な模範です。主は、至聖なる聖母マリアと共に、ご自身の存在の最初の日から、律法の規定を文字通りすべて果たされました。そして、生涯の最後の日までその厳格な遵守を守り続けられました。最後の晩餐において、イエズスは当時のユダヤ教の儀式を文字通り忠実に守られたのです。
それにもかかわらず、主は安息日にも奇跡を行われ、それによってファリザイ人たちの盲目的で律法に固執した反応を引き起こしました。モーゼ自身よりも偉大な立法者であるイエズスは、律法を最も尊重するお方であり、同時に、律法の文字通りの遵守を免除しうる、より高次の善の存在を認める最初のお方でもあります。イエズスの言葉は、いつものように、何千もの論説に匹敵する価値があります。
「ある安息日のこと、食事するために、著名なファリザイ人のひとりの家におはいりになったイエズスを、ファリザイ人たちがうかがっていた。すると、み前に、水腫にかかった人がいたので、イエズスが、律法学士とファリザイ人とに、"安息日に人をなおすことは、ゆるされているか、どうか?"とおたずねになったが、かれらは答えなかった。そしてイエズスは、その病人の手をとって、なおしてお帰しになった。それからかれらに、"自分の子か牛かが井戸に落ちたとき、安息日だからといってすぐそれを引き上げないものが、あなたたちの中にあるのか"とおおせられたので、かれらはなにも返答ができなかった。」(ルカ14:1–6)
この天主の言葉には、何の解説も必要ありません。聖ピオ十世会は、これを何の留保もなく自分のものとしています。たとえ私たちが果てしない安息日のような日々を過ごしているとしても、私たちもまた、霊魂を奈落の底から救い出すために、力の及ぶ限りのことをしなければなりません。私たちの主は、律法主義者3でも、唯名論者でも、デカルト主義者4でもありませんでした。主は「善き羊飼い」であられたのです。
- FSSPX.News:ここ数ヶ月、聖ピオ十世会以外からも、聖ピオ十世会を支持する声が上がっています。特にアタナシウス・シュナイダー司教は、司教聖別について何度か発言されています。司教のこの決意を、どのように説明されますか?
この修道会への支持は、私を深く感動させました。数名の教区司祭や司教の方々が、私たちに感謝と励ましの言葉を寄せてくださいました。皆様に心から感謝申し上げます。
ここでは全員の名前を挙げることはできませんが、とりわけストリックランド司教には、力強さと明快さ、そして勇気に満ちたメッセージをくださったことに感謝申し上げます。そしてもちろん、シュナイダー司教にも感謝します。この司教は、天主に仕える者としての真の姿、すなわち私利私欲に囚われず、霊魂の救いを心から願う人物であることを示す、並外れた勇気と率直な発言力を示してくださいました。彼の支援と、彼が語ってくださった一言一言がこの数ヶ月間の出来事は、歴史に刻まれることでしょう。これは聖ピオ十世会にとってだけでなく、世界中のすべての司教にとって、さらに重要なことであると私は確信しています。それは希望の客観的なしるしです。彼の言葉は、天主の御摂理が、いかなる時も、個人的な報復を恐れず、勇気と確固たる姿勢をもって真理を語る声を起こし得ることを示しています。
彼に先立ち、二年前に天に召されたフオンダー司教は、すでに私たちに司教聖別を進めるよう積極的に後押ししてくれていました。彼とシュナイダー司教は、ともにバチカンから「聖ピオ十世会」との対話役として任命されていました。他の対話者たちとは異なり、彼らは私たちの話を真摯に聞き、理解することができた方々です。
- FSSPX.News:聖別式が行われる前に、教皇に謁見できることをまだ望んでおられますか?
もちろん、それは私の切なる願いです。とはいえ、これまで教皇様から個人的な返答や反応が一切ないことには驚いています。
会員数が千人を超え、世界中の数十万人の信徒にとっての拠り所となっている団体を、安易に離教派と断定する前に、裁きを下そうとしている人々を直接知っておくことが望ましいでしょう。検討されている制裁は、単なる組織(しかも、ローマ教皇庁の目には存在すらしていないとされる組織)に及ぶだけでなく、教皇や教会に深く献身している個人にも及ぶのです。
貧しい人々、社会の周縁にいる人々、さらには地球そのものの叫びに耳を傾ける必要性をこれほど頻繁に想起させられるこの時期に、この沈黙を理解するのは難しいと認めざるを得ません……。
「たとえ私たちが果てしない安息日のような日々を過ごしているとしても、私たちもまた、霊魂を奈落の底から救い出すために、力の及ぶ限りのことをしなければなりません。」
- FSSPX.News:あなたは教皇フランシスコにお会いになりましたね。彼についてどのような印象をお持ちですか?
