パリャラーニ神父:ティシエ・ド・マルレ司教の葬儀での説教
聖ピオ十世会総長ダヴィデ・パリャラーニ神父は、ベルナール・ティシエ・ド・マルレ司教の葬儀(2024年10月18日)での説教の中で、ティシエ司教の聖ピオ十世会と聖なる教会に対する模範的な忠誠を強調しています。素朴で、絶え間なく、熱烈な人物だったティシエ司教は、多くの試練にもかかわらず、たゆまぬ献身をもって奉仕しました。彼の生涯の中心は、聖伝のミサと王たるキリストの統治を守ることでした。ティシエ司教を失ったことを悲しみつつも、本会はティシエ司教の残した模範に慰めを見いだすとともに、将来に向けて摂理に身を委ね続けます。
YouTubeで、モンシニョール・ベルナール・ティシエ・ド・マルレの葬儀(Funérailles de Mgr Bernard Tissier de Mallerais - Écône - 18 octobre 2024)をご覧ください。
総長による葬儀での説教
父と子と聖霊との御名によりて。アーメン。
司教様方、親愛なる同僚の皆さま、敬愛すべきシスターの皆さま、親愛なる信者の皆さま、
はじめに、ティシエ司教様のご遺族、とりわけ本日ここにご列席のご家族の皆さまに、心からのお悔やみを申し上げたいと思います。ティシエ司教様の霊的家族として、私たちは皆さまと悲しみを共にしております。
そうです、今日、本会は本当に喪に服しています。大きな損失です、司教の喪失なのですから。いわば、本会の歴史の一ページを失ったのです。私たちの歴史における非常に美しい一ページです。
しかしながら、この喪失と、私たちが今服している喪は、司教様が私たちに残してくださった模範という慰めによって相殺されます。常にご自身の言葉を守られる私たちの主は、「盗人のように」来られて、司教様を連れて行かれました。私たちは、このような突然の死に対する準備をしていませんでした。しかし、その思慮深さゆえに、私たちの主は、司教様がちょうどミサを捧げようとしておられたときに来られ、司教様を連れて行かれました。そのとき、ティシエ・ド・マルレ司教様は意識を失われたのです。司教様の最後の行動は、ミサの聖なるいけにえを捧げに行かれることだったのであり、その数日後に亡くなられました。
それは確かに偶然ではありませんでした。ミサの聖なるいけにえこそが、司教様の存在理由でした。司教様がマルセル・ルフェーブル大司教を探し求めておられたのは、ミサへの忠実さを探し求めておられたからです。ティシエ司教様は、新しいミサが公布された同じ年にルフェーブル大司教のもとに行かれ、そして、聖伝のミサに忠実であり続けられたのです。そして今、天主さまは、司教様の準備が整ったと見なされました。新しい典礼、永遠の典礼に参加する準備ができたのです。この典礼においては、司祭と司教が絶え間なく、「屠られた小羊を見よ ―― 私自身が司祭としての生涯を通じていけにえとして捧げてきた小羊を ―― 永遠の栄光と誉れを受けるにふさわしい小羊を見よ!」と歌います。
聖パウロがティシエ司教を描写した
ティシエ司教様の肖像を一言でスケッチするのは、それほど難しいことではありません。なぜなら、すでに二千年前に、聖パウロが行っていたからです。聖パウロは、司教に何を求めているのでしょうか。これこそが聖パウロが言っていることであり、それがいかに完璧に司教様に当てはまるかがお分かりでしょう。まさに司教様の司祭職と司教職の状況が、二千年前に聖パウロによって描写されているのです。
「私は、天主の御前で、また生きている人々と死んだ人々を裁かれるキリスト・イエズスの御前で、その現れと御国のために、あなたに切に願う。み言葉を宣教せよ。よい折があろうとなかろうと即座に論じ、とがめ、懇願し、すべての忍耐と教えをもって戒めよ」【ティモテオ後書4章1-8節】。
さて、ティシエ司教様が行う方法をご存じだったことは、まさにそれです。司教様は率直で、誠実で、正直で、偽りのないお方でした。司教様は確固として、揺るぎなく、妨げられることなく、自由に真理を宣べ伝え、自由に真理を語り、自由に私たちの主イエズス・キリストにお仕えになったのです。
聖パウロは続けて言います。「人々がもはや健全な教えを忍ばず、私欲のままに、耳に快いことを聞かせる教師を集め、真理から耳をそむけ、作り話に耳を傾ける時が来るであろう」。
これはまさに、今日のカトリック教会が置かれている状況を、本当に正確に言い表しています。教会人は作り話に耳を傾けています。エキュメニズムは作り話です。世俗主義【=政教分離主義】は作り話です。シノドスは新たな作り話であり、別の作り話を生み出すでしょう。1969年当時、このことを理解しておられたとは、何という恩寵でしょうか! ルフェーブル大司教を探し求め、大司教を見つけ、大司教に忠実であったとは、何という恩寵でしょうか! そのような作り話を信じなかったとは、何という恩寵でしょうか!