教皇フランシスコが全世界の教会に押し付けたプログラムは、十分に周知の事実であり、聖ピオ十世会によっても広く論じられてきました。残念ながら、彼が遺した遺産を要約するのに最もふさわしい言葉は、「惨事」であると私は考えています。
それにもかかわらず、教皇フランシスコは、彼なりの方法で、聖ピオ十世会が人々の霊魂のために行っている善行を認めることができました。この聖ピオ十世会に関する評価から、教皇フランシコには私たちに対する一見曖昧な態度が生まれました。それは表面的な観察者たちを驚かせ、時に保守的な界隈を深く苛立たせるような寛容の形態でした。
教皇フランシスコの多くの選択は、教会の広範な層に真の悲しみをもたらしましたが、彼が出会った人々に対する評価や、法の適用において、彼が硬直的で画一的な人物であったと非難するのは不当でしょう。彼の態度はしばしばそれを示していました。些細な点かもしれませんが、私がバチカンで彼に面会を求めた際、24時間以内に謁見が許され、彼は特に親しみやすい態度で私に接してくれました。
- FSSPX.News:近年、原理として掲げられた寛容の名の下に、バチカンは特定の複雑な状況に対して大きな開放性を示してきました。聖ピオ十世会もこの恩恵を受ける可能性があるとお考えですか?
結局のところ、法律の適用は、それが良き法であれ悪しき法であれ、立法者の意志にかかっています。聖ピオ十世会をどのように扱うかを決めるのは、立法者自身です。
とはいえ、バチカンが示してきた開放性は、それ自体を目的として望まれるべきものではありません。なぜなら、それは不自然な悪徳を犯すカップルに祝福を与えたり、他宗教の信者を改宗させないことを厳粛に誓ったりするなど、荒唐無稽な行為を正当化するほどにまで及んでいるからです。私たちは、寛容という名のイデオロギー的かつ全体主義的な独裁に直面しているのです。
さて、聖ピオ十世会が体現しようと努めている教会の聖伝そのものが、こうした逸脱に対する非難を体現しており、そのような寛容を唱える者たちにとっては耐え難いものです。状況を注意深く分析すれば、聖ピオ十世会に対して過去にも未来にも課される制裁は、聖ピオ十世会の不従順という行為そのものに対するものではなく、むしろ聖ピオ十世会が現在の教会の方針に対して「生きた非難」を体現しているという事実に対するものです。
天主の御摂理が聖ピオ十世会に与えようとしている役割は、まさに「さからいのしるし」となるという特異なものです。つまり、具体的に言えば、改革者たちの足に刺さる棘ということです。そして、この棘の特異な点は、取り除こうとすればするほど、より深く食い込んでいくことにあります。この治療効果をもたらすのは棘そのものではなく、棘が体現し代表する二千年の聖伝なのです。
聖ピオ十世会は制裁を受けるかもしれませんし、トリエント・ミサが禁止されるかもしれません…。しかしこの二千年の歴史を抹殺することは決してできません。これこそが、過去の排斥にもかかわらず、聖ピオ十世会が、教会に呼びかけ強く訴える声であり続けてきた真の理由です。また、それが聖ピオ十世会に対して寛容であることがそれほど単純ではない理由でもあります。
いつの日か、ある教皇がこの「足に刺さる棘」を取り除く決断を下す日が来るでしょう。その時、教皇は聖ピオ十世会を従順な道具として用い、私たちの切なる願いである、全てを主イエズス・キリストにおいて復興させることができるようになるでしょう。
- FSSPX.News:今後の司教聖別が分裂を招くかもしれないという話を耳にします。しかし、教会内にはすでに聖ピオ十世会を離教派と見なす者もいます。この矛盾はどう説明できるのでしょうか?
この矛盾は現実のものであり、バチカン側の「流動的」と形容しうる法解釈を浮き彫りにしています。これをより明確に見てみましょう。
教会法上言えば、1988年に離教的と宣言されて以来、聖ピオ十世会は一度もこの懲戒から解放されたことはありません。2009年、教皇ベネディクト十六世は聖ピオ十世会の司教たちにかかっていた破門を解除しましたが、それ以前の離教宣言そのものについては見直しはされませんでした。同時に、聖ピオ十世会は教義上の立場を変更しておらず、過去および将来の司教聖別について、全く同じ正当性を主張し続けています。言い換えれば、聖ピオ十世会は自身に下された懲戒措置を無効であると一貫して見なしていますが、その主張を撤回したことは一度もありません。
こうした理由から、「厳格な」教会法学者たちは、依然としてこれを離教的行為と見なしています。2019年に廃止された「エクレシア・デイ委員会」の元事務局長であるカミーユ・ペルル司教や、元使徒座署名裁判所長官のレイモンド・バーク枢機卿による明確な声明は、この意味で理解されなければなりません。
また、聖ピオ十世会を離れて公式の組織に加わった司祭たちに対する処遇についても、この同じ観点から理解しなければなりません。すなわち、彼らからは分裂による破門と職務停止が解除され、内部法廷においても赦しを受けるために告解を行うよう求められたのです。
「聖ピオ十世会が体現しようと努めている教会の聖伝そのものが、こうした逸脱に対する非難を体現しており、そのような寛容を唱える者たちにとっては耐え難いものです。」
この解釈に対抗する立場にあるのが、はるかに柔軟な姿勢を示したダリオ・カストリヨン・オヨス枢機卿5 であり、とりわけ、聖ピオ十世会を決して離教派として扱わず、聖ピオ十世会を非難することは決してないと明言した教皇フランシスコの存在です。実際、このリストには、フェルナンデス枢機卿と教皇レオ14世自身の名を入れることができるかもしれません。彼らが現在、分裂を防ぐよう努めているのであれば、それは彼らが私たちをすでに離教派とは見なしていないことを意味するからです。離教を避けるために、現在、聖別を阻止しようとしている枢機卿や司教たちについても、同様のことが言えます。
しかし、ここで二つの疑問が生じます。第一に、もし彼らがそれほど離教を恐れているのであれば、私たちがいつ、どのように、そしてなぜ彼らの目から見て「離教派」でなくなったのか、私たちには理解できません。そして第二に、もしローマ教皇庁自体が、実際には1988年の離教宣言を有効なものとしていないのであれば、全く同様の理由と状況の下で発せられた新たな離教宣言に、いったいどのような価値があるというのでしょうか。
確かなことは、1988年当時、バチカンは、離教と宣言された聖ピオ十世会が数年以内に解散するだろうと予想していたということです。しかし、聖ピオ十世会は解散しなかったばかりか、成長を続けました。そして何よりも、明らかに不当な離教宣言を受けたにもかかわらず、聖ピオ十世会は常に教会の事業であり続け、教会のために尽力し続けてきたのです。この現実はあまりにも強烈に突きつけられるため、1988年の非難にもかかわらず、聖座自身も結局のところ、事実上これを認めるに至ったのです。
この教会法上の矛盾の一因は、「部分的交わり」という「流動的」で現代主義的な概念にあります。それによれば、同一の主体が、カトリックでありかつ非カトリックである、すなわち教会の成員でありかつ非成員であると、同時に見なされることになります。明らかに、もし誰かが「部分的に」教会の子供であるならば、教会の法は、恣意的かつ変動的な基準に従って、同様に、部分的な形でしか適用され得ないことになります……。
これは、教会論上の誤りがいかにして必然的に法的な誤り、あるいは少なくとも混乱し、首尾一貫性を欠き、「流動的」な判断へとつながるかを示しています。
- FSSPX.News:離教の非難を裏付けるものとして、司教聖別は、いかなる状況下においても、常に新しい司教への裁治権の移譲を意味し、教皇の同意がない場合には、必然的に並行する教会位階階級の構造、ひいては並行する教会の形成を招くとの主張がなされています。聖ピオ十世会はこの反論に対してすでに回答しています。6 これは極めてデリケートな点であるが、何か補足したい点はありますか?
この点はまさに核心を突くものです。実際、その非難は近代主義的な前提に基づいています。第二バチカン公会議の教会論が、新たな司教は常に、いかなる状況においても、聖職権とともに裁治権も授かる、と教えている理由を理解しようと試みることは、興味深いことだと思います。
まず簡単に振り返っておくと、聖職の権能とは秘跡を授ける能力を指すのに対し、裁治権とは、通常は教区という羊の群れの一部を、「ペトロと共に、かつペトロの下に」統治する権限を意味します。聖伝による教会法、そして何よりも教会の不変の慣行――すなわち「聖伝」に従って――によって裏付けられた古典的神学によれば、統治の権能は、聖別とは無関係に、教皇によって司教に直接付与されます。これこそが、補佐司教や特定の外交任務を帯びた司教など、正式に聖別されながらも固有の裁治権を委ねられていない司教が存在し得る理由です。