「しかし、あなたはすべてを警戒して労苦し、宣教者のわざを行い、あなたの務めを果たせ。慎み深くあれ」【ティモテオ後書4章5節】。「あなたのわざを警戒せよ」とは、常にイエズス・キリストを宣教し、常に真理を宣教しなさい、ということです。「宣教者のわざ」とは、私たちの主イエズス・キリストをありのままに、何も変えることなく、たとえ耳に快くなくても宣教することです。「あなたの務めを果たせ」とは、あなたの義務を最後まで成し遂げなさい、ということです。「慎み深くあれ」。これは非常に興味深いことです! ティシエ司教様は、非常に質素で慎み深い生活の模範を私たちに残されました。この質素さ、この清貧さ、この子どものような霊魂(これを最後まで保っておられました)が、司教様の忠実さの秘訣であり、鍵であったことは確実です。
そして、私が皆さまとともに、しばらく黙想したいと思っているのは、とりわけ、このティシエ・ド・マルレ司教様の忠実さです。なぜなら、司教様の忠実さが、ご生涯を完璧に要約しているからです。ルフェーブル大司教への忠実さ、本会への忠実さ、そしてカトリック教会への忠実さです。
ティシエ司教の忠実さ
本会に忠実であることは教会に忠実であることを意味する、という考えに関して、司教様は非常に明確でした。教会への忠実と本会への忠実の間で選ばなければならないという誤ったジレンマを、司教様は明確に非難されました。「違います! 本会に忠実であることは、教会に忠実であり続けるために天主の摂理が私たちに与えてくださった手段に忠実であることと同義です。選択する余地はありません!」。そして、ティシエ司教は、常にそのことを非常に、非常に明確にしておられました。
時間を超えた忠実さ、それこそが本当に偉大なものです! ティシエ司教様は、1969年、本会が設立される前でありながら、そして何が起こるか分からないままに、ルフェーブル大司教を探し求めた最初の神学生の一人でした。司教様は、ただ信仰と、私たちの主にお仕えしたいという願望によって導かれたのです―それも1969年当時に! 私たちにとっては、後から振り返ってみれば、私たちは何が起こったかを知っています。しかし、1969年には、神学生はほんの一握りだけで、その半数は本会が設立される前に去ってしまうのです。司教様は、今日まで、つまり2024年まで、いかなる信仰を持ち、いかなる忠実を誓っておられたのでしょうか! これこそ、時を超えた真の忠実さです。司教様の忍耐は、時を超えた忠実さです。これが、司教様の持っておられた揺るぎない忠実さなのです。
司教様はまた、逆境の中でも忠実さを示されました。司教様がルフェーブル大司教の伝記に記されたすべての問題、また本会の創立者が遭遇したすべての困難は、注意深く忠実な弟子でもあった直接の証人の目、注意、心で記されており、司教様は天主のみわざが常に十字架を通して実を結ぶことを最初から理解しておられました。そうです、その通りです、全能の天主は、まさに最初から本会を労苦なしにさせるおつもりはなかったのです。十字架は私たちが常に出会うものであり、それは本会が天主のみわざであることのしるしなのです。
そして、この忠実さをもって、またこの同じ忠実さによって、ティシエ司教様は、大司教のすべての教えを含め、大司教の生涯のすべての出来事を率先してまとめ、整理し、研究した功労者です。忠実な弟子として、司教様はルフェーブル大司教の遺産がほんの少しでも失われることを望まれませんでした。
ルフェーブル大司教の思想が、若い世代に、私たち全員に、そして将来の世代にも忠実に伝えられることを、司教様は常に望んでおられました。このことは、ルフェーブル大司教のメッセージを守り伝えることを目的とする仕事にとって、極めて重要な関心事です。それは、聖ピオ十世会の仕事です。ルフェーブル大司教が、「私は、自分が受けたものを伝えた― Tradidi quod et accepi.」という聖パウロの言葉を自分のものとしたいと願ったように、聖ピオ十世会のどの会員よりも、司教様はこの聖パウロの言葉をご自分のものとすることがおできになる、と言えるでしょう。
私は、自分に与えられたものを、何も手を加えることなく、弟子としての忠実さをもって、弟子としての謙遜をもって、受けたとおりに忠実に伝えました。謙遜な者であればあるほど、受けた宝を伝えるときに、より忠実な者になります。何も手を加えず、そのまま伝えるのです。
まさにこの宝のおかげで、ティシエ司教様は、真に才能ある人物として、忠実に伝えることができたのですし、またルフェーブル大司教の忠実な伝記作者として、司教様はルフェーブル大司教の思想やお言葉を、ある中心の理念のまわりにまとめることがおできになったのです。この理念は、説教や講話の中で体系的に繰り返しでてくるものであり、それが、王たるキリストという理念です。
これは、ティシエ司教様にとって司教のモットー以上のものでした。それは、霊魂に対する、良心に対する、個人に対する、教会に対する、そして家庭と社会全般に対する私たちの主の権利という、司教様の司教使徒職全体を導く星であったと言えるでしょう。司教様は何度も何度もこの問いに立ち戻られました。それはまさに、司教様がすべてを再構築し、再編成なさった中心的な思想でした。
ティシエ司教様のこの忠実さは、単に理論的な原理への忠実さではありませんでした。この忠実さは、司教としての義務を最後まで果たすという形を取りました。私は間違いなく、このことを直接目撃しています。司教様は、最期まで、いや、ご自分の力を超えてまで、本会に仕えようとなさったのです。司教様は年齢を重ねておられても、信じられないようなお方でした。
この強さはどこから来たのでしょうか。この強さの源は何だったのでしょうか。それは、司教様の私たちの主に対する愛と、本会への愛から来たものです。また、私は保証します。司教様に対して、たぶん旅を少し減らしたり、仕事を少し軽くしたりするようと、私たちが試みるたびに、私が試みるたびに(一人称単数形を使うことをお許しください)、私がお勧めしようとするたびに、それは無駄だったのです! できませんでした! 私は失敗し続けました!