「聖ピオ十世会は常に教会の事業であり続け、教会のために尽力し続けてきたのです。…聖座自身も結局のところ、事実上これを認めるに至ったのです。」
公会議当時、この見解は、あまりにも聖伝的であり、中世的であり、ローマ的すぎると見なされていました。すなわち、裁治権の付与においてキリストの代理人が直接かつ排他的に介入するという考えは、任命された司教たちを単なる教皇の代理人あるいは代表者に貶めるものだとされました。逆に、各司教が司教聖別の際に天主から直接、普遍的な裁治権を授かるという考えは、ある意味で司教を教皇と同等の存在とし、キリストの代理人の役割を単なる司教団の頭、つまり「対等な者の中の第一人者」に過ぎないとします。したがって、この新たな前提は、単に現代主義的な共同責任の理論7 ――教会の民主化の基盤――を裏付けるものでした。
もう一つの帰結として、この再定義は、より一層のエキュメニズムへと向かうものとなりました。実際、離教分裂した東方の共同体(真に離教しているもの)に一定の「教会的性格」を認め、それらを「姉妹教会」と見なし、それによってエキュメニカルな対話の強固な基盤を築くためには、ローマや教皇から完全に分離しているにもかかわらず、信徒に対する実質的な裁治権を認めるほど、それらの使徒的継承を評価する必要がありました。したがって、彼らの「教会」としての地位は、有効に聖別された司教を擁しているという事実に由来するものであり、その司教たちは、教皇によるいかなる介入からも独立して、聖別そのものから生じる霊魂に対する実在的な権威を付与されている、としたのです。
この偏向により、これらの共同体において、最も完全な意味での真の教会的位階階級が存在することを想定しやすくなりました。この事前の教会論的操作がなければ、彼らの中に真の「教会性」を認めることは不可能であったでしょう。
「単に結果を嘆くだけでは不十分であり、その真の原因を突き止めなければなりません。さらに踏み込んで、この危機の起源は、しばしば曖昧であり、時には聖伝と明らかに断絶している公式の教義にある」と認める勇気を持たなければなりません。
この同じエキュメニカルな視点に関連して、もう一つの教会論的な操作があります。それは、前の質問で言及された「部分的交わり」という弾力的な概念です。具体的には、すべてのキリスト教の「教会」が、カトリック教会よりも広大な「超教会」――すなわちキリストの教会――の一部を成し、それぞれの教義の欠陥に応じて、それとのより完全な、あるいは不完全な交わりを維持するというものです。この概念もまた近代主義的であり、他の「教会」との、いわゆる萌芽的な一致を促進することを目的としています。しかし、それは誤解を招くものです。カトリック教会とあらゆる点で交わりにあるか、あるいはそこから分離しているかのいずれかであり、中間的な立場など存在しないからです。逆説的ですが、この概念は、エキュメニカルな対話の手段として考案され、互いを「姉妹」として認める「教会」間の共通の歩みを正当化することを意図していたにもかかわらず、それを荒唐無稽だと考える聖ピオ十世会に対して用いられているのです。
聖ピオ十世会に向けられた非難の中で特に遺憾なのは、現代主義的、団体主義的、エキュメニカルな前提に基づくこの「離教」あるいは「部分的交わり」という具体的な告発が、バチカンだけでなく、「エクレシア・デイ」と呼ばれる団体や機関の特定の指導者たちによってもなされているという点です8。 逆説的ですが、彼らは第二バチカン公会議の教会論上の誤りを引用し擁護することで、聖ピオ十世会を攻撃しているのです……。建設的な形でこれらの誤りを指摘する――理論上は可能であったはずです――代わりに、彼らはそれを聖ピオ十世会を石打ちにするために利用しています。とはいえ、それらはゴム製の石に過ぎません。
- FSSPX.News:教会内の裁治権と権威に関して、聖ピオ十世会は、修道女や信徒を責任ある役職に任命する可能性をどのように分析しているのでしょうか?
この問いは極めて適切です。特に、現在、ローマ教皇庁の修道会の省が、長官と秘書にそれぞれ枢機卿と司教を置くのではなく、二人の修道女に委ねられていることを考慮すればなおさらです。皮肉を言うつもりはありません。それは礼を欠くことになるからです。私は、バチカンが独自のやり方で、聖職権と裁治権の付与とを依然として明確に区別できることを証明している、という点を指摘するにとどめておきます。実際、私の知る限り、現職の局長であるシモーナ・ブランビッラ修道女(Sr Simona Brambilla)は、助祭、司祭、あるいは司教の聖別を受けたことは一度もなく、聖職者の剃髪さえ受けていません。秘書を務める修道女についても同様です。
- FSSPX.News:聖ピオ十世会以外でも、現在では多くの人が、教会内部、とりわけ信仰の分野において危機が存在することを心から認めています。しかし、聖ピオ十世会に対しては、他の見解の存在を十分に考慮せずに、独自の行動方針に固執して孤立しているとして非難する声もあります。この批判は妥当なものだとお考えですか?
聖ピオ十世会はこの点において、まさに核心を突いていると思います。私たちの多くは、教会に危機が存在するばかりか、その危機が信仰そのものにも及んでいるという点で意見が一致していますが、聖ピオ十世会はこの事実を認め、裏付けています。
しかし、真の原因を突き止めずに、単にその影響を嘆くだけでは不十分です。さらに踏み込んで、この危機の根源が、しばしば曖昧であり、時には明らかに聖伝に背く公式の教義にあることを認める勇気を持たなければなりません。具体的に言えば、現在の危機には、教会の指導層が提供する教義そのものにおいて教会位階階級に影響を及ぼしているという、この特異な性質があることを認識しなければならないのです。
さて、このような状況において、現実を直視してそのまま言わざるを得ません。誤りは、それを指摘できる立場にある者たちによって、明確に認識され、非難されなければなりません。それらを見ないふりをしたり、時が経てば消えていくことを期待したりするだけでは不十分です。例えば、『アモリス・レティチア』や『フィドゥチア・スプリカンス』といった文書は、当時大きな騒動を引き起こしました。その後、事態は沈静化し、人々は他の話題に移り、今ではほとんど誰もそれらについて語らなくなりました。しかし、それらに含まれる決定や誤りは依然として有効であり、忘れ去られることを願ったところで修正されるわけではありません。
聖ピオ十世会は、信徒に対してだけでなく、教会指導部に対しても、このことを改めて主張するために存在しています。聖ピオ十世会は、これを自分の義務と捉えていますが、それは反抗や不従順の精神からではなく、教会への奉仕として行っているのです。この意味で、聖ピオ十世会が自分を孤立させていると言うのは正しくありません。聖ピオ十世会は教会全体に向けて語りかけ、迷いを持つすべてのカトリック信者に、区別なく呼びかけているのです。
イデオロギー的な偏見を持たずにこれらの問題に接する者にとって、一つの事実は否めません。すなわち、断絶は聖ピオ十世会に起因するものではなく、公式の教義が聖伝および教会の不変の教導権から著しく逸脱していることに起因するものです。
「聖ピオ十世会は、歴史上のすべての教皇――例外なく――と、彼らが共有する「信仰の遺産」、すなわち何世紀にもわたって忠実に受け継がれ、守られ、伝えられてきたものにおいて、完全な一致を保ち続けているのです。」
- FSSPX.News:どうして教会の公式の教えに誤りがあるというのでしょうか?
この問題は極めてデリケートかつ複雑であり、何が起こったのか、そして今日なお何が起きているのかについて、満足のいく決定的な説明を提示できるのは、いつの日かの教会だけです。確かなことは、いわゆる教会の教導権によっては誤りが教えられることはあり得ないということです。しかし、事実として残るのは、残念ながら、私たちはいくつかの重大な誤りの教えに直面しているということです。しかし、それが明示的に教義的ではないことを意図した公会議の文書であれ、単なる司牧的勧告、説教、あるいは偶発的な発言であれ――あるいは、世との対話、飛行機内での即興の演説、ジャーナリストとの会話であれ――非教義的な要素がそのようなものとして提示される場合、それは真の教導権には該当しません。
一例を挙げれば、ある著名なローマの高位聖職者が最近、アブダビ宣言は単なる状況に応じた文書に過ぎないため、教導権に属するものとは見なすべきではないと私に説明してくれました。私が思うに、いつか、少しの柔軟性と良識をもって、ある教皇が技術的な意味での教導権とは見なせない一連の問題のある文書について、同様の見解を公に表明する日が来るでしょう。ローマ教皇庁は、必要な区別をつけることにおいて比類なき経験と巧みさを備えています。欠けているのは、そうしようとする意志だけです。
いずれにせよ、決定的な説明を行うのは聖ピオ十世会ではなく、教会そのものです。私たちの役割は、聖伝および不変の教導権に背くあらゆるものを、忠実に拒絶することに限られています。そうすることで、聖ピオ十世会は、歴史上のすべての教皇――例外なく――と、彼らが共有する「信仰の遺産」、すなわち何世紀にもわたって忠実に受け継がれ、守られ、伝えられてきたものにおいて、完全な一致を保ち続けているのです。
- FSSPX.News:典礼の分野をはじめ、教会の生活の多くの領域において、乱用が存在することは明らかです。なぜ聖ピオ十世会は、乱用ではなく常に「誤り」について語るのでしょうか?
改革そのものの限界を超えた乱用が存在することは明らかです。聖ピオ十世会はこの事実を難なく認めています。
しかし、特に教皇ベネディクト十六世の在位中に流行した、乱用に関する絶え間ない言説だけでは、この危機を説明するには不十分です。それどころか、それは問題の根本に迫ることを妨げる、体系的な言い訳さえ生み出しています。例えば、典礼改革には、いかなる乱用とは無関係に、その原理そのものに起因する困難が確かに存在します。別の例を挙げれば、エキュメニカルな祈りや異宗教間の祈りは、たとえ乱用と見なされることを避けるために、明示的な融合主義の行為を避けようとしたとしても、神学的な誤りの表れです。
何よりもまず、典礼の乱用や聖書の解釈における乱用を論じる際、現在の惨状の根源にある誤った原理そのものではなく、関与した人々――すなわち、こうした乱用の責任を負う者と見なされたり、それを抑止できない者と見なされたりする人々――が非難の対象となりがちです。しかし、まさにこれらの原理こそが、非難されるべきなのです。
「これは反逆の問題ではなく、残酷な必然性への対応の問題です。」
私はここ数年、ある近視眼的な保守派の層による、辛辣かつ組織的な反応に衝撃を受けてきたことを認めざるをえません。彼らは、公会議や、その教理が今日に至るまでの継続的な適用ではなく、教皇フランシスコという人物そのものを、極めて個人的な形で攻撃してきたのです。このような態度とは、新しい教皇が選出されるたびに、少なくとも数ヶ月間は危機からの回復を期待する、というものです。それは、あたかもすべてが、不正を非難したり抑圧したりする意志を多かれ少なかれ持っている新しい教皇の個人的な意志にかかっているかのように、新しい原理そのものを問うることなく期待するのです。これは、注意深く誠実な観察者をもはや納得させない、表面的なレトリックに過ぎません。
- FSSPX.News:聖ピオ十世会がこれまでにも繰り返し強調してきたように、今日、普通の教区において真のキリスト信者としての生活を送ることは不可能であるとする見解は、総長様にとって誇張に思えませんか?この主張の根拠とされる「やむを得ない状況」は、それほど明白なものなのでしょうか?それは、聖ピオ十世会が必要とする司教聖別を正当化するために考案された、都合の良い概念ではないのでしょうか?