しかし、これらすべてが、私のティシエ司教様に関する最高の思い出となりました。それはまた確実に、本会の全会員にとっての模範でもあります。私たちの強さを、私たちの主イエズス・キリストから引き出すこと。私たちが持っている肉体的な強さを超えた強さ、私たちを人生の最後の瞬間まで連れて行くであろう強さを見いだすこと。私たち全員にとって、何と素晴らしい模範でしょうか。
本会の将来
当然のことながら、私たちは皆、これからどうなるのだろうか、と心配しています。私たちは司教の一人を失ったのです。本会はこの喪失にどのように対処するのでしょうか。そして何よりも、本会は将来にどのように対処するのでしょうか。特に近い将来に、そしてそのことが意味するあらゆることに。
さて、本会は、このような司教を与えてくださった天主の摂理に感謝しながら、深い静寂の中で、祈りの中で、この瞬間を生きています。本会は何事に対しても急ぎません。本会はただ摂理のしるしに従っているだけです。
この天主の摂理は、最も危機的で困難な瞬間に、常に私たちを助けに来てくれました。この同じ天主の摂理は、1969年、24歳の青年が自らを天主にお捧げしたとき、ティシエ司教様が亡くなるまで毎日導いてくれました。この同じ摂理が、カトリック教会史上最悪の嵐の中で本会を導いてきたのであり、天主の摂理は今日も、また明日も、私たちを見捨てることはないと、私たちは知っています。
天主の摂理は、私たちを助け、私たちを援助するためにここにあることを、すでに十分な頻度で私たちに示しています。ですから、今日の私たちの悲しみには、天主の摂理に対する新たな確信が一緒に混在しています。
では、何が変わるのでしょうか。この瞬間、変わるのは一つのことだけです。それは、この地上では、司教が一人少なくなったものの、永遠においては、本会を見守る特別な方としておられる、ということ、それに気づくこと、それを認識することです。私たちには、永遠に私たちを見守り続けてくれる新しい保護者ができました。私たちには、彼の祈りによって私たちを助け続け、彼が私たちに残してくれた思い出を通して、そして特に彼の模範を通して、私たちが進むべき方向を示し続けてくれる人がおられます。それが変わったことです。
また、ここ数日間、本会に寄せられた祈りとメッセージについて、皆さまに感謝したいと思います。これらのメッセージは、誰もが司教様に対して抱いておられた大いなる敬意と、誰もが本会に対して抱いておられる愛着の両方を物語っています。私は、これらのすべての祈りに対して皆さまに感謝申し上げますとともに、言うまでもないことですが、ティシエ・ド・マルレ司教様の霊魂の安息のためにも、また、この歴史的な時にある本会のためにも、皆さまが引き続き祈り続けてくださるようお願いする次第です。
私たちは、これらの意向を童貞聖マリア様にお委ねします。ティシエ・ド・マルレ司教様は、聖母への大いなる信心をお持ちでした。司教様は、本会の聖母への信心を映し出しておられました。ですから、私たちが確信しているのは、何よりも聖母の御保護の下においてこそ、本会の将来が、過去と継続しつづけ、また、本会の歴史――今日まで展開されてきた歴史――に継続しつづけることです。そして、とくにティシエ司教様が、この歴史を実際に生き、代表することができた本会の歴史につながり続ける、と。
父と子と聖霊との御名によりて、アーメン。
京都の元離宮 二条城にて
京都の二条城の日本庭園にて