聖ピオ十世会はこの主張が持つ悲劇的かつ痛ましい性質を十分に認識しています。これは極めて重大な考察であり、十分に理解される必要があります。
まず第一に、普通の教区が直面するあらゆる問題や欠陥にもかかわらず、善良な司祭や善良な信徒が、それでもなお自分を聖化し、自分の霊魂を救うことに成功し得るという事実を否定するつもりはありません。根本的に不利な状況にあっても、天主の恵みは霊魂に触れることができ、そのような事例は知られています。さらに多くの人々にとって、その置かれた状況における真の苦しみこそが、真の聖化の源となり、しばしば彼らを聖伝の探求へと駆り立てるのです。
とはいえ、聖ピオ十世会が主張する内容は、主観的なレベルではなく、客観的なレベルで理解されなければなりません。これらの教区の状況を真に評価するためには、善意を持つ一人ひとりが、天主の前で祈りつつ、肯定や否定の印象やイデオロギー的な偏見に左右されることなく、信仰によって照らされた理性によって導かれる超自然的な答えを求めて、自分に明確な問いを投げかけることが求められます。
パウロ六世のミサは、カトリックの信仰を十分に表現し、養うことができるのでしょうか。
それは、聖なること、超越性、超自然性、天主性という感覚を十分に伝えているのでしょうか。
この典礼は、カトリックの司祭職の真の意味を把握することを可能にしているのでしょうか。
一般的な教区や司牧センター、すなわち、現在の教理的指針に沿って説教が行われている場所において、カトリックの信仰は依然としてその完全な形で教えられているのでしょうか。
子供たちに提供されているカテキズムは、依然としてカトリック的であり、子供たちの一生を通じて彼らを形作る力を持っているのでしょうか。
夫婦の道徳や、不規則な状況下における聖体拝領といった、極めてデリケートかつ差し迫った問題について、依然として教会の法に従って対処されているでしょうか。
告解の秘跡は、贖罪と罪、その重大さと結果に対する真摯な認識をもって、依然として授けられているでしょうか。
より一般的に言えば、これらの改革は、信徒たちの実際の生活において、全体としてどのような成果をもたらしたのでしょうか。
これらすべての問い、そして同様の性質を持つ他の問いに対し、聖ピオ十世会は明確かつ首尾一貫した答えを示しています。そして、現実を直視せざるを得ないことから、この分析を出発点として、「やむを得ない状況」を認定するに至るのです。
したがって、聖ピオ十世会の主張は、イデオロギー的な先入観によるものではなく、健全な現実主義の産物です。この評価の悲劇的な性格は、単純に現実の悲劇に見合うものなのです。
- FSSPX.News:聖ピオ十世会が、たとえ善意からであっても、再び家族や聖伝の世界、そして教会そのものを引き裂く危険を冒しているとは思いませんか?
おそらく、教会が今日ほど分裂を経験したことはかつてなく、それを喜ぶ者は誰一人としていないでしょう。
しかし、この分裂は聖伝への忠実さから生じるのではなく、むしろ聖伝からの逸脱によって引き起こされているものです。教導権の危機、曖昧さ、誤り、文化適応といった要素が、あらゆる事柄を解釈し、再解釈することを強います。その結果、判断の分かれ道が増え続け、長い目で見れば、必然的に分裂を招くことになります。よく知られた比喩を用いるならば、まさにこれらすべてが、キリストの上着を引き裂いているのです9。聖ピオ十世会は、聖伝への忠実さを通じて、単にその衣を縫い直すことに絶えず貢献しようと努めているに過ぎません。
すべての聖伝主義者が協力し、共に闘う可能性について言えば、聖ピオ十世会はこれを心から望んでいます。しかし、それは一種の「ミニチュア版エキュメニズム」を通じて達成されるべきではありません。この開かれた闘いが、私たちに同意しない人々を含め、すべての人々の利益となるためには、聖伝全体に対する完全な忠実さの中でしか実現し得ないのです。
「真の一致、すなわち永続的で揺るぎない一致の唯一の基盤は、教会の聖伝にある」
最後に、同じ家族内での分裂の可能性について言えば、私たちは、不快感を覚えたり、苦々しさに陥ったりすることなく、苦しむ人々を支えつつ、主のこの言葉を勇気を持って思い起こさなければなりません。
「私が地上に平和をもって来たと思ってはならない。平和ではなく、剣をもって来た。つまり、私は、息子をその父から、娘をその母から、若い嫁を姑から分れさせるために来た。人は、自分の家の者を敵にするだろう。私よりも父や母を愛する人は、私にふさわしくなく、私よりも息子や娘を愛する人も私にふさわしくない。」(マテオ10:34–37)
- FSSPX.News:振り返っての質問です。聖ピオ十世会が現在直面しているこの状況は、古参の会員たちの中に、1988年の記憶と感情を呼び覚ましています。間違いなく、この年はルフェーブル大司教の活動において決定的な転換点となりました。聖ピオ十世会の創設者による宣言の中で、何よりもまず思い浮かぶのはどれでしょうか?
ある私的な会話の中で、ルフェーブル大司教は、バチカンと対立するよりは死を選ぶ方がましだったと打ち明けました。これは、彼が1988年の司教聖別にどのような心構えで臨んだかを物語っています。当時も、そして今も、それは反逆ではなく、残酷な必然性への対応に他ならなかったのです。それは必要かつ避けがたい決断ではありましたが、極めて不本意なうちに下されたものでした。
また別の機会に、ルフェーブル大司教は、穏やかでありながら深く超自然的な口調で、聖ピオ十世会が天主の御業でなければ、それは存続せず、彼の一生を超えて生き残ることもないだろうと宣言しました。この問いに対する答えを出すのは、私たちの仕事ではありません。しかし、歴史はすでにその答えを示し始めているのです。
- FSSPX.News: あなたのご見解では、教会の危機はいつ、どのようにして終結し、それに伴い、教会の内外に見られるこの全般的な崩壊感は解消されるのでしょうか?
この問いに対する正確な答えは、天主のみがご存知です。私としては、団体主義、シノダリティ、エキュメニズム、対話、傾聴、包摂、共有された環境問題への関心、人類的な兄弟愛、人権の絶え間ない宣言などを通じて、平和と一致を必死に、しかし徒労に、終わって求めてきた末、権威者たちは――あまりにも遅すぎるのですが――真の一致、すなわち永続的で揺るぎない一致の唯一の基盤は、教会の聖伝にあるのだと、ついに悟ることになるでしょう。
こうして、危機があらゆる結果を露呈し、背教がさらに蔓延し、教会が空っぽになったとき、これらの権力者たちはようやく、何も新たに作り出す必要などなかったことを理解するでしょう。必要なのは、ただ王であるキリストに忠実であり、初期の殉教者たちの模範に倣い、新異教的な世界に対して、キリストの侵すことのできない権利を宣言することだけだったのです。
一つ確かなことがあります。教会の自己破壊がローマから生じた以上、この恐ろしい危機に終止符を打つのも、ローマから、そしてローマを通じてのみです。それにもかかわらず、教会の再建の種はすでに働き始めています。それらは、主の霊によって生かされた霊魂の中で、謙遜に実を結んでいます。その霊魂の中で、いつの日かイエズス・キリストの王権をその輝きとともに回復させる者たちの到来が、静寂のうちに準備されているのです。
「この恐ろしい危機に終止符を打つのも、ローマから、そしてローマを通じてのみです。」
確かに、この危機は誰もが想像していた以上に長く続いています。私の拙い見解では、これは今日の教会が反応すること自体に内在する困難によるものです。健康な身体であれば、自分を襲う病原体に対して比較的容易に反応することができます。しかし、身体が弱れば弱るほど、それは困難になります。同様に、私たちが直面しているこの危機は、すでに衰弱していた精神――衰弱は改革のずっと前から始まっていました――に対し有害な思想の原理が襲いかかったことによって引き起こされたのです。
しかし、あらゆる試練においてそうであるように、私たちは天主の御摂理が働いていることを見出し、忍耐をもって身を守る必要があります。危機が長引けば長引くほど、またサタンが猛威を振るえば振るうほど、聖伝の勝利はより輝かしいものとなり、何よりも、教会が揺るぎなく天主のものであることが、世界に対してより鮮明に示されることになるでしょう。
「地獄の門もこれに勝てないだろう」(マテオ16:18)という主の約束が、今日ほど私たちに喜びと希望を与えてくれたことはかつてありません。
さらに、この勝利の確信は、あらゆる異端を打ち砕く御方によって何よりも確かなものとなっています。「最後には、私の汚れなき御心が凱旋するでしょう。」
2026年4月19日、メンツィンゲンにて行われたインタビュー
善き牧者の主日
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1 この秩序は、信仰の伝達に基づくものであり、教会法の古典的な概念です。多くの著者のうちの一人を引用すれば、「Ut patet fundamentum vitæ supernaturalis Ecclesiæ curæ et potestati concreditæ est fides;信仰こそが、教会の配慮と権能に委ねられた超自然の生命の基礎であることは明らかである。」 したがって、法は信仰に関わるすべての事柄を有機的に規定しなければなりません。つまり「quæ respiciunt fidei prædicationem, explicationem, susceptionem, exercitium, professionem externam, defensionem et vindicationem、 信仰の宣教、その説明、受容、実践、外的な表明、防衛、および誤謬の反駁に関わるすべての事柄」を規定します。『Gommarus Michiels OFM Cap., Normæ generales juris canonici』(パリ、1949年、第1巻、258頁)より。
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【訳注:唯名論 (nominalism)は、普遍的概念は現実に対応しないと主張し、諸概念の客観性を否定する。名前があっても、その名前は現実の本当の意味を成さない、という主張だ。したがって、現実はどうであれ、名前・レッテルだけが物事を決定すると主張する。
唯名論の影響を受けたルターはプロテスタント主義を作った。ルターによれば人間の本性(nature)は救いようもなく堕落しているので、天主でさえも恩寵によって現実に人間の罪を赦し義とする(義化)ことができない、人間は永久に哀れな堕落した罪の状態に留まるが、しかし罪人を救うキリストを信頼することによって天主は人間の罪の上にマントをかけるように罪をないかのように義人であるとみなす(義認)、とされる。ルターの唯名論は、自然本性と自然理性への根本的な軽蔑にほかならない。】 - 3
【訳注:ここで言われている律法主義(legalism)を実定法主義あるいは「法文一本主義」と理解すると、唯名論から、実定法主義が生まれたと言える。「実定法」とは、某国において、ある時期に効力を有している法全般を指すが、「実定法主義」を奉ずる者たちは、これ以外の一切の法(すなわち自然法ならびに神法)の存在を認めない。実定法主義の見解によれば「国家こそが全ての法の源泉であり…、法律の領域は実定法に限られる。実に実定法は、ことごとく国家の意志に存するのである。国家に由来するもの、国家が望むところのもの、これこそが法なのである。(「法とは発布されるところのものに他ならない」)」(G. CORNU「民法」(Droit civil. Introduction au Droit)2007 p.137~)実定法主義の教説によれば、現行の法律以外には、いかなる法も認められず、法とは、合法的な権威(例えば国会)から発出する諸規範以外の何物でもない。しかるに実定法の規範の内容については、これらが正しいもの、あるいは不正なものであるかは、全く問題とならない。したがって法律は、法自体の上位に位置する超越的な秩序に依拠せず、唯これを発布する権威者の意志にのみ依存することとなる。実定法主義は、実定法よりも上位の法の存在、つまり"誰によって制定されたのでもなく、いかなる立法者によっても廃止され得ない不変かつ普遍的な諸法"を否定する。】
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【訳注:デカルトは、世界を思惟(精神・霊魂)と延長(物体)という全く異なる二つの実体からなり、この二つはそれぞれ独立した実体だと主張した。デカルトはまた信仰と理性を切り離し、信仰と理性が矛盾することを可能だと考えた。
キリスト教哲学は、聖トマス・アクィナスと共に、霊魂が物体を生かして優位にあることを教えている。聖トマス・アクィナスは、信仰の真理と理性の認める真理とは共に同じ天主を創造主としているので矛盾はあり得ないとした。】 - 5
カストリヨン・オヨス枢機卿は2000年代に何度か、聖ピオ十世会について「離教状態にあるわけではない」と述べ、聖ピオ十世会は「不規則な教会法上の状況」に置かれており、教会内で正規化されるべきであると指摘していた。
- 6
2026年2月18日付、ダヴィデ・パリアラーニ神父からヴィクトル・マヌエル・フェルナンデス枢機卿への書簡、付録 2。
- 7
この教義は、司教団そのものを、教皇と並ぶ教会における第二の最高権威とみなしています。その結果、教会を一種の常設の公会議へと変貌させ、司教会議の包括的な権限や進行中のシノドス改革を正当化しようとする傾向があります。
- 8
特に、聖ペトロ司祭兄弟会の創立者であるヨゼフ・ビジグ神父と、聖ヴィンセント・フェレール兄弟会の創立者であるルイ=マリー・ド・ブリニエール神父の研究が注目されます。
- 9
【訳注:ヨハネによる福音書19章にはこうある。「兵卒たちはイエズスを十字架につけてから、そのお服をとって四つにわけ、おのおのその一つをとり、また、上着もとったが、その上着は縫い目なしで、上から一枚に織った布であった。そこでかれらは、「これは破るまい。籤をひいて、だれがとるかきめよう」といい合った。それは、「かれらは、たがいに私の服をわけ、私の上着を籤にした」という聖書のことばを実現するためであった。」キリストの縫い目のない上着は、カルタゴの聖チプリアノ(三世紀)の時以来、キリスト教の一致の象徴として理解されてきた。この上着はフランス革命の時に切断されてしまったが、後に縫い直されて、フランスのアルジェントユ(Argenteuil)の大聖堂に安置されている。】